その3 水浴び
その3 水浴び
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深い海の底を”それ”は漂っていた。
”それ”の周りの水は、墨を流したかのようにどす黒い。その口から吐き出される瘴気が、水の色を変えている。
黒い水に触れたイルカが一頭、白い腹を上に向けて水面へと浮かんでいった。
この瘴気の水の中では、いかなる生物であっても生きることは許されない。
”それ”を産みだしたのは、かつて光の神々によって滅ぼされた邪神だ。
自らの造物主を滅ぼした光の神々が創り出した生き物たちを殺すことに、”それ”は無上の悦びを感じていた。
水中の生き物を殺し尽くした”それ”は海底を蹴って浮かび上がり、水面から顔を出した。
遙か彼方に島影が見える。
にたり、と水中にある口が笑みを作った。
あの島にも、光の神々が創り出した生き物たちがいるに違いない。
そいつらも、全て殺してやる──。
ゆっくりと、”それ”は島に向けて泳ぎはじめた。
※
「わーい、楽しかった~♪」
噴き上がる海水に乗って地上に出てきたターニャはご機嫌だった。その彼女に、目を吊り上げてエレナが言う。
「どこがよっ!? あ~、もう! びしょびしょだわ!」
こちらはご機嫌斜めである。服を絞り、頭を振って髪の水を飛ばしながら、彼女は続けて言った。
「それにこれ、海水じゃない!? 大変! 剣が錆びちゃうわ!」
何かで拭こうにも、持ち物は全部水びたしだ。なんとか奥の方に無事な布はないかと荷物を探りはじめたエレナに、キッドが聞いた。
『聖剣って、錆びるの?』
ターニャの方を──正確にはその腰の水袋から顔だけ出しているキッドの方をジト目で見て、エレナが返す。
「……貴方、この剣が本当に聖剣だと思っているの?」
『え……?』
「私は、『この剣が聖剣だったらどうするのか』という仮定の話はしたけど、『この剣が聖剣だ』とは、一言も言った覚えはないわ」
嘘は言っていない、と言いたいらしい。
『…………』
ポカンと、キッドがエレナを見る。
「…………」
すました顔で、エレナがキットを見返す。
『だ……騙したなぁ~!』
「貴方、私より長く生きてるんでしょう? 駆け引きぐらい、覚えなさいよ」
祠の古ぼけ加減から言って、キッドは彼女より十倍以上は長く生きているだろう。もっとも、封印されている期間に意識がなかったのだとしたら、実質的な精神年齢はそこまでではないのかも知れないが。
『うぎぎぃいぃぃ~!!』
キッドが叫ぶ。足があれば地団駄を踏んでいただろう。
あまりにうるさいので、取りなすようにターニャは口を開いた。
「まあまあ、二人とも──。そうだ、ここに来る途中に泉がありました。すぐ近くですよ。そこで、水浴びしませんか?」
「そうね。塩水を洗い流したいし……」
そこまで言ったエレナがふとキッドを見る。しばし何かを考えるような仕草を見せたあと、彼女はターニャに言った。
「……まあ、いいわ。案内してくれる? ターニャちゃん」
そう言われて、ターニャは元気に腕を振りながらエレナを泉まで案内した。
道から外れて林の中を十分ばかりも歩くと、突然に木々が途切れて視界が開ける。
海を見た後だといかにも小さいが、綺麗な水を湛えた泉が二人の目の前に現れた。
水際から十歩程度のところで木々が途切れ、砂と石ころの多い岸が広がっている。丈の高い藪がところどころに波打ち際まで生えており、その間に入れば目隠しにもなるから、水浴びには丁度いいだろう。
泉が湾のように岸に食い込んでいる場所を選んで、二人は藪の陰に入っていった。
ターニャが服の留め紐に手をかけたとことで、エレナが突然に彼女の腰の水袋を大きく開く。
『えっ?』
キッドが戸惑っている間に革を大きく広げて海竜の頭の上まで被せ、エレナは袋の口を固く結んでしまった。
『ちょっと、何するんだよ! 何も見えないじゃん!』
抗議の声を上げるキッドに、エレナは厳しい声で言った。
「いい? 絶対に顔を出しちゃ駄目よ!」
『ええ~? どうしてぇ~?』
「どうしてもよ!」
言いながら、エレナは水袋の上にさらにマントを被せて入念に目隠しをする。
「……これでよし。さあ、行きましょう」
そこでようやく、彼女は濡れた服を脱ぎはじめた。
「突然に深くなるといけないから、あまり歩き回っては駄目よ」
一足先に服を脱ぎ捨て、水に入っているターニャにエレナが声をかけてくる。
泉の水はとても澄んでいて足下までよく見えたから、エレナの心配は取り越し苦労だとターニャは思う。
ただ、ターニャは泳げないから、万が一のことがあるとやっぱり怖い。
結局、彼女は膝まで使ったところで屈み込み、あとはぱしゃぱしゃと手で上半身に水をかける程度にとどめておいた。
存分に海水を洗い流し、エレナと少しだけ水の掛け合いっこをしていたところで、岸の方からキッドの恨めしそうな声が聞こえてきた。
『楽しそうな声がするよ~。ボクも混じりたいよ~』
ただ、キッドが革袋から出てくることはなかった。エレナの言うことを律儀に守っているのか、あるいは魂だけの存在とはいえ、革の袋を通り抜けるような芸当はできないのか。
なんだか仲間はずれにしているようで可哀想になってきたターニャは、水浴びを早々に切り上げて岸に戻った。
洗って渇かしておいた服に着替えたところで、エレナの許可を得てキッドの革袋の口を解く。
ぷはっと顔を出したキッドが言った。
『窮屈だったよ~』
「でも、私たち以外の人の前では、顔を出しては駄目よ」
そのエレナの言葉に、キッドが口を尖らせて抗議した。
『ええ~? どうしてぇ~?』
「どうしてもよ!」
言いながら、エレナがやはり乾かしておいた布で剣を拭きはじめる。
陽光を反射してキラリと光る剣は怖ろしい凶器のはずなのに、エレナが持っているとまるでアクセサリーのように美しく見えるから不思議だった。
水気を綺麗に拭き取った剣を鞘に収めたところで、エレナがターニャに訊いてきた。
「……ターニャちゃんは、これからどうするつもり?」
ターニャは少し考え込んだ。
父とはぐれて、あてもなくここまで歩いてきた彼女だ。どうするかと訊かれても、はっきりと答えられるようなプランはない。
ただ、持っていた食料はさすがに少し心許なくなってきた。
路銀はまだ残っているからどこかの街で当座の食べ物は買えるだろうが、それだっていつまで保つか分からない。何かお金を稼ぐ方法を考えなければ、と思っている。
そのような内容を、ぽつりぽつりとエレナに話したあと、ターニャは最後に付け加えた。
ただ、それはそれとして──。
「もっと近くで海が見たいです!」
『ボクも、ボクも!』
ターニャに続いてキッドも言う。
「貴方には聞いてない」
そのキッドをぴしゃりと制したあと、エレナはターニャに言った。
「じゃあ、ターニャちゃん。しばらく私と一緒に行かない?」
旅のあてがないのは、エレナも同じということだった。
山を越えてオルレシアに行こうとも思ったが、関所で揉めてしまったので、しばらくあそこには行きたくない。
となると、山を下りて麓の街に向かうしかないだろう。この道をまっすぐ下っていけば、小一時間ほどでラゴリノという街に行き着くはずだ、ということである。
この辺りの山は海まで迫っていて、浜のわずかな平地に人家が集まって街を形成しているという。麓に下りるということは、「近くで海が見たい」というターニャの希望を叶えることにもなる。
そこにしばらく留まるか、すぐに次の街に行くかは、また着いてから考えましょうとエレナは言った。
彼女はこれまで、懐具合が寂しくなったら隊商の護衛をしたり、街の酒場の用心棒をしたりして金を稼いできたようである。
ただ、ターニャに荒事は無理だろうから、街の酒場でウェイトレスなんかをしてみてはどうかとエレナは言った。
「用心棒と給仕係の両方を募集している店を探してみましょう」
ちなみにエレナは、性格的に接客業は無理とのことである。
その彼女の言葉に、
──それはよくわかる。
と、ターニャは心の中で何度も首肯した。
(お尻を触られたぐらいで、相手を叩きのめしちゃうような人だからなあ……)
酔客の集まる酒場のウェイトレスなど、とても無理だろう。火薬の中に火種を放り込むようなものである。
とはいえ、一緒に行こうというエレナの提案は、ターニャにとってもありがたかった。
いくらノームとして自立する年齢になったとはいえ、一人で人間の街に行くのは、やっぱりまだちょっと心細いと感じていた。だから、これまで山中をうろうろしていたのだ。
エレナは若干性格に難はあるようだが、自分のことを親身に心配してくれているのは確かなようである。この美しい女性と一緒なら、楽しく旅ができそうだと思っていた。
「エレナさん。これからよろしくお願いします!」
ぴょこんとターニャが頭を下げると、
「こちらこそ、よろしくね」
そう言ってエレナがにっこりと笑って返してきた。




