その13 海から来るもの
緊迫した状況にも関わらず、どこか間延びした少女の言葉に最初に反応したのはエレナだった。レオン達から片時も目を離さず、彼女は口を開いた。
「ターニャ、今は……」
「でも、あれ……」
エレナに諭されながらも、ターニャが海の方を指さす。
彼女とて、今のこの状況はさすがに理解しているはずだ。それなのに、この少女は海の方にある何かを気にしている。気にせざるおえないほどの何かが、そちらにあるのだ──。
エレナは、ターニャの様子に尋常でないものを感じ取ったようだった。レオンたちを警戒するような目つきで一瞥した後、視線を海へと向ける。
それにつられるように、レオンも彼の手下たちも海の方を見た。
そして、全員の視線が海から離せなくなった。
浜より少し小高い場所にあるここからは、広く海を見渡すことができる。彼らの視線は、その海の沖合の一点に集まっていた。
「……なんだ、ありゃあ?」
思わずレオンは呟いた。
水平線まで広がる青い海。その一カ所だけ、円形に色の異なる場所があった。まるでそこだけが墨であるかのようにどす黒い。
しばらく見ていると、その黒い円がわずかながら動いていることが分かった。徐々に浜に近づいてきている。黒い円が通り過ぎた場所は、船の航跡のように薄墨色の水が尾を引いていた。
遠目ではあったが、レオンはその黒い水の中心に何かが存在することに気づいていた。丸い小さな何かが浮いているように見える。
いや──
そうではない。
小さくはないのだ。
水面上に見えているものの下に、もっと大きな本体があるようにレオンは思った。水中の岩が少しだけ水の上に顔を出している様子に似ている。
だが、それが岩ではないことは明白だった。
その何かは、常に黒い水の円の中心にある。
つまり、動いているのだ。
水中にある何かが動き、その周りの水がどす黒く変色しているのである。
「提督……」ギムザが呻くように言った。「あれは……マズい」
「邪気でも感じるのか?」
神官であるギムザは、邪悪な魔物の放つ邪気を感じ取ることができる。
そのような感覚のないレオンでも、あの黒いものが何か禍々しい雰囲気を発していることが分かるくらいだ。ギムザなら、もっと何かを感じ取っているかも知れない。
そのレオンの問いに、ギムザが答えて言った。
「さすがにこの距離では、それほどは……。でも、邪気を感じなくても見れば分かります。あれは……良くないものです」
目をこらして、レオンは黒い水の中心にあるものを観察した。
水上に出ている部分の中心には、赤い何かが光っているような気がした。大きな「目」であるように思われた。
だとすると、水の上に見えているあの丸いものは、巨大な何かの頭なのか。
それは、綺麗な球形をしているわけではなかった。上の方に、何かを巻き付けているかのようなごつごつとした出っ張りがある。
水中に潜む、何かを巻き付けたような頭に赤い一つ目の、邪悪な何か──。
そのような姿に該当する怪物が、レオンの知識には一つある。海でけっして出会いたくはない魔物の一つだ。
「ギムザ……あれはまさか……」
「ええ……」ギムザが頷いた。
「あれはたぶん……ナックラヴィーです」
その名前を聞いた手下たちのうち、ある者は蒼白になり、別の者はガタガタと震えだした。「ひぃっ!」という恐怖の声を出した者もいる。海に生きる者たちから、何よりも恐れられている魔物の一つなのだ。
その場にいる者で状況が理解できていないのは、二人だけだった。
「ナックラヴィー?」
「……って、なんですか?」
男たちの反応にエレナが疑問の表情を浮かべ、ターニャは素直に疑問を口にした。
「知らねえのか?」
「山育ちですから」
あっけらかんとターニャは答える。早くもレオンの強面に慣れてしまったようだ。
(この子は将来、大物になるかもな……)
レオンは思った。
「ナックラヴィーというのは……」
ギムザが二人に説明しだした。
ナックラヴィーは邪神・マルフィキーが創り出した海の魔物である。
鯨のように大きな口を持つ馬の背から人間の上半身が突き出た姿をしており、その人間の頭の部分には、縄を玉にして巻き付けたかのような出っ張りがいくつもある。目は一つで、これは人間の頭の方にあって燃えさかる石炭のように赤く光っていると言われている。
そして──今は遠目なので分からないが、最大の特徴は皮膚がないことだった。赤黒い筋肉や脈動する血管が剥き出しなのである。
その大きな馬の口から吐き出される瘴気のブレスは、水中では魚を殺し、浜に上がれば植物を枯らす。人間や動物が浴びれば、たちまちのうちに熱病に冒されてしまうという。
邪神が、海や浜の生命の全てを滅ぼすために生み出した恐るべき怪物なのだ。
「最近、この辺りではずっと不漁続きだったが……」
「奴のせいでしょうね。きっとあの黒い水が、瘴気混じりの水なのでしょう。魚たちは殺され、あるいは奴を恐れてこの海域から姿を消したのです」
レオンの言葉を受けてギムザが言った。
そしてレオンは思い出していた。
いま、南の方の島では熱病がはやっているという噂のことを。その原因も、あの怪物の仕業に違いない。
「提督、奴は……」
ナックラヴィーと思われる影は、沖合から徐々にだが浜の方に近づいてきている。
「ああ……。こちらに上陸するつもりだ……」
もはや、この付近の海域で殺す者がいなくなったのだろう。陸に上がり、今度は浜の生物を滅ぼすつもりなのだ。
不漁が続いて魚が手に入らなくなったから、レオンは大量の食べ物をラゴリノに運ばせた。しかし、それを何者かに食べられてしまった。
この上さらに陸上の作物まで枯らされたら、ラゴリノには──例えナックラヴィーから逃げることが出来ても、多くの餓死者が出ることだろう。
そうなる前に、なんとかせねばらない──。
ナックラヴィーと思われる怪物は明らかに浜を目指して泳いでいたが、一方で浜に至る最短距離を進んでいるわけではなかった。波打ち際に対してやや斜めに動いている。
ラゴリノの街の方へと向かっているのだ。
あの速度と距離からすると、街に上陸するまで数時間もかかるまい。
馬を手放してしまったとことを、レオンは心底後悔していた。
「ラゴリノに急げ! 街の連中を避難させるんだ! 山の方に向かわせろ! アレがナックラヴィーなら、海からはそうは離れられないはずだ!」
レオンのその指示に、ギムザが付け加えて言った。
「あと、水です! 水の用意を! 人手を集めて、『シラウオの滝』から桶や樽で水を集めるといい!」
「水……? シラウオの滝……?」
その言葉をエレナが聞き咎め、ギムザはまた律儀に説明しだした。
「皮膚のないナックラヴィーは、淡水に弱いのです」
海中で生きるように適応したその体に淡水がかかると、皮膚のない剥きだしの体組織が水を吸って膨張し、やがて破裂するのだ。人間が傷口に塩を塗り込められるのと逆の現象である。
「それから……『シラウオの滝』は、ラゴリノの外れにある崖から、浜に向かって落ちている滝です」
白い泡混じりに流れ落ちる滝の水が、白く半透明なシラウオの群れのように見えるからそう呼ばれているのだという。
「この辺りでは、井戸を掘っても塩水のことが多いのです。だから、シラウオの滝は貴重な水場です。山道にある海竜の祠は知っていますね? その近くに泉があって、そこがシラウオの滝の水源だと言われています。地下を通って、浜に面した崖から滝として出てくるのだとか」
その言葉を聞いて、エレナとターニャは顔を見合わせた。レオンやギムザは知るよしもないが、つい先刻まで彼女たちはその泉にいたのである。
エレナが言った。
「その泉……干上がってたわよ」
「干上がってる!? どうしてですっ!?」ギムザが悲鳴のような声を出した。
それでは、シラウオの滝から水が落ちてこなくなる。
「さあ……。どうしてかしらね?」
涼しい顔でそう言ってのけたエレナを、ノーム族の少女が何故だか怖ろしいモノを見るような眼差しで見つめていた。やがて少女は「でも、見習わなきゃ」と小さく呟いたのだが、レオン達の耳には入らない。
「晴天続きだったからな。くそったれ! こんなときに!」
そう独り合点をして、レオンは走り出した。
「提督! どこへ!?」
「浜だ! 奴が上陸したら、そこで迎え撃つ!」
ナックラヴィーの動く速度は、人間が歩く速さと同じくらいか。
ここから浜までは、坂を駆け下りればすぐである。ナックラヴィーの姿を見ながら先回りができる。
灌木の先に続く下り坂をレオンは駆け下りていった。ギムザと何人かの手下がそれに続く。残った手下は、道をラゴリノの方に向かって走り出していた。街の人々を避難させるためだ。
「…………。……ターニャ」
そのレオンたちをじっと見つめていたエレナが口を開いた。何かを覚悟した表情で彼女はターニャに話しかける。
「あの人たちに付いていって──街ではなく、山の方に逃げなさい。……キッドのことをよろしくね」
「エレナさん?」
そう言って自分を見上げる少女を、エレナは力一杯、抱きしめた。
「……この数日間、楽しかったわ。妹ができたみたいだった。……ありがとう」
言い終わるとともにエレナは立ち上がり、レオンたちを追って駆け出した。
「レオン! 私も戦うわ! これでも剣士よ!」
手下達を追い抜き、自分に並んで走り始めた女剣士をレオンがまじまじと見つめる。
「……いいのか?」
「ええ。あんな話を聞いちゃったら……ほっとけないもの」
それに、街の人々から貴重な食料や水を奪ってしまった責任もある。
心の中でそう呟くエレナに、レオンが言った。
「……イイ女だな、あんた。今夜、一杯つきあってくれねえか?」
「ええ。……生きて帰れたらね」
かすかに笑って、エレナはそう答えた。