表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/9

6

「帰りたくないんですか?」


 僕は彼女の言葉の真意をはかりながら、恐る恐る聞いた。


「うん」


 滝川先輩と僕は視線を合わせた。夕闇を隔てた二メートルほど先のところに、彼女の整った顔が青白く浮かんでいる。お互いを見つめあったまま、少しの間、沈黙が流れた。十数秒後、滝川先輩がにこっと笑い、沈黙を破った。


「こういう時ってさあ、チューするよね」


「はい?」


 たぶん僕は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたと思う。


「ドラマとかだと」


「はあ」


なんて答えればいいかまるで分からなかった。じゃあ、しましょうか、と答えれば、キスをさせてくれるのだろうか。けれどももし断られたら、こんなに気まずいことはない……そんな心内言語が一瞬にして僕の頭に渦巻いた。


 僕が滝川先輩の顔を見つめたまま固まっていると、やがて彼女の顔が一気に崩れて、はじけるような笑い声が起こった。


「はははは、ごめん。冗談だよ。困らせちゃったね。ほんと誠也はからかいがいがある。ちゃんと帰るよ。帰りたくないけど」


「はい」


 僕は内心のどぎまぎに気づかれないよう、生真面目に答えた。そこで滝川先輩は視線を外し、前を向いた。そうして声のトーンを一気に落として言った。


「うちね、お父さんがいないんさ」


「はい?」


「私が小五の時、親が離婚したんさ。私が小学校に上がる前くらいからかな……ずーっと夫婦仲が悪くて。だからお父さん、いないの」


「そうなんですか」


 僕はなんて言ったらいいか、分からなかった。ただ彼女の美しい横顔を見つめていた。じっと夕闇を見つめているその横顔は、鼻の頭が若干上を向いていることをのぞけば、本当に綺麗な、百点満点の顔だった。


 それから滝川先輩はすらすらと語りだした。彼女の両親の仲がもうどうにもならなくなった頃、毎晩のようにリビングで口喧嘩をしている、両親のその怒声を、弟と泣きながら寝室で聞いていたこと。離婚が決まった直後のある夜、家族会議のようなものが開かれて、父親と母親、どっちについていくか選びなさいと、弟と共に両親に迫られたこと。いよいよ父親と別れる前の最後の日曜日、家族四人で東武動物公園に行ったのだが、これで父親と出かけるのは最後なんだという寂しさばかりで、全然楽しめなかったこと……。


 それから彼女は弟と共に母親についていくことになり、埼玉の春日部のマンションから栃木の母親の実家に引っ越した。今彼女は祖父母と、母親と、弟と暮らしている。母だけでなく祖父も働いているので、経済的にはある程度余裕があり、家事も祖母がやってくれているので、そんなに苦労という苦労はしていない。祖父母も、母も、自分と弟を十分愛してくれているのもよく分かっている。でも――


「でも、時々、どうしようもなく寂しくなるの。お父さんが居ないことが。そうなる時は、いつも思うんさ、私、おじいちゃんやおばあちゃんや、お母さんにここまで育ててもらっといて、なんて悪いヤツなんだろうって」


 そう言って滝川先輩は黙った。僕が十三年間という短い人生で聴いた中で、一番、切ない話だった。そして、この日の滝川先輩が、いつも明るい彼女に似合わず、川に飛び込みたいと唐突に叫んだり、家に帰りたくないなどと言い出したりした理由がなんとなく分かった気がした。僕はそんな彼女をなんとかなぐさめてあげたいと思い、口を開いた。


「それは、全然、そんなことないと――」


 その時だった。


「おい、お前らこんなところで何してる」


僕たちの目の前に横たわる通りの、セブンイレブンの方から、突如若居が姿を現し、野太い声をあげながらこちらへやって来たのである。


「お前ら、買い食いは校則違反だって分かってるよな?」


若居は僕たちの目の前まで来ると、威圧感のある声でそう言った。


「……」


「……」


 僕と滝川先輩は黙りこんだ。まだ反抗期に入る前で、教師に対してはひたすら(おそ)れを抱いているばかりだったこの時の僕は、すっかり縮みあがってしまった。


「こんな暗くなるまで二人で何してたんだ、滝川」


若居はそう言うと、腕組みをしてふうっと鼻息を吹いた。その大ぶりの鼻の穴がひろがった。


「……別に、帰りが一緒になって、そのついでにただしゃべっていただけです」


 滝川先輩はいかにも不機嫌そうに答えた。その答え方があまりにぶっきらぼうだったので、僕は若居の怒りが爆発するのが怖く、(先輩、もっと反省していそうに答えないと!)と、心の中で祈った。


「本当か?おい、拓実」


問われても、僕はすっかり緊張で固まってしまって何も答えられなかった。


「私から誘ったから、拓実君は何も悪くありません。だいたいなんで先生こんなところに来たんですか?」


 滝川先輩が助け舟を出してくれた。女子にかばわれるなんて、情けなく、僕は自分の弱さがもどかしかった。若居は滝川先輩を睨み、奥歯を噛んで大きく張ったエラをぴくぴくっと動かした。


「一中祭の後で浮かれて、遊んでる生徒がいないかどうか、先生たちで手分けして街を見回ってるんだ! お前ら、ここに来たのが俺じゃなくて警察だったらな、不純異性交遊で補導されてもおかしくないぞ!」


 ただ肉まんを一緒に食べていただけで、不純異性なんちゃらなど、いくらなんでもおおげさだと、従順な僕にも思え、僕は初めて反抗心を覚えた。


「……なにそれ」


滝川先輩が不機嫌そうにぼそりと呟いた。僕はその一言に心うちで喝采を贈る一方で、(ああー言っちゃった)と、若居が今にもキレるのではないかと恐怖した。


 この一言を聞いて、若居は黙り、おもむろに腕組みをほどいて、一、二歩、こちらへ近づいた。そうして僕たちが座っている七段ほどの石段を一段登ると、ビンタするのにちょうどいい高さになった滝川先輩の頬を、右手を振り上げて叩いた。


「……っつ」


 滝川先輩は叩かれた勢いで顔を右に振った。長い髪が揺れ、その口元にかかった。その髪を手で直し、ゆっくり前を向いて、今叩いた男の顔を冷たい目で見た。若居はその冷ややかな視線を無視し、


「滝川は歩きで帰るのか? もう遅いから、車で送る。拓実は? 自転車か。ここから家はどれくらいだ? ……じゃあ、自分で帰れ、寄り道するなよ。滝川、行くぞ」


と、さっさと決めて滝川先輩を立たせてセブンイレブンの方に二人で歩き始めてしまった。僕も自転車をセブンイレブンの駐車場に停めていたので、二人の後についていった。


 セブンイレブンの駐車場の端に黒いセダンが停めてあった。どうやらそれが若居の車らしく、若居はその運転席のドアまで行った。滝川先輩も迷い無く反対側の助手席のドアの前に行き、若居が鍵を開けると、ドアを開いた。そして、その様子を車の後ろから見ていた僕の方を振り返り、無理矢理笑顔を作って小さく手を振ってくれた。僕はそれに会釈を返した。


「気をつけて帰れよ」


 もう車に乗り込んだ若居が、車の中から顔だけ出して、こちらを振り向いて僕に大声をかけた。それからドアの閉まる音が運転席の分と助手席の分、二回して、エンジンがかかった。車は一度バックし、駐車場の中ほどまで行くと、今度は方向転換しながら前進して通りへと去っていった。


 車を見送った僕は、店の前に停めてあった自転車にまたがり、ヘルメットを被って走り出した。渡良瀬川を渡る前にある十字路の信号に、すぐ捕まった。信号を待つ間、ふと空を見上げた。星がいくつか輝いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ