4話
長宗我部と一条家の関係は一条家という家が如何に異端な家かを説明する必要があるだろう。
そもそも一条家は京の一族である。
古くは鎌倉時代に摂関家の九条道家の四男、実経が一条室町に屋敷を与えられた事からその歴史は始まる。
当時の道家の権力は絶大であり自身の嫡男どころか実経にも摂関の座を与えた。
以降、一条家は摂関を排出する家となり他の摂関家と併せて五摂家と呼ばれるようになった。
そんな一条家であったが応仁年間に京にて応仁の乱が発生すると当時の前関白、一条教房が自身の荘園であった土佐中村に下向した。
当時は武士が力を持ち荘園を奪われる可能性があったのだろう。
しかし周辺の豪族は一条家が中村に入るや否や一斉に一条家の傘下に入り中村は小京都と呼ばれるまでに発展した。
そこから100年後に一条家の当主となっていたのが一条兼定である。
兼定の最終的な官位は従三位権中納言。
かつて畿内を支配した三好長慶ですら従四位下だったことを考えれば彼の異端さが分かるであろう。
だが兼定は暗愚だった。
元親が手を出さずとも自分で重臣を殺害し家臣達に追放された。
そこで付け込んだのが元親だった。
しかし元親からすれば一条家はかつて父の御家再興を助けた大恩ある家。
天罰を恐れた元親に対して代わりに天罰は自分が受けようと申し出たのが弟の吉良親貞である。
親貞も信親同様に直情径行で戦場を駆け抜けるのが得意なタイプであった。
更に言えば親貞は吉良氏の養子に入っており、一条家に恩義などない。
そう言う名目で一条家を攻めこれを破った。
翌年に兼定が攻めてくるもこれは兼定の残した嫡男の内政を守ることを大義名分として長宗我部軍の全力を持って撃破した。
ここに長宗我部の土佐統一が成されたのであった。
せいぜい20万石の土佐を統一するのにここまでの時間を有したのは元親が決して無能だった訳ではなく、元親が慎重だったからだろう。
実際、若い信親が台頭して以降の四国統一のスピードはかなり早く土佐統一から10年で四国を統一している。
さて、話は元親と信親に戻る。
「考えておこうばかりでは無いですか。織田様は来年に上洛せよと申しておられました。上洛したら直ぐに初陣させてくだされ」
「うーむ、初陣はまだ早いのではないか?」
「初陣など早いに超したことはございませぬ。それに伊予攻めの軍勢は直ちに立て直さなければなりませぬ」
この頃、吉良親貞の体調が優れない。
来年に病死するのだがそれ以降の伊予攻めはグダグダで信親の守役の福留親政、後任の司令官の久武親信が戦死する事態となっている。
「来年以降に考えよう。それで良いか?」
「あと爺(親政)は俺が初陣するまで手元に置いてくだされ。下手に討死されては困ります」
福留親政は来年の伊予の戦いで戦死する。
戦場のみが自分の生き場と豪語しているが死なれては信親にとって困る。
「ならばお主が初陣するまで伊予への大規模な攻勢は控えるとするか……。土佐守に推挙するように織田様に申し出てくれたのはそなたであるしのう」
最近伸びてきた顎髭を擦りながら元親がボヤく。
今年で38になるがかつて姫若子と呼ばれただけあって未だに色白で高身長、見た目は若い。
「忝ない。阿讃のことは父上にお任せ致しますぞ」
「うむ。早速、白地城を攻めて参る。しっかりと留守番しておけ」
「ははっ」
信親が帰国してすぐ、元親は三千五百の兵を率いて三好氏の支配下にある白地城に攻め込んだのだった。