その9 海神のお告げ
祠に至るまでの山道は、途中が思いのほか急になっていた。レオンでも足腰に少し堪えたから、魚人であるギムザは尚更だろうと思って隣を見るが、鮫の頭をした魚人の神官は案外、辛そうな様子は見せていない。
慣れぬ者には無表情に見える魚人だが、付き合いの長いレオンには、彼が辛そうにしていれば分かる。時間が勿体ないから、それならばと休みなく坂を登り続けたレオンは、辿り着いた祠の惨状を見て絶句した。
そこに存在していたはずの建物が消え失せ、床には大きな穴が開いていた。穴の周囲には瓦礫も転がっている。
「床が……抜けたのか?」
穴を覗き込みながらレオンは言った。暗い穴の底に崩壊した祠の残骸らしきものが見えていた。
「……大量の水が流れた跡もありますね」
祠の周囲を検分していたギムザが言った。こういうことは、魚人である彼の方が目聡い。
「祠の方から流れ出たようです」
その水は一体どこから来たのか──と、レオンは考えた。
祠の地下からだろうか。
であれば、まだ地下に水が残っているかも知れない。
レオンは持っていた松明に火をつけ、床の穴に投げ込んでみた。
炎が床下の惨状を照らし出す。
瓦礫が散乱していた。そしてやはり、穴の底にはどうやら水たまりがある。その水に松明が触れ、じゅっと音を立てて火が消えた。
「……床下に溜まっていた水が噴き出したか?」
「そう見えますが……」
しかし祠の瓦礫は周囲ではなく、ほとんどが床下に落ちている。地下から噴き上がった水が祠の建物を壊したのなら、こうはならない。建物の残骸は地上に散乱しているだろう。
つまり、穴が開いて建物が壊れたことの方が先なのだ。その後、床下から水が噴き出した。
それは一体、どういう状況なのか。
この建物は海竜の魂を封じるための祠だ。原因は不明だがその祠の建物が壊れ、床下にいた海竜が目を覚ました。そして、噴き上がる水と共に外に出る──。
「……なんて、ちょっと荒唐無稽な想像だわな」
あえておどけて、レオンは言ってみせた。
「下に降りてみますか?」
ギムザに聞かれてレオンはもう一度、穴の中を覗き込んだ。祠の床下の空間は、案外広い。彼ら二人が入って、さらに歩き回れる程度の広さがありそうだ。
「降りよう。何か、見つかるかもしれん」
近くの木にロープを結びつけて穴の中に垂らし、二人は床下に降り立った。
目につくのは、やはり瓦礫と水たまり。そして、もう一つ。
「下にも、祠があったのか……」
暗い床下に、小さな社のような建物があった。ただ、こちらも壊れている。屋根の部分が、おそらくは降ってきた瓦礫によって押しつぶされて崩壊していた。社殿の扉も開かれている。
「こちらが祠の本体なのでしょうね」
ギムザが言った。
「おそらく、この中に何かが封じられていた……」
その扉が、いまは開ききっている。もしかたらこの戸は中から開けられたのかも知れない。もしそうなら、先程のレオンの想像がにわかに現実味を帯びてくる。
封じらていた海竜の魂が、外に出たのだ。
瓦礫に注意しながら、レオンは松明の明かりを近づけて社の中を覗き込んだ。天井に穴が開いてひしゃげてはいたが、中の空間はなんとか保たれている。
「……なんだこりゃあ?」
社の中を見て、思わずレオンは声を出していた。
古びて色あせた布にくるまれた、何か長細い形状をしたものが安置されていた。長さはレオンの腕よりもやや短い程度か。
手を伸ばしてレオンはその何かを取り出した。
ずしり、とやや重量感がある。感触も硬く、石か金属でできた棒のような物が布にくるまれているように思えた。
布を破らないように注意しながら、レオンは慎重に中身を取り出した。
鈍い銀色に輝く、一本の短い杖が出てきた。先端に青色の宝珠が取り付けられている。
「ワンド、か……?」
柄の部分には大量の文字が刻まれている。古代文字のようだ。
「提督……」ギムザが言った。「そのワンドからは、オセアンの力を感じます」
彫られている文字も、オセアンに対する古い祈りの言葉のようだという。
つまりこのワンドは、何かの呪具なのだ。
「封印の呪具か?」
「ええ、おそらく」
ギムザがそう答えたときだった。
『その杖を回しながら、我が名を唱えよ』
突然、鳴り響くような声が聞こえてきた。
レオンは慌てて周囲を見回したが、ギムザと自分以外には誰もいない。上を見ても、穴の入り口に誰かがいるようには見えなかった。
『さすれば、ここにいた者を封印できる』
声はまだ続いている。
いつの間にかギムザが跪いて手を組み合わせ、目を閉じていた。
つまりこれは──
(海神のお告げか!?)
『急げ、レオン。危機が迫っている。我が眷属とともに、危機を退けよ』
頭の中に直接響いてくるようなその声は、危機の具体的な内容までは教えてくれない。神々は、人間に深く干渉することを嫌うのだ。
ただ、警告はしてくれる。そして、ときに力を貸してくれる。
このワンドが、その貸してくれる”力”なのか。
声は、話し続けていた。
『危機が去った後、その杖を使うが良い。右に回せば、我が眷属を封印できる。そして、左に回せば──』
その海神の声を、レオンは厳しい表情で聞いていた。
声が消え、ギムザが目を開けて立ち上がるのを待って、レオンは祠の地下を出た。
ワンドは神官であるギムザに預けようかと思ったが、彼は固持した。
「オセアン神は、提督に話しかけておいででした。そのワンドをオセアン神から託されたのは提督です」
そう言って譲らない。
仕方がないので自分で持つことにしたが、短い杖とはいえ懐にしまうには長い。
腰に下げてみたら何だか邪魔くさかったので、祠にあった布の上からさらに別の大きな布で包んで、背中に背負うことにした。布は身体の前でかたく縛って固定する。
山道を降りながら、レオンはこれからどうしようかと考えた。
荒唐無稽と思っていた想像が、どうやら真実のようであった。
封じられていた海竜の魂が外に出たのだ。そして食料を喰いあさった。魂だけの存在でも、どうやら腹は減るものらしい。
一方で飯は食うくせに実体はないから、大穴を開けなくても船や倉庫の中に入り込むことができるのだ。随分と厄介な相手である。
オセアン神のおかげで、その面倒な相手への対処法は手に入れることができた。だが、肝心の海竜の居場所が分からない。
(どうせなら、そこも教えてくれよ……)
神官であるギムザに遠慮して、口には出さずに心の中でレオンはぼやいた。
だが、表情には出ていたのかも知れない。
彼の方をチラリと見た後、ギムザが言った。
「海竜の居場所ですが……」
「何か心当たりがあるのか?」
「心当たり……と言えるほどの確信があるわけではありませんが……」
だが、気になることがあるという。
「昨日の夕方、港にいた女の子のことを覚えていますか?」
ラゴリノにやって来た美人剣士の連れだというあの少女のことらしい。
「彼女は一昨日、我々が入港してきたときにも港にいました」
「ああ……確かそう言っていたな」
よくそんなことを覚えているものだと感心したのだが、その少女がギムザの記憶に残ったのには理由があった。
彼女が、珍しい生き物を連れているように見えたからだという。
「女の子の腰の袋から、一瞬だけ顔を出したのが見えたのです」
周囲には人がいなかったから、油断したのだろう。しかし、普通の人間よりも視力のいいギムザは、遠目とは言えしっかりと目撃していた。
最初は、トカゲの一種かと思ったという。
「ただ、青い光に包まれているようにも見えたので、精霊か何かかも知れないと考え直しました」
正体は分からないが珍しいものを見た、と記憶に残ったのだ。
「青い光?」
ギムザの話のその部分に、レオンは反応していた。
目撃談にあった”海竜の幽霊”が青く光っていたのだ。
「今思えばアレは……海竜の子供のようにも見えました」
「海竜の子供……」
つまり、小さな海竜ということだ。
「魂だけの海竜なら……」
「大きさは、ある程度自在なのかも知れません」
「祠にいた海竜の魂が、あの子と一緒にいるということか……」
あり得ることだとレオンは思った。
彼はずっと不思議だったのだ。祠を出た後、海竜がどうやって移動したのか、が。
足の代わりに泳ぐためのヒレがついている海竜は、地上では満足に動くことが難しい。ヘビのように這うことはできるが、その移動速度はとても遅いのだ。
人間でも一時間はかかる山道を下りていくには、かなりの時間を要するだろう。例え夜間であったとしても、その間、誰にも目撃されていないというのは少し考えにくかった。
身体を小さくすれば目撃される危険は少ないだろうが、この場合には街まで来るのに、さらに時間がかかる。
あの少女とその連れの女剣士は、確か山から来たという話だった。まさに、海竜の祠がある方だ。
おそらく彼女たちは、その途上で山道を這っている小さな海竜を拾ったのではなかろうか。珍しいトカゲとでも思ったのかもしれない。そして、街まで連れて来てしまった。
海竜が自力で街までやって来たと考えるより、誰かに連れてきてもらったと考えるほうが、はるかに納得がいく気がしていた。
「あの子は確か……」
「はらぺこオーガー亭に泊まっていたはずです」
「会おう」
レオンは言った。山道を下りる足の運びが、自然と早くなっていた。




