その11 再び、泉
キッドが封印から解放された日の夜、勉強の終わったターニャが眠りについた頃から、キッドは異様な空腹感に苛まれはじめたという。
魂だけの存在で、物を食べる必要はないはずなのに、何故だか耐えがたいほどの空腹感だった。肉体があったときにも、これ程の飢餓感は感じたことがない。
そして、気がついたらキッドは宿の厨房で必死に食べ物を喰いあさっていた。
翌朝になっても、その空腹感はおさまらなかった。ターニャと楽しげに会話を交わしながらも、キッドはずっと腹を空かせ続けていたのだ。
その食衝動がピークに達したのは、港に行って船を見たときだった。
どういうわけか、その船の中に大量の食物が存在していることがキッドには分かった。
タイミング良く、その船から多くの船員が食事のために下船するところを見た。
──今なら、あの船の中には誰もいない。
そう考えたキッドは、ターニャをそそのかして船に近寄らせた。
そして、彼女が間近で見る大きな船に見とれているうちに、こっそりと革袋から出て船倉まで飛んで行き、そこにあった食べ物を全て腹の中に収めたのだという。
さらにその夜。
またも飢餓感に耐えきれなくなったキッドは、眠っているターニャを起こした。
──エレナには内緒で、こっそり夜の海を見に行こう!
囁くようにそう言って、エレナを起こさないように注意しながら宿を抜け出し、港まで行くように少女を誘ったのだ。
具体的には、ターニャは窓から出入りしたのだという。
彼女たちの部屋は二階にあったが、崖もある山岳地帯に暮らすノームにとっては、でこぼこした壁の煉瓦や樋をつたって壁を登り降りすることは、特に苦にはならなかった。
魂だけのキッドは、ふわふわと浮遊するように動くことはできるが、身体が小さいだけに、自力で港まで行くのは時間がかかる。誰かに目撃される危険もある。
だからターニャを上手く誘導して、目的地の近くまで連れて行ってもらったのだ。
昼間の船の時と同様、ターニャが海面に映る星空の美しさに心を奪われている間に、キッドは革袋を抜け出して倉庫に行った。
そこにはレオンの手下たちが見張りについていたが、首尾良く誰もいない倉庫を見つけ出して忍び込み、思う存分、空腹を満たしたのだという。
一方のターニャは──彼女は、キッドが袋から抜け出して何かをしていることに、実は気がついていた。
でも、ずっと狭い袋に閉じ込められている海竜を可哀想に思っていた彼女は、人目のないところでちょっと羽を伸ばすくらいなら──と、あえて見て見ぬふりをしていたのだ。
しかし、レオンの言葉で彼女は気づいてしまった。
キッドを自由にさせたその場所で、常に食糧泥棒が発生していることに。
それで、レオンから逃げ出したあとは、ターニャはずっとキッドの方を不安げに見ていたのであった──。
※
その一人と一匹の話を聞いて、エレナは絶句した。
彼女は、
──ちょこっとキッドを袋から出していたら、誰かに見られてしまいました。
ぐらいの話だと思っていたのだ。
しかし、事態は彼女の想像の遙か上をいっていた。
どうやって真相に行き着いたのかは知らないが、レオンの疑いはまことに正当なものだったのである。
「なんてことを、してくれたのよ……」
エレナは片手で顔を覆いながら呻いた。
それから腰に両手を当て、キッドのいる袋に顔を近づける。
「貴方、もう悪さはしないんじゃなかったの!?」
『お……怒らないって言ったじゃないかぁ~』
「怒ってないわ! 詰問してるだけ!」
だがそう言うエレナのこめかみには、はっきりと怒りマークが浮いている。
『ひぃいぃぃ~。ごめんよぉ~!』
悪いとは思っていたが、それでもあまりに耐えがたい空腹感だったのだと、キッドは弁明した。飢え死にするかと思ったという。それでもターニャと話すときには、精一杯虚勢を張っていたのだ。
はぁ~っ、とエレナは何かを諦めたかのように嘆息した。
「これじゃあ、私も犯罪者の一味じゃない……」
正当な取り調べに剣を抜きかけてまで抵抗し、海竜の力を使って逃亡したのだ。レオンから見れば、完全にキッドの共犯であろう。
「こうなってはもう、しょうがないわ。オセアンの神殿に助けを求めましょう」
そこでキッドのことを相談し、盗み食いしてしまったものの補償も含めて善後策を練る。
さすがに、レオンの元に素直に出頭する気にはなれなかった。
この街の治安を守る者とはいえ、彼は所詮、侠客だ。妙齢の女二人で出て行ったら、何をされるか分かったものではない。
「キッド……封印されちゃうの?」
不安そうにターニャが聞いた。
「それはわからないけれど……」
盗み食いだけであれば、ただちに封印とまではいかないかも知れない。
ただ、もう野放しにはしておけないだろう。
いや。いっそのこと、もうどこか遠くの海にでも放してしまおうか。そこで好きなだけ、海の魚を食べれば良い。
「いずれにしろこんな大食漢、一個人では養えないわ」
そう言ったエレナに、あまり反省していないような口調でキッドが言った。
『それはもう、大丈夫』
「何が大丈夫なのよ?」
ジトっとキッドを見た彼女に、もう腹は減っていないのだと海竜は言った。
昨夜存分に食べたからか、あの耐えがたいほどの空腹感はなくなっている。そしてこれから先も、もうあれほどの飢餓感に襲われることは二度とないだろうという妙な確信が、なぜだかキッドにはあるのだった。
『ただ……』
「まだ何かあるの?」
些かぎょっとしながら、エレナは聞いた。
『すごく……喉が渇いてる』
「……神殿のある街までは、海沿いも通るわ。海水なら、いくらでも飲んでいいわよ」
『そうじゃなくて……』
真水が飲みたいのだとキッドは言った。
「海竜って、真水を飲むの? じゃあ、海にいたときはどうしてたの?」
ターニャの問いに、キッドは答えた。
身体があったときにいつも飲んでいたのは海水だ。海竜が生きていくのに、淡水は必要ない。
だが、今はどういうわけか無性に真水が飲みたいのだ。
「ちょっと……。そこらの家の水瓶を荒らすとかは、やめてよ?」
『それは、分かってるけど……』
「……確か、キッドのいた祠の近くに泉がありましたね」
ターニャが言った。
彼女たちがキッドに目隠しをして水浴びをした、あの泉だ。
「あそこなら……」
「……まあ、誰の迷惑にもならないわね」
そういうわけで、彼女たちは祠に続く山道を登りはじめた。
「いったい何度、この道を往復しなきゃならないのよ……」
エレナがぼやく。
幸い、山道では誰にも出会うことはなかった。
一度だけ、街の方から馬の足音が聞こえてきて、近くの茂みに隠れてやり過ごしたが、その他は特にトラブルもなく、彼女たちは泉まで辿り着いた。
途中、壊れた祠の惨状を目にして、なんだかとんでもないことをしてしまったんじゃないかと、二人は暗鬱な気分に襲われた。
泉は一昨日来たときと同じく、美しい水を豊かに湛えていた。
革袋の口を開け、エレナがキッドに言った。
「さあ。思う存分、飲んでいいわよ?」
『うん、ありがと~!』
ふわふわとキッドが袋から浮き出て、泉の真ん中まで飛んでいった。一度、ふぅ~っと息を吐いた後、大きく息を吸い込みながら口を開ける。
泉の水が渦を巻き、竜巻のように噴き上がってキッドの口へと入っていった。
水を飲み込むにつれて、キッドの身体がどんどんと大きくなっていく。革袋に入るほどの大きさだったのが、ターニャと同じくらいになり、エレナの背を追い越し、いまや巨大な海竜が泉の上に浮かんでいる。
「わぁ、すごぉい……」
「ちょ……ちょっと、ちょっと……」
最初はぽかんとその様子を見ていたターニャとエレナが、ようやく声を上げた。
キッドの身体の膨張はもう止まっていたが、その口は尚も泉の水を吸い上げ続けている。
海竜が飲み込んだ水の量は、いまや明らかにその身体の容積よりも多い。それなのに一体どこに入っているのか、キッドの口にはどんどんと大量の水が入り込んでいく。
そしてついにキッドは泉の水をすべてその腹の中に納めてしまった。干上がった池の底で、何匹もの魚がピチピチと跳ねている。
『いつもなら美味しそうだと思うけど……今はいらないや』
魚を見てそう言った後、キッドの身体がまた元通りに小さくなっていった。
ふよふよとターニャの所に戻り、再びその腰の革袋の中に収まる。
そのキッドを見ながら、なんだか楽しそうにターニャが言った。
「すご~い! いっぱい、飲んだね~♪」
「飲みすぎでしょ……」こちらは呆然とした様子でエレナが言った。「この身体のどこに、こんなに入ったのよ……」
水が消え去り、湿った窪地と化した泉をもう一度見る。
「これ……いいのかしら?」
『また、そのうち元通りになるよ。湧き水が溜まってできた泉だから』
キッドの言うとおり、泉の中心ではポコポコと少量の水が沸き上がっているのが見えた。しかしその水量はいかにも頼りなく、元通りの池になるには何日もかかるように思われた。
そのまま湧き水を見ていても仕方がないので、泉に背を向けて二人は山を下りはじめた。
そろそろ、ラゴリノから彼女たちが消えたことにレオンが気づくかも知れない。
山に慣れたターニャの先導で、二人は山道ではなく森や茂みの中を海の方へと下っていった。ラゴリノに続く道ではなく、隣町に至る枝道までやって来て、そこでようやく森から出て道へと戻る。
エレナが安堵したように息を吐いた。山の民であるターニャはともかく、彼女の足には、道なき道を進むのは結構な負担だったのだ。
枝道は狭いが、二人が並んで歩ける程度の幅はあった。左手には森が、右手には灌木の茂みが迫っている。灌木の向こうにはなだらかな下り坂が砂浜へと続いており、茂みの間から青い海が見渡せた。
道はこのまま海沿いに伸びて隣町まで行き着くはずだ。そのさらに隣の町に、目的とするオセアンの神殿がある。
エレナは隣町に寄るつもりは毛頭なかった。そこもレオンの縄張りだから、彼女たちの手配が届いている可能性がある。なるべく人目につかぬよう、適当なところで野営をしながら神殿のある街まで辿り着くつもりだ。
右手に広がる海を横目に、二人が三十分ほども道を進んでいったときだった。
突然、前方の茂みの左右から、数人ずつの人影が躍り出してきた。
「……待ってたぜ、お嬢さんたち」
先頭に立つレオンがそう言った。
慌てて振り返って駆け出そうとしたエレナたちの背後に、一人の魚人が立ち塞がる。
提督レオンの副官、ギムザだ。
あえて隠れたまま彼女たちをやり過ごし、その退路を断ったのである。
(やられた……)
エレナは後悔した。枝道でも油断せず、森の中を進み続けるべきだったのだ。馬や人の足音に気づいたときには森か茂みに身を隠していたが、そういうとき以外は歩きやすさを重視してしまった。
挟み撃ちで取り囲まれてしまったから、彼女一人ならばともかく、ターニャを庇いながら包囲網を抜けるのは厳しい。海も離れているから、キッドの力を借りることもできない。
内心の焦りを隠しながらレオンを睨みつけるエレナに、侠客の男は言った。
「さあ……海竜のツラを拝ませてもらおうか」




