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城門前によく知った姿を見て思わず駆け出してしまった。微妙な青を帯びた病衣は暗い中でみると白く浮かび上がり、下部で雑に結われた毛が片方の肩に寄せられている。晩夏というのに厚着をしていた。彼は車椅子にも乗らず杖もついておらず、己の脚だけで立っていた。胸騒ぎがした。こけた頬や痩せ衰えた腕、骨で窪む手の甲には這い伝う蔦のような斑紋のような痣が描かれ、以前よりも濃い。秋の匂いを含んだ風が2人の間を通り抜ける。縹の肉体そのものは明らかに弱っている。死者が現世に還ってくる時期だと紫暗は言っていた。儲けるための戦略だと笑い飛ばしていた。信憑性のないことだ。だがあの重病人が何の助力なしに立っていられるとは思えなかった。すでに、縹は。
「縹さん」
「どこのお家のお嬢さんかと思ったよ」
視力は戻ったのか。絞りの浴衣を観賞する片方の眼球にも痣が浮かんでいる。姪の両肩に肉感の失せた手を乗せ、目線を合わせてゆっくり屈む。動いたら均衡を失って転倒していまいそうなほど頼りない身体だった。転倒した後は骨も無事では済まなそうなほどに脆く見えた。
「よく似合っているよ。良かった……帯と飾り紐は君が選んだのかな」
襟巻に手を止め、垂れた両端を避けられる。目元を眇め、何度も脳天から爪先までを往復した。言おうとして、監視役が姿を現したことは言わないほうがいい気がしたために黙った。他に別のことを言おうとしたが上手く口が回らなかった。縹は眉を上げて微笑した。
「取っておいてよかった」
縹は数歩先まで歩き、振り返ると手招きする。幻ではないだろうか。幻だったら。醒めなくていいのではないか。偽りの叔父が待っている。共謀者の夢へ急いだ。危ないと言っているだろう。まるで踵の疲れに気付いているように優しい眼差しで笑われる。咳の負担を抱えていない通った声が少しずつ乾燥していく空気に溶けていく。
「今日は調子がいいんだ。ずっと寝ていたからかな。いい暮らしだよ」
「あまり無理をなさらず」
幻ならば。気を遣う必要などない。顔を立てる義理もない。
「無理なんてしていないさ。君こそどうなのかな」
「わたしは無理などしていません。無理をしておけばよかったと思うばかりで…」
縹がよくする笑い声が聞こえた。しっかりとした足取りだった。
「君には大切なものがあるのだろう。いいんだよ、それで」
「縹さんには、無いんですか」
足音が微かにあった。転びはしないか、突然倒れたりはしないかと心配ばかりで自身の足元が覚束なかった。自分の声で何を問うたのか聞いた。無いだろう。彼が語っていた朽葉は死んでいる。住処も爆風に散った。身も病に蝕まれている。答えない縹を見ることに躊躇が生まれた。
「…どうだろうね」
「あるはずです。無いわけない。あります。わたしの“いとこ”はどうなるんです」
「無い、とは言っていないよ」
仕方のない子だな、とばかりに縹は笑っていた。色素の薄い毛先が肩で揺れた。
「縹さん。わたしが送ります」
進行方向が離れ家になっていることに気付き話題を切って力強く言った。悪戯が露呈してしまったときの笑みを浮かべ縹は肩越しに極彩を一瞥した。
「君と出会って色々変わったよ。色々変わった…本当に」
項垂れ、縹は素直に従った。
「我儘に従ってくださってありがとうございます」
縹の腕に触れた。握り潰して折ってしまいはしないかと細心の注意を払う。振り払われるかと思ったが縹は極彩に片腕を任せた。甘苦い薬草の強い香りの中に縹の匂いの他に清々しく甘やかな花の匂いがした。幻ではなかった。しかし幻よりも儚いらしかった。
「今日は…楽しかったかい」
「はい」
遠い目をした切ない笑顔に極彩は何か妙なことを口走ったかと反芻した。
「大きな祭りだっただろう?あの花火は今年が最後らしくてね。いい思い出になるといいのだけれど」
花火師の引退・技術継承と機械化と費用の都合なのだと縹は話した。
「ボクの小さい頃からあったからね。あの花火師の晩夏千変花火なんて年に1回だから、季節が過ぎればすぐに忘れてしまうのに。きっと来年の今頃も、あの花火を惜しむことはあれど、再来年は思い出すこともないのかな」
「でもいつか思い出すんですよ、今みたいに。きっと。わたしが思い出します。思い出話に付き合ってくださいますか」
「不思議な子だね。いくらでも付き合うさ、どこにでも」
縹の気配が突然消える。焦り、心臓が大きく張った。暗闇を歩いているかのような錯覚に囚われた。立ち止まり、髪飾りの鈴が空回る。虫の小さな合唱に包まれ、薄暗い視界を取り戻した。季節外れの甘酸っぱさが鼻の奥を通っていた。
「縹さん…?」
「ああ、ぼうっとしていたよ。昔祭りに行ったことを思い出していた」
「この浴衣は、縹さんが貸してくださったんですか」
「ボクの……知り合いの浴衣だったんだ。もう出すこともなかったから。余計なことをしてしまったかと思ったけれど着てもらえてよかった」
外から回ると縹の部屋は近かった。明日にはまた体調を崩すのではないだろうか。室内に上がり、扉の前に立つ。
「ありがとう。迎えに行くつもりが送られてしまったね」
病人は向き直り、極彩の襟巻を正した。
「礼を言わねばならないのはわたしです。ありがとうございました」
縹は微笑を浮かべて首を振るだけだった。照明の下では酷く血色が悪く頬骨に影が落ちる。薄い色の毛先が艶を失って傷んでいた。だが屈託のない彼の態度が気に入らなかった。
「過ぎた姪を持ったものだ。風邪には気を付けなさいな。これから寒くなるからね」
幼い子供にするような手つきで極彩の乱れた髪を耳に掛ける。そしてそのまま撫でられる。
「叔父上」
「ありがとう。もう寝ることにするよ。君も疲れただろう。見送らせてくれるね」
冷えるから中から行きなさい。全く馴染みのない兄というものに似ていた。縁のない、ただ形式ばり理想化された兄というものだった。
縹に良好の兆しが現れたのだ。喜ぶべきだ。安堵感は無い。胸騒ぎばかりがした。縹のほうを振り返ることも一礼することも出来ず距離が開いていく。長い廊下を抜けた。踵が鈍く痛んだ。息苦しくなり、視界が霞む。回復しているあの叔父の状態を喜ぶことが恐ろしかった。薄香寺で踏みそうになった、死を待つだけの蝉のようだ。寂れた廊下を出る前に壁に爪を立て、腕に顔を埋める。歯を食い縛り、喉の奥から熱い息を吐く。吃逆のように声が漏れる。深く息を吸い、大きく膨らんだ胸が沈んでいく。帯に圧迫された。落ち着いたつもりになって人通りの激しい廊下へ合流する。間が悪いことに藤黄と鉢合わせになった。
「極彩殿」
目を剥き極彩の姿を捉え、跪いて慇懃に揖礼する。何か小言をもらうのだと構えた。藤黄はわずかに顔を上げ、訝しげに様子を見ていた。
「お疲れ様でございます」
慇懃な態度に慇懃に返す。峻厳な面構えの男は片膝を着いたままで揖礼を解こうともせず観察を続けている。
「極彩殿、どうかなされたか」
結ばれた両腕の奥の厳めしい顔には戸惑いがあった。




