その2 モール神殿
「やあ、よく眠れたかい?」
「……この顔見て、予想できない?」
翌朝、声をかけてきた宿屋の主人に、イライザはまだ眠たそうな顔を見せながら、答えた。
「…………。出たのか?」
「出たわよ、しっかりと。おかげで寝不足だわ」
不機嫌そうにイライザは言った。
あの後、石像は夜通し泣き続け、朝日が昇るとともに女の姿も泣き声も消えた。
イライザは途中から無視を決め込んで寝床に潜り込んだのだが、それでもやはり気になって安眠にはほど遠かった。
「で、祓ったのかい?」
「できるわけないでしょう? あたしはヴァンの神官なのよ」
「いったい、何が出たんだ?」
聞かれてイライザは、昨晩のことを宿の主人に話した。朝から聞かされる不気味な話に、主人の顔が徐々に青ざめていく。
「ひたすら泣き続ける女って……お前、それバンシーじゃないだろうな?」
「ちょっと、縁起の悪いこと言わないでよ」
店主の言葉に、イライザは渋面を作って答えた。
泣き女・バンシーは、精霊とも死者の霊とも言われる魔物だ。非業の死を遂げた、あるいは愛する者の死を悲しみながら亡くなった女の霊が、バンシーになるとも言う。
この魔物は近いうちに死人が出る家の近くに現れ、ひたすら泣き声を聞かせ続ける。バンシーが死を運ぶわけではなく、あくまでも死者が出ることを予見して、その運命を悲しんで泣くのだ。
なにか直接的な害があるわけではないが、バンシーが現れて泣くということは近い将来にその家で誰かが死ぬことを意味する。
イライザにこの像を預けたナバタ村の住民もそのことが頭をよぎったからこそ、この像を手放そうとしのかも知れない。バンシーが死を運ぶわけではないが、遠ざけることで悲劇から逃れようとする心理は理解できる。
もっともイライザは、昨夜見た女はおそらくバンシーではないだろうと思っていた。
彼女より先にあの泣き女を見たナバタ村の住人の中に、死者は出ていない。
バンシーがナバタ村から離れて、昨夜イライザの傍で泣き始めたということは、死ぬのはイライザかその周囲の者ということになるが、それならばイライザが訪れてもいないナバタ村で泣いていたのは、おかしな話だった。
唯一考えられる可能性は、この先イライザがナバタ村で死を迎えるというものだが、今のところ彼女にはナバタ村を訪れる予定はない。
バンシーがこの石像に宿っている可能性も考えはしたが、そんな事例は聞いたことがないし、例えそうであったとしても、バンシー自体が死を運ぶわけではない。
像に宿ったバンシーがイライザの死の運命を悲しんで泣き始めるとしたら、それはやはり彼女が石像を手に入れた後のことだろうから、ナバタ村で泣いていた理由に説明がつかないのだ。
「それに……昨日、あの女は気になることを言っていたのよね」
「ただ泣いていただけじゃないのか?」
「違うの。途中から、しきりにこう言っていたのよ」
──私をあの人の所に帰して、と。
女は確かにそう言っていた。
彼女はどこかに帰りたくて泣いているのだ。誰かの死の運命を悲しんで泣いているわけではない。
あの女がバンシーではないという、何よりの証拠にイライザは思えた。
「帰して、か……。でも……どこにだ?」
その宿の主人の疑問に、イライザは首を振って答えた。
「あの人の所、って言っていたけど……。あの人って誰なのかしらねえ?」
「さあな……。その石像が元あった場所に返せばいいんじゃないか?」
「そうかもしれないけど……」
ならば、この石像が発見された遺跡がどこなのかを、探らねばならなかった。
「石像を売った冒険者の名前は聞いているのか?」
「それは聞いてる。確か、リーダーの名前はエバンス」
「エバンス……聞かねえな」
この辺りを根城にする冒険者ではないのかも知れなかった。ため息をひとつついてイライザは言った。
「一度、リヴェーラに戻ってみるわ。あそこならモールの神殿もあるし、冒険者の店も多い。エバンスがたとえ旅の冒険者だとしても、この辺までやって来て、リヴェーラに立ち寄らないはずはないと思うの」
リヴェーラはヴァロア王国の首都であり、この国で最も大きく、そして古い街だ。近郊には未探索の遺跡も多い。だから、国中から冒険者が集まってくる。
イライザは半月ほど前まではリヴェーラにいた。彼女は毎年、一年の骨休めと情報収集をかねてリヴェーラを訪れる。だから彼女が次にリヴェーラに行くのは、本来であれば十ヶ月以上も先の話だ。
だが、それだけの期間をこの石像と一緒に旅をするのはごめんだった。定期の巡回路からは外れることになるが、仕方がない。
今年は他の村々を訪れるのは例年より遅れることになるだろう。店主にそのような言伝てを頼んで、イライザは宿を出た。
リヴェーラへの道すがら、石像は毎夜のように光を放ち、女の霊が泣き続けた。そこで繰り返される言葉はいつも同じだ。「あの人の所に帰して」である。
イライザは最初のうちこそ不気味に思ったが、慣れてくるとあまり気にはならなくなってきた。
女は、「そうじゃないと……」などと脅しにも聞こえることを言いはするが、では具体的に何かをすると口にするわけでもない。そもそもイライザに話しかけているわけではなさそうである。こちらに害をなす意図はないように思えてきたし、それならば、放っておこうとイライザは考えた。
荷物の奥底に詰め込んでしまえば、光も泣き声もそうは気にならず、女の霊も現れないことを学習したイライザは、リヴェーラに到着する頃には夜も安眠ができるようになっていた。
リヴェーラの街で、彼女はまず死と輪廻を司る神・モールの神殿に石像を持ち込んだ。死霊であればモール神殿で供養するのが本道だし、本職に任せられるのならば、それが一番手っ取り早い。
だが、像を検分したモールの神官は、
「うちでは、この像に関する怪奇現象を解決することは不可能です」と、残念そうに首を振った。
その理由として言われたことが、イライザには意外だった。
「この石像には、死者の霊など憑いていませんよ」
神官は確かにそう言ったのだ。
念のためにバンシーである可能性も聞いてみたが、それも違うと神官は言った。彼によれば、バンシーは精霊であると共に、愛する者を亡くした者の霊が変化した亡霊なのだという。
「死者の霊である以上、バンシーであれば、私たちには分かります」
神官の言葉に、イライザの心は少し軽くなった。
「死者の霊じゃないなら、あの女はいったい何なの?」
そう聞いたイライザに、神官はこう教えてくれた。
時折、この石像と同じように死者の霊が憑いていないにも関わらず、幽霊のような現象を起こす物が持ち込まれるという。
死者の霊ではないため、モール神殿ではどうすることもできず、危険な物でなさそうならば、今回のようにそのまま持ち帰ってもらうことにしているそうだ。
「詳しいことは私にも解りませんが、物に強い思念のような何かが宿っているのかも知れません。そして、まるで死霊のような振る舞いや、時には、まるで生き物のような振る舞いを示すのではないか、と思うのです」
「思念? 生きている人の?」
「はい」
「……じゃあ、あの女は今も生きているの?」
彼女の言葉に、神官は首を振って答えた。
「そうとは限りません。思念を残した方がかなり昔の方であるなら、もはやご存命ではないでしょう」
イライザは手に持つ石像をまじまじと見た。表面は少し薄汚れているが、どこかが欠けているということもなく、綺麗に洗いさえすれば、つい最近作られたばかりの彫刻のようにも見えるだろう。
しかし、それはこの像が実際に新しいからではなく、保存状態が良かったからのように思えた。
なにより、この石像は古代の遺跡で発見されているのだ。相当の年月を経てきたものであることは間違いない。この像に思念を残した者がもはや生きていないことは確実だった。
だが、それでもイライザは「あの人の所に帰して」という女の言葉が、過去の誰かの、単なる思考の残り滓だとは思いたくなくなっていた。この像自身の願いなのだと考え始めていた。
この像に──そこに彫られた、この儚げな女に情がわいたのかも知れぬ。
どこかに帰りたいという彼女の願いを叶えてやりたいと、イライザはそう思うようになってきていた。