35話
天正13年の6月、秀吉は毛利家に対して吉川家を討伐する事、足利義昭を差し出すこと、備後・出雲の割譲を最後通告。
これに輝元が拒否したため、自身の勢力下にある軍勢に出陣を命令した。
山陰からは亀井茲矩、宮部継潤を先鋒に羽柴秀長、細川忠興、丹羽長重、蜂屋頼隆らの三万、山陽には宇喜多秀家を先鋒に秀吉、羽柴秀次(信吉から改名)、堀秀政、織田信重、筒井定次、仙石秀久、蜂須賀正勝、羽柴秀勝、蒲生氏郷、中川秀成、高山右近らの八万、伊予からは信親率いる二万五千が中国へ押し寄せた。
更に秀吉と誼を通じていた大友宗麟の軍勢も筑前方面に兵を集中させ、毛利輝元は4方面に備える必要があった。
「さて、我らが先ず目指すのは村上水軍の本拠地の能島だが……羽柴様が九鬼水軍と来島水軍を寄越してくださったのでそれに制海権を確保させてから能島に上陸する。先鋒は孫次郎に任せる」
信親移動後に実質的な土佐の支配者となっていた津野親忠は指名されると少し驚いていたようだが直ぐに力強く頷いた。
「此度が初陣だが初陣で少しはキツい戦場を経験した方が良い、俺はそうだった。期待しておるぞ」
「ははっ!お任せ下され!!」
能島周辺に展開する村上水軍に対して長宗我部軍は九鬼水軍、来島水軍、さらに自身の手元の塩飽水軍、土佐水軍、淡路水軍も全投入し村上水軍を壊滅させると津野勢が一気に上陸した。
村上水軍も多少の抵抗はしたが多勢に無勢、村上武吉ら中心人物は自害し能島城は落城した。
毛利家は国人衆が力を持っていたが秀吉軍の全面攻撃に彼らが組織的に抵抗することが出来ず次々と降伏。
吉川元春とその一族のみが徹底抗戦を主張したが輝元、小早川隆景らはこれに難色を示し独自に講和の道を模索した。
そうこうしている内に月山富田城に羽柴軍が到着し吉川元春、元長、広家らは自害して果てた。
その後、安芸に羽柴・長宗我部軍が侵入した時点で毛利輝元は降伏した。
毛利家の損害は吉川勢と村上勢のみでありほぼほぼ消化試合となった毛利征伐は2ヶ月で終了した。
毛利家は当初の予定通り、防長36万石に減封、宇喜多秀家は備中を加増され西国の抑えとして蜂須賀家政が出雲18万石と仙石秀久が備後10万石、そして最も所領を手に入れたのが安芸を中心として42万石へ加増転封された堀秀政だった。
その直後、秀吉は関白に任官。
勢いのままに佐々成政も降伏させあっと言う間に本州の大半を支配下に置いたのだった。
一通りの戦後処理が全て終わると秀吉は大坂に信親と秀政を呼び出した。
「長宗我部土佐守、参りました」
「羽柴左衛門督、参りました」
2人が頭を下げる。
既に秀吉は朝廷の中でもトップクラスの官位であり2人がおいそれと話しかけられる相手ではない。
「遠路はるばるご苦労。そなたらを従四位下侍従に任ずる事にした。これよりは西国の統監として九州に目を光らせよ」
「承りました。しかし我ら堀家よりも宇喜多家の方が石高は多いはずですが……」
中国征伐後に秀吉勢力圏で行われたされた検知により宇喜多家は60万石まで勢力を拡張させていた。
現状では100万石(農地開発で10万石増えた)の所領を持つ信親、76万石の前田利家に続いて3位の所領を持ち堀家より多い。
「八郎は我が一門衆じゃ。それゆえ所領も多いし官位も参議に推挙する。しかし若いし実戦経験に乏しい。そなたがアレを黒田官兵衛と共に指導せよ」
「ははっ、承りました」
「土佐守は蜂須賀、仙石を与力とせよ。それから淡路の脇阪、加藤らも必要なら指揮下におけ」
仙石秀久だけでなく加藤嘉明や蜂須賀家政が居ることに信親は内心で胸を撫で下ろす。
彼らがいれば良い仲裁役になるだろう。
「それと兵役も決めた。基本的には1万石につき300人じゃ。土佐守は3万、久太郎は1万2000じゃ」
「ははっ」
多いな……。そう信親は思った。
一領具足を家臣団に取り込む事は成功したがそのせいで長宗我部の軍事制度はその他の大名と大差がなくなってきている。
これから九州、小田原、朝鮮で毎回3万を率いるのはやはり面倒だ。
ボヤきながら信親は新しく出来た大坂の屋敷へと帰るのだった。




