その2 海竜の祠
その2 海竜の祠
「きゃっ!」
ターニャの体は崩れ落ちた屋根石とともに祠の床に落ち、さらに轟音を立てながらその床板も突き破った。
祠の床下は、地下室とも言える空間になっていた。床板にぶつかった痛みに顔をしかめる間もなく、瓦礫とともにさらに落下していくターニャ。
「きゃあぁぁあ~~~っ!」
「ターニャちゃん!」
ガラガラ、ドスン! ゴロゴロ、ドン! ドガラァッ! ゴロゴロ、バッシャァァァン!
祠の地下空間に落ちたターニャは、咄嗟に頭を抱えて体を丸めた。何かにぶつかりながら転がってゆき、池らしき水たまりに落ちてようやく止まる。
「痛てててて……」
「ターニャちゃん、大丈夫っ!?」
頭上から聞こえてくるエレナの声。答えて、ターニャは叫んだ。
「大丈夫です~。これぐらいは、慣れっこですから~!」
強がりではなかった。
大地の神の眷属であるノームの体は、とても頑丈にできている。
肌や皮膚の質感は人間とあまり変わりはないが、普段は柔らかいその筋肉は、力を込めれば石のように固くなる。骨に至っては鉄のように固いと言う者もいる。この程度の高さの落下で、大怪我を負うようなことはない。
ただ、この頑丈さも良いことばかりではなかった。
骨が固い代わりにノームの体はその比重が人間に比べて重く、水に浮かばないのだ。浮くことができないから、ノームはみんな文字通りの”カナヅチ”である。この水たまりがもう少し深かったら正直危なかったと、ターニャは少し反省をした。
頭から水に突っ込んだおかげで、髪の毛から大量の雫が垂れ落ちていた。おでこから鼻筋を通って垂れた水が、ターニャの口の中に入る。
「うえぇぇぇ~っ!」
途端に、ターニャは顔をしかめた。
「ぺっ、ぺっ……しょっぱい! なにこれ、塩水ぅ?」
『海水だよ』
水を吐き出しながら呟いたターニャの言葉に答えるように、どこからか声がした。
「海水……? 海の水はしょっぱいって聞いたけど……」
つい先ほど初めて海を見たばかりのターニャは、当然その水を口にした経験もない。
『海水を知らないのか?』
「山育ちですから」
言ってから、ようやくターニャはキョロキョロと辺りを見回した。
──この声は、誰のものだろう?
祠の地下は、太陽の光があまり届かず薄暗い。だが、地下の洞窟内で暮らすノームは暗闇でも物が見えるから、ターニャにとってはこの程度の暗がりは問題ではない。
それなのに、祠の地下には声の主となるような者の姿がどこにも見当たらなかった。
『こっちだ、こっち』
言われてターニャは振り返る。
瓦礫が積もって、山となっていた。地上でターニャが壊した祠やその床の破片とは別に、石の柱らしきものや煉瓦のかけらなんかも散乱している。
水たまりにはまる前、あちこちを転がっているときにターニャがぶつかった”何か”だろうと思われた。元は地上にあったのと同じような石造りの祠のようだが、今は見る影もなく崩壊している。
その瓦礫の山の上に、ぼうっと燐光のような青い光が浮かんでいた。
その光の方から、また声が聞こえてくる。
『お前のおかげだ……。あの忌々しい上の祠も、下の社も両方壊してくれた……』
偉そうな物言いだったが、声が高くてあまり威厳は感じられない。幼い少年が、背伸びして尊大な口調でしゃべっているような印象だった。
『ようやく我が封印が解けた。感謝するぞ、女よ……いや、子供か?』
「子供じゃないです」
思わずターニャは言い返していた。同年代の仲間たちに比べて、少し発育が遅いのを気にしているのだ。
「わたしはもう、十一歳です!」
『十一歳……。子供じゃないか』
「違います! ノームの成人年齢は十二歳なんです!」
『思いっきり、未成年じゃないか!』
「うぐぅ……」
そう言われると、ターニャは何も言い返すことができない。でも、せめて”娘”ぐらいにして欲しかった。
「ターニャちゃん、誰と話しているの?」
しゅるるっ……とん! という音がして、エレナがロープをつたって下りてきた。片手にはランタンをぶら下げている。
「あ、エレナさん! あれ……」
そう言って、ターニャは青い光球を指さした。
「なにあれ? 人魂?」
『違うっ!』
人魂もどきが怒ったように言った。
『ボクの正体は……これだっ!』
むくむくと青い光球がその形を変えていく。
細長い何かだった。
片方の端に頭と思われる膨らみがあり、口や目がついている。体には大きなヒレ状のもの、顔にはヒゲらしきものが生えている。表面には鱗があるように見えるから、どうやら魚か爬虫類の一種のようだ。
「海ヘビ?」
エレナが言った。
「ドジョウ?」
ターニャも言った。
『竜だ、竜ッ!』
青く光るなにがしかが、少し怒ったように言った。
『ボクは海竜だ! 見ろ、ちゃんと角だってあるんだ!』
いつの間にか偉そうな口調が消えて、一人称も”ボク”になっている。
「竜って、こんなに小さいんですか?」
核心を突くような疑問をターニャはさらりと口にした。
自称・海竜の体の長さは、彼女の肘から指先ぐらいまでしかない。まさに少し大きなドジョウか、短めのウナギくらいの大きさだ。
『今はこんなんだけど、昔はもっと大きかったんだよ!』
「なんで海竜がこんな山の中の祠にいるんですか?」
しかも、その海竜の体は青く透き通っている上に宙に浮かんでいる。実体がある存在のようには、あまり見えなかった。
『悪さして、オセアンの爺に封印されたんだ!』
「オセアンって……海神・オセアン様のことですか?」
それを”じじい”呼ばわりとは、よほど格式の高い竜なのか。それとも単なる畏れ知らずか。
たぶん後者じゃないかな、とターニャは思った。横を見るとエレナも少し呆れたような表情をしているから、きっと似たような考えなんだろう。
「何をしたかは知らないけど、悪さした自覚はあるのね?」
「あなた、お名前は?」
エレナとターニャが同時に訊いた。海竜は、エレナの言葉は無視してターニャにだけ答えた。
『ボクの名前は……』何故だかそこで一度口ごもった後、海竜は続けた。
『キッド……。そう……ボクはキッドだ!』
「キッド……」
その名前をターニャは聞いたことがある。
昔聞いたお伽話に、『海賊キャプテン・キッドの冒険記』なるものがあった。この海竜は、お話の中の伝説の大海賊と同じ名前なのだ。
「わたしはターニャです~」
名乗り返したあとに「エレナさんの番ですよ」と目を向けると、彼女はこれでもかという渋面を作ってみせた。
「どうしたんですか、エレナさん?」
その言葉に、はあっとため息をつくエレナ。
「あのね、ターニャちゃん。正体が分からないモノに迂闊に名前を教えてはだめなのよ。呪いの触媒にされてしまうことがあるらしいから」
『そんなことするわけないだろっ!』
「まあ、そうよね……。するわけないというより、できないんでしょうけど」
『ムキキキィィーーッ!』
エレナは、「海竜にはそんな能力はない」という意味で言ったのだろうが、キッドは挑発されたと感じたようだ。悔しそうにわめきながら、ヒレらしき部分をブンブンと振っている。地団駄を踏んでいる様子だ。
それを見て、呆れたようにもう一度ふうっと息を吐いたエレナが、ターニャの方に目を向けて言った。
「さ、ターニャちゃん。いつまでもこんな所にいないで、上にあがりましょう」
こんな奴は放っておいて──。
余裕の態度を見せているエレナだが、首筋には一筋の汗を垂らしていた。
さりげない風を装っているが、早くこの場を離れたくて仕方がない様子だ。
もしもキッドが暴れだしたら、彼女もターニャも対処するすべを持っていない。実体のないキッドには、きっとエレナの剣も通用しないに違いない。
ならば触らぬ神に祟りなし。とにかく、さっさとここから逃れるのだ吉だと彼女は判断したのだろう。
地上から垂らしたロープの所まで、エレナがターニャを誘導してくれる。
二人がロープを手にしたところで、キッドが慌てたような声を出した。
『ちょっ……! 待って、待って、待って! もう行っちゃうの?』
「まだ何か用があるの?」
『用? 用は……』
ジト目でエレナに問われた海竜が口ごもる。
『…………』
答えを探すようにしばらく目をぐるぐるとさせた後、キッドが叫ぶように言った。
『とにかく待って!』
すっと、青く光る海竜がロープの上まで移動する。
それを見たエレナが顔をしかめた。
このままロープを登っていけば、海竜の体とぶつかってしまう。実体がないならすり抜けられそうな気もするが、はたしてアレは触っても大丈夫なものだろうか。
「そこをどいてくれないかしら?」
にっこりと笑ってエレナが言う。表情は笑顔なのに、なんだかものすごく怖かった。ターニャだったら、言われたとおりにすぐに道を譲ってしまうことだろう。
だが、人間のそういう雰囲気は、どうやら海竜には通じなかったようだ。
『嫌だ!』
叫ぶように拒否するキッド。
いまだ顔に笑みをはりつけたまま、エレナがさらに口を開いた。
「どいてくれないと……」
『どうするもり?』
チャキリと、エレナが腰の剣に手をかけた。笑顔が引っ込み、目を据わらせた厳しい表情になっている。
その彼女を冷やかすような口調で、キッドが言った。
『その剣でどうするつもり? 自慢じゃないけど、ボクの肉体はオセアンの爺に消滅させられちゃったからね……』
「本当に自慢じゃないわね……」
『うるさい! と……とにかく、魂だけのボクには剣なんて効かないよ!』
ふふん、と鼻を鳴らすキッド。冷ややかに見返すエレナ。
「これが聖剣だと言ったら、どうするの?」
『…………。え?』
「この剣は、実体のない魂や亡霊も斬ることができる、と言ったら……貴方はどうするのかしら?」
そうなの? とターニャもエレナを見た。
(キッド……斬られちゃうの?)
この魂だけの海竜を、いまやターニャはどこか憎めない気持ちになっていた。具体的な危害を加えられたわけでもないし、問答無用で斬り捨ててしまうのもどうかと思うのだけど……。
エレナの言葉に、キッドは見事に尻込みした様子を見せた。しかしそれでも場所は譲らず、強がっているチンピラのように叫ぶ。
『で、出鱈目を言うな!』
「試してみる?」
ううっ……と、キッドが唸るような声を出した。
「素直にそこをどいてくれれば、お互いに傷つかなくて済むんじゃないかしら?」
エレナがそう言ったのと、キッドが動いたのは同時だった。
『う、うわあぁぁああぁぁぁっ!』
自棄になったような叫びを発して突進してくるキッド。
狙いは──エレナではなく、ターニャだ。
えっ? と思ったときには、もう遅かった。
キッドの体が、ターニャにぶつかる。
スウッと、そのままキッドの姿がかき消えていく。
「え? えっ……?」
突然のことに戸惑うターニャ。まるで、キッドが自分の体の中に入ってきたように錯覚していた。
しまった! というエレナの表情が、その思いを助長する。
「ちょっ……えっ……?」
確かめるようにキッドの姿が消えたあたりの体をさすっていたら、そこよりも斜め右下の方から、声が聞こえてきた。
『ねえ、お願いだから連れてってよ! ここは退屈なんだよ! もう悪さしないからさぁ!』
「え、キッド? どこ?」
声のした方向に首を動かすターニャ。腰の辺りから聞こえてきたように思うけれど、海竜の姿は見つからない。
『ここだよ、ここ!』
キッドの声は、腰にぶら下げていた革製の水袋の方から聞こえてきた。
まさかと思いながらターニャが袋の口を開くと、淡くて青い光が袋の中から漏れ出してくる。三分の一ほど入っている水につかって、一匹の小さな海竜がこちらを見上げていた。窮屈そうにとぐろを巻いて、水袋の中に収まっている。
思わずターニャとエレナは目を見合わせた。
「……どうしましょう? 連れていっていいんでしょうか?」
「どうかしら……」
エレナが思案げな顔をする。
海神に封印されてしまうような竜を祠から連れ出すことには、抵抗感がある様子だった。
ただ、この海竜は魂の状態でもある程度は動けるようだ。
このまま祠の地下に放置していったら、どうせすぐにどこかに逃げてしまうだろう。
だったら、目の届くところに置いておいた方がまだしもいいのではないか。
それにターニャとしても、もう少しこの面白そうな海竜とお喋りをしてみたい。
お母さんにおねだりをするときのような目で、ターニャはエレナを見た。
しばらくの後、はあ~っと一つ嘆息をして、エレナが革袋の方に目を向けた。
「仕方ないわね。でも、絶対に悪さはしないって約束しなさい」
『うん、わかった!』
「ターニャちゃんも、それでいい?」
「はい、わたしは構わないです! よろしくね、キッド」
『うん、よろしく』
ほのぼのと挨拶を交わしたターニャとキッドを見て、またエレナが小さく嘆息をついた。
「それじゃあ……。改めて外に出ましょうか?」
エレナがロープに手をかける。不思議そうに、キッドが言った。
『それを登るの?』
「そうよ。他に方法ある?」
『あるよ。オセアンの眷属を舐めないでよね』
そのキッドの言い方に、ターニャは「あれっ?」と思った。
どうやらこの海竜には、オセアンの眷属としての矜持がまだ残っているようである。
先ほどオセアン神を”じじい”呼ばわりしたのは、もしかしたら愛情表現の一種なのかもしれない。ターニャの故郷の男の子たちが、本当は敬愛している長老様に「ジジイっ!」と言って舌を出していたのと同じようなものではないか。
『じゃあ……行くよ!』
妙に得意げなキッドの言葉が聞こえてきた。
同時に、ターニャたちの足下の水がブクブクと泡立ち始める。
「え……?」
次の瞬間、水たまりから大量の水が噴き上がり、二人の体を高々と持ち上げた。
「きゃああぁぁーーーっ!」
「わ~~~い♪」
『えへへぇ、すごいでしょ?』
三者三様の声を上げながら、ターニャたちは噴水のような水の奔流とともに地上へと運ばれていった。




