その10 vs 提督レオン
※
島から沖合に出た”それ”は、水面から顔を出して辺りを眺めていた。
顔の真ん中にある大きな赤い一つ目で、水平線を見つめながらゆっくりと泳ぎ進める。
”それ”は少し、退屈していた。
いまや、”それ”の周りには生きる物の気配がなにもない。
魚たちは皆逃げてしまったし、この辺りの島の浜辺は荒し尽くしてしまった。
どこかにもっと、生き物の多いところはないか──。
そう考えながら泳いでいくと、水平線上にかすかな島影を見つけた。
新しい島か──。
そう思いながら近づいて行った”それ”は、やがて目にしているものが島ではないことに気がついた。
いまや視界にある水平線上の全てに、陸の影が見えていた。
島ではなく、大陸なのだ。
”それ”は、身体をぶるりと震わせた。武者震いというやつだ。
あそこには、きっと多くの生き物たちがいる。憎き光の神々の創り出した者達が──。
そいつらを全て、滅ぼしてやる。
爛々と目を輝かせながら、”それ”はゆっくりと大陸の方へと泳ぎ進めていった。
※
ラゴリノに来て三日目の朝、ターニャは寝坊をしてしまった。昨夜、遅くまで起きていたことが影響したのだ。
宿の主人に詫びながら遅めの朝食を食べたターニャは、今日はどうするのかをエレナに聞いた。
「それなんだけど……」
彼女はそろそろ隣町へ移動しないかと言った。
その理由はターニャに──というよりその腰にいるキッドには聞かせられないが、エレナはこの街での海竜の情報収集に手詰まりを覚えていたのだ。近隣の街にあるオセアンの神殿に相談するしかないかと、考えはじめていた。
「そうですか……じゃあ、この街の海も見納めですね」
寂しそうにターニャが言った。
どんなにラゴリノの海が名残惜しくとも、エレナ一緒に行動することを前提としたターニャの物言いに、女剣士はなんだか背筋がくすぐったくなってきた。
それで、彼女は言ったのだ。
「午前中は……私も海で遊んじゃおうかな」
急ぐ旅でもないし、隣町への移動は午後でも良かろう。たまにはバカンス気分を味わっても罰は当たらないはずだと彼女は思った。
『はらぺこオーガー亭』の主人と女将に世話になった礼を言い、二人は荷物を持って宿を出た。
そのまますぐには街道へと向かわず、浜の方に歩いて行く。
もっとも、浜からでも行こうと思えば隣町までは行けるのだと、エレナはターニャに説明した。彼女は元々、ラゴリノの隣町からオルレシアへの国境に向かっていたから、この辺りの地理はある程度把握している。
二人が出会った山道は、真っ直ぐ下ればラゴリノに着いて行き止まるが、その途中で隣町に続く枝道が分かれている。ターニャと出会ったとき、エレナはラゴリノには寄らず、この枝道から山道に入って国境を目指していたのだ。
街道はやがて海の浜に沿って伸びていくから、山に続く道へと戻らずとも、浜から直接この枝道に入ることができるし、街道を通らずに浜を歩いて隣町まで行くことも可能ではある。
ただ、砂浜を歩き続けるのは存外に体力を消耗するから、昼に一度休憩がてら街まで戻って、そこから街道に入った方がいいだろうというのがエレナの考えだった。
海までやって来た二人は、浜と岩場とで遊びはじめた。
もっともエレナは岩場には行かず、浜で少し足首まで水に浸かったあとは、砂の上に腰を下ろして、楽しそうに遊ぶターニャを眺めていることが多かった。
そんなエレナに何人もの男たちが話しかけてきたが、そのたびに彼女は手を振ってターニャの方を指さした。そうすると、大抵の男は諦めて去っていく。
(エレナさん、モテるんだ。美人だもんね)
遠目にその光景を見ながら、ターニャはそう考えた。自分が、男たちの誘いを断る口実にされていることには気づいていない。
幸いなことに──あるいはエレナの武勇伝をもうみんな知っているのか、しつこく言い寄ってくる男はいなかった。
太陽が中天に差し掛かる頃、エレナはターニャを促して浜を離れた。最後にもう一度船が見たい、というターニャの希望を聞いて、港経由で街に戻ることにする。
船着き場の近くに差しかかったとき、突然、数人の男が彼女たちの前に立ち塞がった。
またナンパか──。
そう思ってうんざりしかけたエレナだったが、すぐに彼らが今までの男たちとは様子が違うことに気がついた。
海で声をかけてきた男たちが見せていたような笑顔がない。
こちらに向ける視線も、緊張と警戒とを含んでいる。
その男たちの一人が、背後に向かって声をかけた。
「提督! 見つけました!」
──提督。
その言葉をエレナは聞き咎めていた。
この街で提督と言えば、提督レオンのことだろうか?
彼女がそう考えているうちに、男たちが左右に分かれた。そして、その間をゆっくりと一人の男が進み出てきた。
何ともいえぬ存在感、そして威圧感のある男だった。
逞しい海の男たちの中でも、その体格の良さは群を抜いている。分厚い胸板と、はち切れんばかりに筋肉の盛り上がった二の腕。
齢は三十歳前後に見えた。だが、厳つい顔立ちと立派な顎髭のために、実年齢よりは老けて見えそうだ。もしそうだとするなら、実際はまだ三十路を越えていないことになる。
これがレオンだとしたら、思っていたよりも若いとエレナは思った。侠客と言うから四十歳は超えているだろうと、彼女は勝手に想像していたのだ。
「お嬢さんたち、初めまして」
鋭い眼光で彼女たちを一瞥した後、男が口を開いた。
「俺はこの街を仕切らせてもらってる、レオンという者だ」
低く、落ち着いた声音だった。海の男にありがちなしゃがれ声ではない。
「……そのレオンさんが、私たちに何の用?」
ターニャを背後にかばいながら、エレナは聞いた。
「そう警戒しないでくれ。あんたらに危害を加えるつもりはねえ。ただ……そっちの小さいお嬢さんの、腰の袋の中をちょいと見せてもらいたいんだ」
その言葉に、エレナとターニャの警戒感はむしろ強くなる。
腰の革袋に手をやったターニャがさりげなく袋をねじり、キッドの覗き穴の部分を自身の身体にくっつけた。燐光が漏れることを気にしたのだ。
「どうしてそんな物が気になるのかしら? 貴方の目的は何?」
エレナが訊いた。
「昨日から起きてる、食料の盗難騒ぎを知ってるか? 昨日は俺の船が、昨夜は港の倉庫がやられた。俺は、その犯人を捜してる」
「それとこの子と、どんな関係があるの? まさかこんな小さな袋に盗まれたものが入っているとでも言うのかしら?」
「それは、お前さんたちのほうがよく知ってるんじゃねぇのかい?」
「知らないわね。確かに、私たちは『はらぺこオーガー亭』に泊まってはいたけど、関係があるとすれば、それくらいだわ」
エレナとレオンが睨み合う。
自分よりもはるかに体の大きいレオンに威圧されても、エレナは一歩も引かなかった。
「その革袋の中……見せちゃあもらえねぇのかい?」
「その必要があるとは、思えないわ」
他の荷物ならともかく、ターニャの腰の革袋だけは見せるわけにはいかない。
頑ななエレナの態度に、レオンが顎髭をさすりはじめた。彼にしてみれば、ここまで拒絶されると、かえって何かあるのではと思ってしまう。
そのレオンの心中を察したのか、部下の一人が先走った。
「いいから見せろ、ってんだよ!」
言いながらターニャに向けて伸ばされた手は、エレナの手刀に激しく叩き落とされた。
「ぐっ! てめぇっ……」
呻く男とレオンとを厳しい目で順に睨みつけながら、エレナは言った。
「私たちに触らないで。……抜くわよ」
腰の剣を見せつけ、その柄に手をかける。
手下たちが色めき立つ中、一人冷静にレオンが言った。
「……こんな所で刃傷沙汰は、勘弁してもらいてえな」
「私だってそうよ」
言いながらも、エレナがカチリと剣の鯉口を切ろうとしたときだった。
突然に、ターニャが走り出した。
「ターニャ!?」
「てめえ、待ちやがれ!」
だだだっと、ターニャは走る。
その横にエレナが追いついたのを確認するように見て、彼女は港の堤防の方へと進んでいった。三方に海が迫る突堤の先端まで来たところで、立ち止まって振り返る。
レオンの手下たちが、ニヤニヤと笑っていた。
「残念だったな、お嬢ちゃん。そっちは行き止まりだぜ」
ターニャの身体を、ぐいっとエレナは抱き寄せた。この頃には彼女は、ターニャの狙いを完全に理解していた。気づかれないようにチラリと海の方を見ると、既にその水がぶくぶくとうねりはじめている。
「さあ、その袋を渡しな」
レオンを含めて一塊になった男たちが、一歩、彼女たちに近づく。
その瞬間だった。
ざばっ! ざばばぁぁぁああっ──!!
「なにっ!?」
突堤の横の海水が、突然に噴き上がって男たちを襲った。キッドに操られた大量の水の塊が、そのまま彼らを堤防の反対側へと押し流していく。
ばしゃぁあああんっ! どぶんっ、どぼんっ、ばっちゃぁああん!!
男たちが次々と海に落ちていく。
次の瞬間、ターニャとエレナはまた走りはじめた。
混乱したレオンたちが水から這い上がってくるまでの間に、港を駆け抜けて街の路地へと入り込む。
何度も角を曲がり、やがて町外れまでやって来たところで、ようやく二人は足を止めた。
汗だくになって乱れた息を整えつつ、エレナが言った。
「……助かったわ、キッド」
──お安いご用さ!
そういう得意げな言葉が返ってくるかと思ったのに、キッドは黙りこくったまま、一言も返してこない。
「?」
訝しげにターニャの腰の革袋を見ながら、エレナは呟いた。
「でも……どうしてあいつら、キッドのことを知っていたのかしら……」
レオンはターニャの腰の袋を見せろと言った。
わざわざ指定してきたと言うことは、ほぼ間違いなくそこに何かが──キッドがいることを知っていたのだろう。
そのキッドは相変わらず沈黙したままだ。
ターニャも何も言わず、キッドのいる革袋をじっと見つめている。何やら不安げな彼女の表情を見て、エレナにはぴんと来るものがあった。
「……貴女たち。私に何か隠していることがあるんじゃない? 怒らないから言ってごらんなさい」
しばらくの沈黙の時間をエレナは辛抱強く待った。やがて、
『「ごめんなさい」』
異口同音に一人と一匹は言った。
「……何をやったの?」
聞かれて、ターニャがキッドの袋の方をまた見やる。
やがて、観念したようにキッドは話しはじめた。




