第四話
「…できた」
ベリーは絶望に満ちた目を輝かせて布を持ち上げた。
そこには公爵令嬢としての教養で身につけた刺繍の技術が施されている。
比較的真新しい布を使用しているのだ、少しは高く売れるだろう。
というのも、ベリーは孤児院へ寄付する物を作っていた。
牢屋の中はとても退屈で孤独で、すぐにでも死んでしまいたかった。
けれど自殺を図ろうとしてもあの日以降兵士がこちらを睨み続けており、怪しい動きでもしようものならすぐに止められた。
ずっと座り続けるしかなかった。
そんな折、手紙が届いたのだ。
ヒューノット公爵夫人である母、エリィから心配だという手紙が長々と書かれていた。
父親も兄も貴女を心配している。
少しでも力になればと思ったのか、そのような嘘まで書かれていた。
彼らが心配などするわけがないのに。
紙と筆を兵士から貰うことができたベリーはエリィに返事を書いたのだ。
「私の私物を孤児院に寄付したい」と。
使ってもいい、売って金に変えてもいい。
少しでも死ぬ前に善良だと言われていた令嬢に戻りたかった。
ベリーはエリィからの荷物が届くと毎日、窓からの日差しを頼りに裁縫や刺繍を続けた。
しかし雨の日や暗い日は手許が頼りない。
そんな日は、ベリーはエリィから届いた本を読み耽っていた。
どうやらアバンとの婚約破棄が私の本意ではないと、騙されたのだと勘違いしているらしいエリィ。
届くのは立場が逆転する話ばかりだ。
しかしそれがベリーにとって丁度よかった。
本を見ると心が癒やされたから。
愚かなことをしたものだと、自分を笑う余裕ができた。
兵士に読み終わった本と刺繍したハンカチをエリィ宛に届けてもらうよう依頼すると舌打ちしながら回収していく。
処分されないだけマシだと思うしかない。
どうやらメーナの指示が隅々まで行き渡っているらしい、ベリーに充てられた兵士たちは良くも悪くも仕事に忠実だった。
毎日三回、少量ながらも冷たいスープと固いパンが届けられる。
流行遅れの色褪せたドレスを毎日着替えることができる。
普通なら考えられないことだ。
メーナの望み通りの日々をベリーは過ごした。
「…いさま、グレンジおにいさま、どこ…?」
どうやら私は兄と散歩の途中ではぐれてしまったようだ。
嗚咽をしながら暗くなる森の中を独りで歩いてゆく、すると目の前から月夜に輝く金髪の男の子が近づいてきた。
「ベリーは泣き虫だなあ」
「おにいさまぁ」
優しい、いつも笑顔の兄がベリーの手を握ってくれた。
「ほら、これでもうはぐれないだろ」
「うん!」
四つ上のグレンジはベリーと同じ菫色の瞳をしていた。
やや少し彼の方が赤みが強く、屋敷の使用人たちは『魔の欠片』とグレンジやベリーを陰で噂していたのも知っていた。
ヒューノット公爵も同じ目の色だったのだが主にそのようなことを言うほどの度胸が無く、彼らは子どもの陰口しか言えない大人たちだったのだ。
しかしベリーにとってそんな大人たちなどどうでもよく、それ以上に兄の目が大好きだった。
母親であるエリィが芍薬のように鮮やかなグレンジの目を好いていることも理由の一つであった。
そして何よりベリーを見つめる穏やかな目が嬉しかった。
優しい母親と兄、二人さえいればそれだけでいい、そう心から信じていた。
「おにいさま、大好き」
そう言って笑うと、突然強い風が吹いた。
「きゃっ…!」
ベリーは目を閉じて風が止むのを待った。
「…触るな、穢らわしい」
聞き慣れた兄の声はとても冷たかった。
「お兄、様…?」
ベリーはこちらを正面から睨む、学院から帰ってきたばかりのグレンジの腕を掴んだ。
すると勢いよく振り払われた拍子に床に突き飛ばされる。
痛みはそれだけでは終わらなかった。
「お前邪魔なんだよ、いつもいつもいつも!目障りなんだよ!」
力任せに蹴り上げられ、何度痛いと叫んでも止めてはくれなくて。
「消えろよ!お前なんかいない方がみんな幸せなんだ!…だから」
『死ね』
「っ…!」
気づくとベリーはいつもと同じ牢の中にいた。
夢だと分かっていても心臓がばくばく鳴り響き、今にも口から出そうだった。
この夢を見るのは久しぶりだった。
ベリーがアバンの婚約者になる少し前、本当にあった出来事だ。
あの時エリィが助けてくれなければ、十六歳の男子の力で蹴り続けられていたら、ベリーは本当に死んでいたんじゃないかと思う。
その位、グレンジは激しい憎しみを持ってベリーを攻撃したのだ。
何も死ぬ前にそのような夢を見なくてもいいのに。
動悸がようやく落ち着いた頃、ベリーは自分の髪が随分伸びていたことに気づいた。
長年ショートヘアを続けていたのでこうして胸元まである髪を見るとどうも違和感を覚えるのだ。
(長いと『大変』だったものね…)
一度鏡を見たいとも思うが、罪人が今更身なりなど気にしたって意味がない。
ベリーはもう一度寝転がった。
たとえもう眠れないとしてもこの闇夜では裁縫や刺繍は勿論、本を読むことすらできない。
冷たくて暗い、ただ死を待つだけの部屋。
父や兄、アバンを始めとする王族貴族から不要な存在と言われた人間の成れの果て。
思わず笑ってしまった。
「…もう、充分よね…」
涙が頬を伝い流れた。
もう全部どうでも良くなった。
「私、頑張ったものね…?」
公爵令嬢として、王太子の婚約者として、未来の王太子妃として。
嫌なことも辛いことも努力し続ければ糧になると信じて必死に耐えてきた。
だけどそれは全部何の意味もなかった。
誰かのために力を貸したところでそれが実になることもなかった。
全部無駄だったのだ。
もう期待するのはやめよう。
そう考えると、自分の心が軽くなった気がした。
諦めてしまえばそれは簡単で、悲しみなどどこかに飛んでいったように、ベリーは再び眠りについた。