124話
大谷・小西という宇喜多軍の主力の崩壊はすなわち宇喜多軍の崩壊を示した。
西からは長宗我部、南からは島津、東からは毛利。
西国の三大大名を前に秀家で勝てるはずもなかった。
次々と宇喜多兵は討ち取られ、遂に秀家も兵士に囲まれた。
「ふん、殺すなら殺せ!もう思い残すことは無いわ!」
「いや、そうはいかん!総大将様よりお前は取り押さえるように命じられておる!」
兵士たちを指揮する島津豊久が言うと秀家は長宗我部本陣に連行された……が。
信親にとって最優先は反乱を起こした諸将の領土の制圧である。
まず秀家を上方に護送し増田長盛に預けると信親は東海道を進み島津義弘・毛利輝元に関東制圧を任せると甲府城へと立ち寄った。
ここでは武田信定とその一族郎党が壮絶な討死を遂げており、彼がしばらく持ちこたえた事で長宗我部軍は兵士を揃える事が出来た。
(信定……そなたの忠義は忘れぬぞ……)
信親はそっと手を合わせた。
その後まもなく、宇喜多領及び反乱勢力の制圧に終了した長宗我部軍は大坂へ帰還。
その後論功行賞が行われた。
まず処罰されたのは宇喜多秀家。
彼は紛うことなき今回の騒乱の原因であり改易、一族郎党が処刑された。
信親はこの処分は徹底しており、秀家を止めなかったとして秀高の妻の自身の娘すらも八丈島に流罪とした。
唯一許されたのは秀家の娘で秀親の妻となっていた女子だが出家させられ、秀親は新たに公家から妻を取る事になった。
佐竹義宣は生き延びたものの改易となり、徳川・結城・小西・大谷も改易となった。
また大友義統・前田利政も自害したため改易となり、大方の戦後処理は終了した。
そして勝利した長宗我部側だが信親は思い切った手段に出た。
まず宇喜多に代わり関東80万石を立花宗茂に与えた。
そして宗茂の旧領と能登に堀親俊を入れ、米沢を伊達政宗に返還した。
続いて常陸は丹羽長重に与え長重の旧領のうち20万石は長谷川家に与え残る20万石は自身の家老である吉田家に与えた。
そして上杉景勝が会津に変わって下総下野上野を与えられ上杉家は謙信以来の北関東を取り戻した。
上総には黒田親高が入り上杉の監視枠となる。
真田家は宇喜多と繋がっていたという疑惑がかけられ上野の所領は召し上げられたものの依然として信濃一国の領有は認められた。
そして景勝に代わり会津に入ったのは津野親忠でその所領は60万石とされた。
次に東海道は甲斐に真田信繁が新たに入り、三河には久武家、遠江には平塚為広・小野木重次、駿河には中島家が入った。
そして尾張には河野親通が入り念願の大名へと親通は昇格したのだった。
さらに美濃の大垣城には金子元宅が15万石で入城し、岐阜城は三好親長が20万石で両名ともに親通の与力とされた。
そして備前美作は本山家、備中は毛利輝元、肥後南部に島津義弘、そして香川親和は筑後を加増され九州の守りを任された。
その他の豊臣家蔵入地である要所には長宗我部家の重臣が入り信親自身は嫡子の秀親に四国を任せるの自身は摂津兵庫に新たなる居城を作り始めたのだった。
こうして新たなる天下人と周辺から認知されるようになった信親は心にぽっかりと穴が空いたように老いてしまったのだった。




