その7 侠客・レオン
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島の浜の上で、”それ”は自身の瘴気に触れた草花が枯れていく様子を満足そうに眺めていた。
二本足の生物たちが、”それ”の姿を見て大慌てで逃げていく。
その者達に、”それ”は次々に瘴気を吹きかけていった。
残念ながら、その生物に対しては”それ”の瘴気は即死させるほどの力はないらしいが、それでもいくらかの影響はあるようで、二本足の生物は倒れ伏し、顔を真っ赤にして悶え苦しんでいる。
その頭を踏み潰しながら、”それ”は笑みを浮かべて海へと戻っていく。
これまで、”それ”はずっと深い海の底にいた。陸地から離れた沖合の深海には、生物の数は少ない。だが、島に行けば、その周りの海や島の上にたくさんの生き物がいることを”それ”は学んでいた。
光の神々の祝福を受けた、それらの生き物たちを全て殺し尽くすことこそが、邪神の眷属である自身の存在理由だ──。
”それ”はいまや強くそう感じていた。
暗い愉悦にどっぷりと浸りながら、”それ”はゆっくりと次の島に向かって泳ぎ進んでいった。
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「こいつは、ひでえな……」
船倉の惨状を見て、提督レオンは思わず呟いていた。
木箱という木箱の横腹に穴が開き、樽の蓋は無残に破壊されている。
穀物が入っていたはずの大きな布袋は破れて床に落ち、その中身は空っぽだ。穀粒一つ残っていない。
食糧を積んでやって来た商船が、盗賊に襲われた──。
その知らせを受けたレオンは、部下のギムザを伴って急いでこの船まで駆けつけてきた。
最初に報告を受けたとき、レオンは船員の誰かが盗賊に襲われて荷を強奪されたのかと思った。だが、どうやら実際は違うようだ。
怪我人は誰も出ていない。
それどころか、盗賊の姿を目にした者も誰もいない。
船員が少し目を離した隙に、船倉に山と積まれていた食料が一つ残らず盗まれたのだという。
「船倉に誰もいなかったのは、本当にわずかな時間なんだな?」
被害に遭った船の船長に、レオンは訊いた。
「わずかと言っても……三十分くらいでしょうか」
船長が申し訳なさそうに答えた。
長いと言えば長い時間だが、船倉をこれだけ見事に荒らすには短すぎるとも言えるだろう。
「港に入ったとき、丁度昼過ぎだったものですから……甲板に見張りを一人残して、みんなで食堂に繰り出したのです」
腹ごしらえを済ませてから、総出で積み荷を降ろすつもりだったという。
「食事に行く前は、確かに船倉には何の問題もありませんでした。でも──」
食事から帰って、いざ荷を下ろそうとしたらこの惨状だった。賊は、船員が食事に行っているわずかな時間で船倉に忍び込み、荷を全て奪ったのだ。
「おまえの船の船員は、全部で何人だ?」レオンは訊いた。
「十人です」
「その十人で、積んでいた荷を全て下ろすつもりだったんだな?」
「そうです。下ろして、港の倉庫に持って行きます」
「倉庫まで往復する時間は考えないとして、積み荷を全て降ろすのにどれくらいの時間がかかる?」
「予定では、午後いっぱいは見込んでいました。それなりに重量もありますので。下ろすだけなら、もう少し早く済むかも知れませんが……」
「だよな……」
賊がそれを三十分程度でやってのけたのだとしたら、かなりの人数が必要となるはずである。しかも、そいつらは木箱や樽ごと持ち去ったのではない。中身だけを奪っている。つまり、食糧を何かに入れ替える時間も必要なのだ。
船員の数と同じ十人ではとても足りない。数十人は必要だろう。
それだけの人間がこの船に出入りすれば、当然に目立つ。船倉には見張りはいなかったが、甲板には見張り役が一人残されていた。船が停泊している波止場にだって人目はある。数十人の人間が密かに出入りできるはずがない。
──不可能だ。
すぐにレオンは結論づける。人海戦術で持ち去ったのではない。
では、いったいどうやったのか──。
魔法か何かを使ったのだとしか考えられなかった。ただ、このようなことができる魔法に、あいにくレオンは心当たりがない。
隣のギムザに視線を向けて無言で問うが、彼も首を振った。やはり、心当たりがないのだ。
「申し訳ありません、提督……」
強ばった顔で頭を下げる船長の肩をぽんと叩き、レオンは言った。
「今日は出港するにはもう遅い。全員で一晩休め。だが、明日の朝になったら、また出てもらうぞ」
船長が驚いたような顔でレオンを見た。彼は、なにがしかの処罰を覚悟していたのだ。
「行き先は、またおって指示する。それまでは待機していろ。それから、次からは船倉には常に見張りを置いておけ」
言いながら、船倉から甲板に続く梯子へと歩いて行くレオンに、船長は再び深々と頭を下げた。
暗い船倉から明るい甲板へと上がったレオンは、夕焼けの眩しさに目を細めながら呟いた。
「まいったな……。よりによって、こんなときに」
「食料、というのが痛いですね」
ギムザがそう言った。
このところ、レオンが縄張りとする海辺の漁村では原因不明の不漁が続いていた。どういうわけか、この海域から魚たちが急にいなくなったのだ。
貧しい漁師の中には、早くも蓄えが底をつきかける者が出てきていた。自給自足に近い生活を続けている者にとっては、不漁はそのまま飢えに繋がる。
だからレオンは、近隣から大量の食料を買いつけて持ってこさせたのだ。
総重量の割には金額はたいしたことがない。蓄えの少ない者でも買えるよう、質よりもできるかぎり値の安くて量の多いものを選ぶように言ってあった。
ところが、それが全て盗まれてしまった。
金銭的な損失というより、街で食糧不足が起きないかを彼は懸念していた。
「飢えた者達の仕業でしょうか?」
「それにしたって、あんなにたくさんの食料をか?」
一人の人間で食べきれる量ではないだろう。
「自分一人で食べるのではなく、持って帰って誰かに分け与えるつもりなのかも知れません」
あるいは、売りさばくのか。
「……食い物を買い占めてる奴がいねえか、調べる必要はあるな」
不漁で食べるものが不足した街で、買い占めた食べ物を高く売る。そのためには、レオンが安く大量に食糧を売っては都合が悪い。
そういう陰謀を考えた者がいる可能性は、確かにあった。
しかし、ではどうやって短時間で大量の荷物を奪い去っていったのか、という問題は残る。
「まあ……方法については、犯人を捕まえてから、締め上げて白状させりゃあいいか……」
レオンは、さしあたりそう開き直ることにした。
彼の知らない魔法でも使われているのだとしたら、ここであれこれ考えてもしょうがない。
「犯人は、朝の『はらぺこオーガー亭』の事件と同じ者でしょうか」
「そう……なんだろうな、たぶん」
ギムザの問いに、レオンはそう答えた。
午前中、レオンは『はらぺこオーガー亭』という宿に盗人が入ったと聞いて、被害に遭った現場に赴いていた。
その店でも、盗まれたのはやはり食べ物だけだった。現場の荒らされ方もよく似ているように思う。
ただ、『はらぺこオーガー亭』の場合は夜中に賊が入っているから、方法についてはあまり考えなくてもすんだ。時間はたっぷりあるのだから、普通に忍び込んで普通に盗み出せばいい。少人数でも、時間をかければ犯行は可能だろう。
ただ、そこまでして盗み出すものが食料だけ、という点が引っかかっていた。手間と危険の割に、得られるものが少ないように思うのだ。犯人の思惑がよく分からないと感じていた。
桟橋を渡り、船から下りたところで、レオンは隣を歩いているギムザが一点を見つめていることに気がついた。
「どうした?」
「いえ……あの娘なんですが」
足を止めたギムザの視線の先には、一人の少女がいた。船着き場の近くにある木を背もたれにして、うたた寝をしている。
「昨日もいたな、と……」
レオンがもう一度その少女に目を向けたとき、二人の会話を聞いていた船員が話に割って入って来た。
「あの子なら、今日は昼からずっとあそこにいましたよ」
気持ちよさそうに居眠りしている少女を遠目に見ながら、レオンは聞いた。
「あんなとこで、何してやがんだ?」
昼からずっとあそこで寝ているとは考えにくかった。それならば、さすがに誰かが具合でも悪いのかと声をかけるだろう。
「ずっと楽しそうに船を見ていましたよ。山の方から来た子ですから、船が珍しいんじゃないでしょうか」
何であの子が山から来たと分かるのかと聞くと、国境に続く山の方からものすごい美人がこの街にやって来たと、昨日から港中の噂になっているのだと船員は答えた。
「……ありゃあ、美人というより美少女じゃねえか?」
その少女の顔をまじまじと観察しながらレオンは言った。
遠目にも、その娘が可愛いらしい顔立ちをしていることはよく分かった。だが、いかんせんまだ子供だ。十歳くらいのように見える。
「あの子は、その美人の連れなんですよ。二人で旅をしてるみたいです」
母娘か、とレオンは思う。
「いくら美人でも、子持ちじゃあな……」
「いやいや。あんな大きな子供がいるような年には見えないそうです」
では、姉妹なのだろうか。
旅の剣士らしき風体をしたその女は、貴族の姫君のように美しい顔立ちで、女っ気に飢えた港の男たちの間でたちまち噂になったそうだ。
ただ、美人ではあるが、剣士らしく気が強い。
彼女が一人でいるところをしつこく言い寄った男が、こっぴどくやられてしまったという。
剣は抜かなかったのに、それでも屈強な海の男が一人、素手であっさりと制圧されてしまった。
とりたてて大柄な女でもなく、とても強いようには見えないと侮っていたら、素早い動きでたちまちのうちに肘の関節を極められてしまったのだそうだ。
「あれは、観賞用だよ」
と、やられた男はぼやいたと言うが、これが昨日の午後のことで、その日の夜にはもう、酒場ではこの美しくて強い女剣士の噂が酒の肴になっていたという。
「なんでも、『はらぺこオーガー亭』に泊まってるらしいですね」
「はらぺこオーガー亭?」
言われて、レオンは思い出した。
そういえば、今朝方『はらぺこオーガー亭』に行ったとき、店の女将が言っていた。
──食べ物も盗まれちまったし、泊まり客の皆さんには他の宿に移ってもらったら、って言ったんですけどね。亭主ときたら首を縦に振らない。珍しく可愛い女の子が泊まってるんで、妙に張り切っちゃってるんですよ。
と、泥棒以上に、若い娘に鼻の下を伸ばしている亭主のほうにご立腹のようであった。
「俺も、今晩はちょっと奮発して『はらぺこオーガー亭』でメシでも食おうかな、と思っていたんですが……」
今朝の泥棒騒ぎで、泊まり客以外の食事はお断りなんだという。
「提督、また『はらぺこオーガー亭』に聞き込みに行くときには、俺にも声をかけて下さいよ」
「ああ、考えとくよ。それまで仕事に励め」
そう言って船員を追い払ったレオンは、あの少女にも話を聞いてみようかと思った。『はらぺこオーガー亭』に泊まっているというし、今日は昼からずっとここにいたというのなら、何か見聞きしているかも知れない。
しかし彼が声をかけるよりも早く、少女は目を覚まして夕焼けを見ると、しまったという顔をして慌てて駆け出していった。きっと、日暮れまでには帰るように言われているのだろう。
まあいいか、とレオンは思う。
また『はらぺこオーガー亭』に行けば話を聞く機会もあるだろう。
走り去る少女の腰の辺りが、チカリと一瞬、青く光ったように思えたが、その時のレオンは、見間違いだと思ってそれを深くは気に留めようとしなかった。




