第八話
「ベリー、馬鹿な真似はよしてくれ」
アバンの言葉にベリーは首を振った。
剣の刃が今にも触れそうで、アバン以外誰も声を出せないでいる。
「馬鹿なのは殿下でしょ。私がいつ王太子妃になりたいなんて言ったの、生まれてこの方一度も思ったことなんてないわ…!」
「そんな、それじゃ…」
アバンが一歩前に進もうとする。
しかしそれを国王が止める。
玉座の間を血で穢すわけにはいかないのだ。
ベリーは更に続けた。
「一年半前になるのかしら。殿下、あの時言ったわよね、メーナ嬢を愛している、絶対に守るって。だから私、喜んで婚約者を譲ったの。だって理由が無くちゃ婚約破棄されないじゃない!曲がりなりにも公爵令嬢だもの、政略結婚する覚悟はあるわよ、でも王太子妃だなんて!」
それに。
「殿下の妻になんてなりたくないわ。約束を違えて、愛する人を違えて、そんな人どうやって信じろっていうの」
「信じてくれベリー!今度は絶対に間違えないから」
「その根拠は何!?髪色しか見てなかったじゃない、同じような髪の女性が出てきたらその人のこと好きになるんでしょう!?」
「そんな人いるわけないよ」
「いたからこうなってるんでしょ!」
この時はまだ誰も気づいていなかった。
一人の人物がこの一連の騒動に終止符を打つために動いていたことを。
「婚約破棄が円滑に進むように国家予算を横領したっていう偽装までしたのよ!今更どの面下げて結婚するの!」
「それも嘘だったの…!?」
エリィの悲鳴に似た問いに頷く。
「公爵家にある私の寝室、サイドテーブルの引き出しの裏に本物の帳簿があります。隠した国宝は全て王太子殿下の隠し部屋に」
「何ということだ…!」
国王は頭を抱えた。
ろくに探すこともなく、王太子の婚約者とはいえ一介の令嬢に翻弄されたのだ。
しかもそれが王太子が別の女性と結婚するためにという愚かな理由で。
「で、でもこれでベリーの罪は無くなったでしょ?また一緒になれる…」
「なれるわけないわよ!六年よ!?婚約してから六年間一緒にいたのに、私に気づかなかったくせによく言えるわね!」
「そ、それは…」
「殿下の妻になるくらいなら、生き恥を晒すくらいなら、私は命など惜しくないです。…これだけのことをしたんです、不敬でも何でもいい。私を殺してください…」
ベリーの本音だった。
それだけアバンを慕うより、『魔の欠片』をこれ以上隠し続けることが耐えられなかった。
メーナは自分の髪を好いていると言っていた。
大好きな父と同じ色だからと。
しかしベリーは逆だった。
実母は髪色のせいで娼婦になるくらいしか仕事がなかった。
娼婦になっても好事家か他の娼婦から嫌われているような男ばかりを相手にしていた。
だからグリュフの目に留まり、ベリーを授かったとき、彼女は公爵家に手紙を出した。
『貴方の子を出産した、同じ紫色の目をしている』と。
妾になれると勘違いしたのだ。
当然そんなこと起こるはずがなく、ベリーに物心ついたとき、実母はとうに壊れていた。
ベリーはアバンと会ったあの時、親の分までお金を稼ぐのに必死だった。
幸いなことに悪事に手を染めることはなかったから。
けれど母が死ぬまで、いや、死んでもなお愛することはできなかった。
それは公爵家に来ても一緒だった。
初めて会った、金髪だけれど同じ色の目をした父グリュフと義兄グレンジ。
そして真っ黒に輝く義母エリィの髪と目。
エリィは心の底から愛してくれた。
それはきっと、この目が夫の面影と重なるから。
グレンジも愛してくれた、はずだった。
しかし大人になるにつれてこの世の常識を知り、ベリーが忌み者だと理解したのだろう。
いつしかグレンジがベリーと会うことは無くなっていた。
血の繋がっているグリュフに至っては政治の道具としか見ていなかった。
だから欠点となる髪を染めるよう言われたのだと、子供心に思ったことを覚えている。
金髪だったらよかった。
黒髪や目だったらよかった。
そうすればもっと皆から愛されたはずなのに、と。
「ベリー、もう一度話し合おう?」
「嫌」
「そんな我儘言わないで」
我儘だなど、どの口が言うのか。
信用できないアバンと結婚したくないというのがそんなに悪いことなのか。
今回の件できっと国王もグリュフもベリーに愛想を尽かしたはずだ、王太子妃になれるわけがない。
しかしベリーは自分が今起こしている騒動のせいで何も言わないでいる彼らが、アバンに味方しているように見えた。
「君は王太子妃になる運命なんだよ、大丈夫、僕が君を守るから」
何が大丈夫なのか。
簡単にメーナを捨てたくせに。
「こっちにおいで、仲直りしよう」
やはり、自分には命令に従うことしかできないのだろうか。
半ば諦めかけた時だった。
「いい加減になさい!」
「っ、母上?」
「殿下…」
つかつかと勇み足でやって来た王妃が振り返ったアバンの頬を扇で叩いた。
我が子の頬から血が流れるのも無視して怒鳴る。
「黙って聞いていれば自分勝手な言葉ばかり、恥を知りなさい!」
「で、ですが母上、私はベリーを」
「貴方が愛しているのは彼女ではなく、初恋の相手に酔いしれている自分自身よ」
それはベリーにとってようやく現れた理解者だった。
「王太子ともあろう者が二人の女性を振り回して、今更誰が貴方を信じるというの!」
「今度はそんなことしません!」
王妃は首を振った。
それは一国の母としての顔だった。
「貴方に今後はありません。一人息子だから大事に育ててきたつもりだったけれど、もう我慢の限界よ。アバン、私は貴方と親子の縁を切るわ」
途端にざわつく室内。
当然である。
王妃が王太子と縁を切るということは王妃がいなくなるか、王太子が切り替わるということだ。
「母上!?」
「王妃よ、それはいくらなんでも」
「陛下も見ていたでしょう?この子には王になる素質がない、そればかりか敬うべき相手を蔑ろにする愚か者です。私はこの子に国を任せられません」
「し、しかしアバンが可哀想ではないか」
「陛下がそんな優柔不断だからこんなに話が拗れたんでしょう!?」
おろおろする国王とそれを諌める王妃の夫婦喧嘩とも言えるような光景を眺めていると、エリィがベリーの腕に縋りつくように触れた。
それはきっと剣を手放してほしい故の行動だと思うが、強張った手の平がそれを許さなかった。
震える腕を動かせない。
「だ、大体アバンを廃嫡してしまったら王太子が空席になってしまうではないか」
「そんなもの、ガリエルがいるでしょう」
「が、ガリエルはもう弟の跡を継いでいる。王太子にするには…」
「じゃあスウィルを立太子しましょう。良かったですね、大公子が二人いらしたから」
完全に立場のなくなった国王は、これはもう決定事項なのだと、とうとう折れた。
目の前で繰り広げられた自分の廃嫡についてのやりとりに、アバンが待ったと声を上げた。
「父上、母上、僕は…」
「縁を切っても貴方が陛下の息子であることは変わりません。良からぬ輩に利用されては困るので、見張りをつけた上で追放しましょう」
どうやら追放先も既に王妃により決められているらしい。
「帝国には先ほど、既に手配をしました、後日皇帝陛下から返事が届くでしょう」
「叔父上から…」
ベリーは思い出した、王妃は海向こうの帝国からやって来た皇女だったことを。
今は王妃の弟が皇帝となり、今なお発展を遂げている。
大国から嫁いでこられたのだ。
ここまで国王が王妃に弱い立場なのはそのせいかもしれない。
事の重大さに気づいたのか否か、膝から崩れ落ちたアバンを横目に王妃がベリーの前に進み出た。
咄嗟に身構えるベリー。
それはおそらく王族に対する不信感。
アバンに嘘をつかれ。
国王もまたアバンを守ろうとした。
王妃が国を翻弄した挙げ句にここまで騒動を大きくしたベリーをどうするつもりなのか分からない。
今なお握っていた剣を首に近づける。
しかし次の瞬間、王妃が右手を胸に宛てて深く頭を下げた。
「殿下!?」
「この度は不甲斐ない愚息のせいで気苦労をかけました。気づけなかったばかりか、今日までそれを放置し続けた私たちにも責任があります」
「顔を上げてください殿下、家臣に頭を下げてはなりません!」
国王の妻で一国の母なのだ。
ベリーは膝をついた。
すると王妃もまた座り込み、剣ごとベリーを抱きしめた。
「今までよく耐えてくれました。貴女がしたことは確かに悪いことでした、しかしアバンのためだったことはここにいる全員が証言してくれるでしょう。どうか命を投げ出さないで、今後も国のために力を貸してください」
「殿下…」
ベリーの手から力が抜けた。
好機と捉えた兵士の手によって剣が抜き取られる。
「貴女のことは実の娘のように大切に思っています。赤い色素など気にせず幸せになってほしいのです」
「うう…、うわぁっ…」
温かい腕だった。
ベリーはそのまま涙が枯れるまで叫び続けた。