その5 詩人の話──キャプテン・キッドと名もなき海竜
♪世界中の海にその名を轟かせたキャプテン・キッドとその仲間たちも、寿命には勝てませんでした。
年をとるとともに、彼らは一人、また一人と船から消えていき、そしてとうとう残ったのはキッドと海竜だけになってしまいました。
自身にも死に神の鎌が迫っていることを自覚したキッドは、あるとき船の舳先から海竜に呼びかけました。
──自分が死んだら、きみと出会ったあの島の、二つの岬に挟まれたあの美しい湾にこの船を持っていって欲しい。
──岬の海辺に転がる石を船の底にくくりつけ、自分の死体を船ごとその海に沈めて欲しい。
──花や供物を捧げる必要はない。船の周りに漂う海藻や珊瑚、泳ぐ魚たちが自分にとっての花であり、供物なのだから……。
キッドは知っていました。
自分が死んだら、海竜がひとりぼっちになってしまうことを。
だから自分の遺体を船ごと海に沈め、海竜がいつでも会いに来れるようにしたかったのです。
いよいよ死が迫ったとき、キッドは自分から金属製の大きな箱の中に入り、その身を横たえました。水に浸かったときに浮いてしまわないための、特製の棺桶でした。
棺に入ったキッドの耳に、船の外から呼びかける海竜の声が聞こえてきます。
意識の続く限り、キッドはその声に応え続けました。
しかしその声もだんだんと弱くなり、やがて海竜がどんなに呼びかけても、もう船の中からキッドの声はしませんでした。
水面から首をもたげた海竜の目から、ぽろぽろと大粒のしずくが垂れ落ちました。
自分はどうして目から水を流しているのだろうと、海竜は思いました。
しばらくそうしていた後、海竜はキッドに言われたとおりの場所に船を運ぶと、船底に石をくくりつけて沈めました。
キッドは、花や供物は必要ないと言っていました。
だけど海竜は、大切な人の遺体に自分は何かを捧げるべきではないかとも思っていました。
ただ、海竜は彼に捧げられるようなものなど何も持っていません。
そこで海竜は、自分の名前を船とともにキッドに捧げることに決めました。
キッドの遺体とともに自分の名前を封印し、名も無き竜になると決めたのです。
海竜はそれから毎晩、船の傍にやって来てとぐろを巻いて眠りました。
船の周りに集まる魚はキッドへの供物です。だから海竜は、船の周りの魚は決して口にはしませんでした。
朝になると離れた海に魚を食べに行き、夜になってから船の傍に戻ってくる。
そんな日々が、長いこと続きました。
ある晩のことです。
いつものように船の所に戻ってきた海竜は、その様子がいつもと違うことに気がつきました。
キャプテン・キッドの船の舳先には、海竜を模した像が飾られていました。
その像の首の部分には、青く光る大きな宝石がはめ込まれていました。
かつてキッドは、自分が最も好きなこの石を海竜の像にはめ込んだのでした。
──きみは物を持ち歩けないからね。代わりに、ここにはめ込んでおくよ。
キッドはそのとき、そう言っていました。
その青く光る宝石が、なくなっていたのです。
長い年月の間に像が朽ちて欠け、宝石は海の底に落ちてしまったのでした。
そしてそこにやって来たサメが、青い宝石を飲み込んでしまったのです。
イタチザメと呼ばれるその魚は、口に入る物は何でも飲み込んでしまう困った習性があったのでした。
しかしそんなことを知らない海竜は、宝石は誰かに盗まれたのだと考えました。
おり悪く、近くの海域を人間の船が通っていました。
海竜は、その船がキッドの大事な宝石を盗ったと思い込んでしまったのです。
怒った海竜は船を追いかけ……そして、沈めてしまいました。
しかしどんなに探しても、船の残骸の中にあの宝石は見つけられません。
──きっともう、人間の街に持っていかれちゃったんだ!
海竜は、すぐに海辺にある人間の街に向かいました。
しかし海竜は、陸に上がることはできません。
そこで水際から届く限りのものを壊し、口から水を吹きかけて、浜辺の家を押し流しました。
海竜は魚を捕るとき、体から強力な電流を発して獲物を倒していました。
この電撃も役に立ちました。
空気中に発すると、その電流は雷となって人間たちを襲うのです。
壊せる限りの家を壊し、船を沈めて、海竜は叫びました。
──返せ! 返せ! キッドの宝石を返せ!
──返してくれないのなら、もっと多くの家を壊してやる! 船を沈めてやる!
人々は困りはてました。
返せと言われても、宝石を盗ったのは人間たちではないからです。
そこで人々は海神・オセアンに祈りました。
海竜は、元は海神の眷属です。
人々の祈りを聞いたオセアン神は、一方で海竜の悲しみも怒りも知っていました。
それでも、このまま海竜を放置しておくわけにはいきません。
オセアン神は海竜の体を滅ぼし、その魂を封じ込めることにしました。
ただ、やっぱり海竜を憐れに思う気持ちを捨てきれません。
そこでオセアン神は大地の神・テールに頼み、キッドの眠る島が見える山の上に、祠を造ってもらうことにしました。海竜の魂を納めるための祠です。
もしもあなたが、海の見える山の上でこの海竜の祠を見つけたのなら、その場所から海の方を眺めてみてください。
そこから見える三日月型の島に、キャプテン・キッドの船が沈んでいるのです。
その島を眺めながら、キャプテン・キッドの最後の仲間である名もなき海竜は、静かに眠りについているのです。
*
「この街の近くにも、海竜の祠があるという話だけど……」
語り終えた吟遊詩人にエレナは聞いた。
「ええ。すぐそこの山の中腹にありますね。小一時間ほどで行ける距離です」
「だったら、そこから見える島にキャプテン・キッドの船が沈んでいるの?」
目を輝かせた彼女に、苦笑しながら吟遊詩人が答えた。
「皆さん、そう考えるようですね。提督レオンをはじめ、多くの人がこの辺りの島々を探索しましたが……結局、キッドの船は見つからなかったそうです」
「そう……」
残念そうにエレナは息を吐いた。
「ですので、まあ……。あの祠に海竜が眠っているという話は、その……」
吟遊詩人が言い淀む。この街にある祠は、伝説にある海竜の祠ではないと言いたいのだろう。
だが、エレナはあの祠に実際に海竜が封印されていたことを知っている。
だから間違っているのは伝説のほうか、あるいは既に誰かが人知れずキャプテン・キッドの船を引き上げてしまったのだろう。海竜の魂が封じられた祠など、そうそうあちこちにある物ではないだろうから。
そういえばターニャから名前を聞かれたとき、あの海竜は少し言い淀む様子を見せていた。
あれは、名乗るべき名前が既になかったからなのだ。
キャプテン・キッドの墓に自分の本当の名前を納めた小さな海竜は、いったいどういう気持ちで「キッド」と名乗ってみせたのか。
そう考ええると、エレナは少し哀しくなった。
海竜・キッドは“悪さ”をしてオセアン神に封じられたと言っていた。
確かにお話の中で海竜がしてしまったことは、討伐されても仕方のない所業であっただろう。
でも、それはキャプテン・キッドを想う気持ちが生んだ行動である。
大事な人の形見をなくした子供が、地団駄を踏んで暴れるようなものだ。
ただ、それを力のある海竜がやってしまうと、海辺の町に甚大な被害をもたらす結果になってしまう。
海竜には、そこが分からなかった。いや──分かっていたとしても、自分の気持ちを抑えることができなかった。
きっとあの海竜はまだ幼いのだろうと、エレナは思う。色々と、未熟なのだ。
吟遊詩人の語る話が本当であれば、キッドはけして邪悪な竜ではない。
しかし、ではそのキッドの処遇をどうするべきかというと、これはまた悩みどころでもあるのだった。
このまま自分たちと共に行動させて、本当に良いものだろうか──。
そして、キャプテン・キッドの船の問題もある。
海竜キッドがいた祠から見える海には、海賊キャプテン・キッドの船は沈んではいなかったという。
それはつまり、いま吟遊詩人から聞いた物語が真実ではない可能性があるということだ。事実を語った伝説ではなく、誰かが作った創作なのかもしれない。
だとすれば、海竜・キッドが過去にした悪さについても、必ずしも本当であるとは限らなくなってくる。
なにか裏付けになるようなものが欲しいと、エレナは考えた。もう少し、あの祠について調べてみる必要がある。
吟遊詩人に礼を言い、エレナは『はらぺこオーガー亭』に戻った。
宿の一階にある食堂に行くと、すでに戻っていたターニャがエレナを待ってくれていた。ずっと海にいたのかと問うと、そうだと言う。
「いろんな船がどんどん港に入ってきて、退屈しませんでしたよ」
ちょうど、漁船が帰ってくる時間帯だったのだろう。
「すごく大きくて、格好いい船も入ってきました。鮫の頭をした人が乗っていましたけど……あれが魚人さんなんですかね? 初めて見ました」
そのターニャの言葉に、エレナにはぴんとくるものがあった。
彼女が見た魚人というのは、ギムザという男ではなかろうか。宿の店主が教えてくれたオセアンの神官だ。
次にいつやって来るかわからぬという話だったが、ちょうど折よくこの町に来てくれた。もしかしたらこれは、海神のお導きなのかも知れない。
明日会いに行ってみるかと考えたエレナは、そこでふと思いついて宿の店主に、この街に風の神・ヴァンの神官は来るかと尋ねた。
いつ来るか分からない神官、というところからの連想だった。
風の神に仕えるだけあって、ヴァンの神官は一つの所に定住せず、風のように各地を放浪する者が多い。彼らは特定の教会を持たず、訪れた先で住民の困りごとの相談に乗りながら神の教えを説いて回る。
ギムザが、いつかは分からないが定期的にこの街を訪れる神官だと聞いて、ヴァンの神官みたいだな、とエレナは思ったのである。
彼女の問いに、主人は答えて言った。
「ヴァンの神官? ああ、定期的にやって来るよ。町外れに教会があってな。オセアンの神官はいないが、何人かの神官が共同生活してる。ヴァンの神官も、この街に来るとそこに何日か泊まっていくよ」
その言葉を聞いたエレナは、ターニャに故郷への手紙を書くように言った。
書いた手紙を明日教会に持っていって、ヴァンの神官に渡してもらうよう頼むのだ。
それは、俗に”風の便り”と呼ばれる方法だった。
各地を旅するヴァンの神官に幾ばくかのお布施と共に手紙を渡せば、目的地まで届けてくれる。複数の神官が集まる大きな街の神殿などを中継にして、神官から神官へと順に手紙が渡っていく。
神には国境など関係ないから、この方法ならば時間はかかるが、隣国のターニャの故郷にも手紙を届けることができる。
「でも、わたし……読み書きできません」
「私が代わりに書いてあげるわ」
そうして夕食後、エレナはターニャの家族に向けての手紙をしたためた。ターニャが言った内容を、キッドの燐光の下でエレナが文字にしたのだ。
暗くなってしまうと連れ歩くことはできないキッドの燐光が、このときはランタン代わりになって大変に便利であった。
ターニャは、手紙にこう書いて欲しいと言った。
『ラゴリノという海辺の街にいます。エレナさんという親切な人と一緒です。わたしは元気にしていますので、心配しないでください。気が向いたら、帰ります。海のお土産話を楽しみにしていてください』
書き終えた手紙を確認のためにターニャに見せたあと、エレナは言った。
「でも、ターニャちゃんも読み書きのお勉強をしなくちゃね。……あと、一応キッドも」
「え~、お勉強嫌いです」
「私もそうだけど……。でも、読み書きはできないと困るわ」
実はエレナは、ターニャの手紙を少し書き換えていた。
『気が向いたら、帰ります』を『必ず、無事に帰ります』に、そして『エレナさんという親切な人』を『エレナさんという美人で親切な人』としたのである。
しかし、字が読めないターニャはそのことに気がつかなかった。
それで、手紙を書き終えたあとは「せっかく、明るいのだから」と読み書きの勉強の時間になった。
エレナの教え方は結構スパルタ式だから、ターニャはいつまでも手元を明るく照らすキッドを恨めしそうに見つめていた。




