ーーー5話
いつものように庭先で本を嗜んでいると、一台の馬車が丘を登ってくるのが見えた。
(誰かしら? ここに人が訪れるなんて初めてだわ)
アナは読みかけの本に栞を挟むと立ち上がりマリアと共に表に出た。
『大丈夫でございます。アナお嬢様……』
マリアの笑顔に少し心を落ち着けながらも、煌びやかな馬車に緊張が走る。アナの頭には、エリックの美しい金髪と金色の瞳がよぎる。
(そ、そんなはずないわ……)
心の中で否定しながらも、「エリック殿下だったらいいのに」などと考えてしまう自分にグッと唇を噛み締めた。
なんとも言えない緊張感に包まれていると、馬車から、予想外の人物が現れた。
(……ジョンお兄様……?)
首を傾げながらも、ジョンの後ろから降りて来たエリックの姿と、その輝く金髪と金眼にトクンッと胸が高鳴るのを感じた。
(な、なんでこんな所にエリック殿下とジョンお兄様が2人で……?)
アナは、クスッと笑ったエリックに頬を染めながらもハッとしたようにお辞儀をした。
アナの兄である『ジョン・ミリタリア』は少し頬を染めたアナに首を傾げた。
「なぁ、エリック。まさか僕に内緒でアナにちょっかいをかけたんじゃないだろうね?」
「……ふんっ。私はこの国の王子だ。君の許しは必要ないのさ、ジョン」
「なっ! 兄である僕に先に話すべきだろうッ!?」
「ハハッ。悪かったよ。アナとメイドのマリアと、少しお茶を飲んだだけさ。君が心配するような事は『まだ』何もしていない……」
「……ぐっ、うぅぅ……。我が公爵家の『膿』を排除してくれた事は感謝しているが、や、やっぱりアナはひとまず家に連れ戻す事に、」
「ジョン。第一王子の前だぞ? 無礼じゃないか?」
「今はアナの兄として、貴様の『学友』として話しているんだ!」
「ハハハハッ」
アナはエリックとジョンが仲良く談笑しながら、こちらに歩いてくる様子を見つめながら引き攣った笑みを浮かべる。一切会話が聞こえない事に不安を煽られ、マリアに視線を向けた。
「ふふっ……アナお嬢様……」
少し涙ぐんでいるマリアの笑顔に、なぜか涙腺を刺激される。どんな時も側にいてくれたマリアの涙に胸を締め付けられる。
(何が、どうなって……)
アナは困惑しながらも、目頭が熱くなって行く。マリアの涙は喜びに満ちていて、きっと自分のための涙なのだろうと理解してしまったから。
目の前にエリックがやって来る。横にはとても穏やかな笑みを浮かべた兄。まだ現状を把握出来ていないアナは、もう一度お辞儀をしながら激しい混乱に包まれていた。
(どうすれば、私はどうすれば……?)
――何もしなくていい。大丈夫。
少し低くて、とても優しく、何よりも甘い声がアナの頭に飛び込んでくる。
(えっ……? これは『声』? そ、そんなはずない。で、でも……私の中に『音』が聞こえた……?)
バッと身体を起こすと、驚いたような兄と不思議そうなマリア。そして、穏やかに微笑むエリックが立っていた。
(エリック殿下……?)
誰かが口を開いたのは見ていない。正確には誰も口を開いていない。だが、アナの頭には確かに声が響いた。
――そうだ。私の『声』だ。
(……え? なぜこんな事が……)
――まだ幼い頃。アナ。君がまだ5歳だった頃……。『心が視える少年』に会わなかったかい?
(……!! エ、エリック殿下が?)
――『心が視える少年』は『心を視せる少年』でもあったようだ。
(王都でお会いした不思議な少年が、殿下だったの……?)
――あぁ。あの時から私の心はずっと君の物なのだ。
(そ、そんな事……)
――アナ・ミリタリア……。私の妻になってはくれないだろうか?
あまりに衝撃的な出来事とエリックの少し緊張した笑顔に急速に涙が込み上げてくる。ただ、自分の中に『音』が響き、口を開かずとも会話をしている。
まるで無数に読んだ物語の中の『魔法』のような……、まるで物語の主人公になったような感覚に包まれる。
アナにとってこれ以上に幸せな事はなかった。
「あっ、うぅ……あっ、あぁ……」
自分の声は聞こえない。何をどう発音すればいいのかもアナにはわからない。この感動を誰かに伝えたいのに、伝えられない事がもどかしい。
「アナお嬢様……」
マリアはアナの異変に素早く対応する。そっと手を取り、ギュッと握りしめるが、アナが悲しくて泣いているわけではない事はわかっている。
アナは絶対に、辛くても悲しくても泣かない。アナが涙するのはいつも幸せを感じた時、嬉しくて仕方がない時、ひどく感動する物語を読んだ時だけだとマリアは知っているのだ。
マリアには何が起こったのか全く理解は出来ない。でもアナの涙に自分の涙を堪える事は不可能だった。
ジョンは泣きじゃくるアナに言葉を失った。この中で1番、アナの境遇にもどかしさを抱いていたのはジョンだった。
聞くに耐えない言葉を浴びせられても、少し困ったように笑っていた自分の妹。言葉が聞こえないからこそ、顔色から無数の悪意を一身に背負い続けた妹。
『自分が守らなければ』と決意してから随分と経ってしまった。この涙の理由はわからなかったが、原因はわかっている。
チラリとエリックの顔を見つめながら、
(早速、アナを泣かせやがって……)
と悪態を吐きながらも、自然と笑みが溢れた。
エリックは未だ泣き続けるアナを抱きしめてしまいたい衝動をグッと抑え、そっと跪いた。
――アナ。これからは物語を紡ごう。誰かが創作した物ではなく、私の横で自分の物語を始めてみてはどうだろうか?
(……エリック殿下。私は、……私は『欠陥品』なのです……)
――私が他人の心を読める『化け物』だと伝えた時に、君がくれた言葉を君に返そう。『あなたがあなたを否定してはダメよ? 自分の首を自分で絞めても苦しいだけ』。
アナはエリックの言葉に涙を加速させる。王都の医者に連れて行かれた時に出会ったボロボロの少年。「人間は汚い」と泣き出してしまいそうだった少年。
『いつかまた会えるかな?』
少し年上なだけなのに、とても綺麗な字を書いた少年。まるで、物語の主人公のような『力』を持った不思議な少年。
(エリック殿下……。本当に私でいいのでしょうか? 殿下にはもっと、もっと相応しい方がおられるのでは……?)
――『心が読めるあなたなら、自分の首を絞めていた手を離し、大切な誰かに差し出せるようなカッコいい大人になれるはず』……。アナ・ミリタリア。この手を取ってはくれないだろうか? 必ず幸せにしてみせる。
エリックは手を差し出した。金色の髪を穏やかな風に靡かせながら、美しい金色の瞳を太陽に反射させながら……。
アナはマリアの顔を見た。いつも側にあった自分の1番の理解者。ふぅ〜っと息を吐き出し、ペンを走らせる。
『ねぇ、マリア。私はマリアと本があれば、それで充分すぎるほどに幸せなの。これ以上を望めば天罰が降る。でも、どうしよう……。求められる事が、ペンと紙がなくても会話出来る事が、どうしようもなく嬉しいの。私……、いいのかな?』
マリアは涙で滲んでいるその文字に、ポロポロと涙を流しながら、
「当然でございます」
とニッコリと笑顔を浮かべた。アナはチラリと兄の様子を窺うと、今まで見た事のないような優しい笑顔で返された。
(こんなの夢に決まってる……)
――夢じゃない。夢だなんて許さない……。
アナは更に涙を流しながらエリックの手を取った。
エリックの体温を感じる。自分の震える手をギュッと握りしめてくれる大きな手に涙が頬をかける。
(殿下。私は耳が聞こえません。喋る事も出来ません……。私は本が好きです。マリアの事も大好きです。そして、あなたの優しい笑顔と……少し低めの甘い『音』が大好きです。初めて聞いた『音』が殿下の声だなんて、私はなんて幸せ者なんでしょう?)
――アナ。一枚の紙切れが私を変え、救ってくれた。
エリックはアナの手を取ったまま立ち上がり、優しく微笑むと、口を開いた。
「君を愛している……」
その言葉はアナには聞こえなかったが、その愛おしそうな眼差しにアナは屈託のない笑顔を浮かべた。
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