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名も声も出身も、性別すらも分からない。だが近い空の下で生きていた。生物として死なせたのは桜にせよ、この者を死に至らしめなければならなかったのは生か。洗朱か。官吏か。国か。汚れた包帯に全身を覆われ、その上に真っ白な新しい布が掛けられている。死者に、手の施しようのなかった者に回せるだけの余力はまだあるらしかった。この者と城で働いている者たちは一体何が大きく違ったというのだろう。城の者にも死者が出たというのに。
「わたしも行こう」
踵を返し、工具店に下りると銀灰は待っていた。大きな双眸が強く照っている。
「初めて、こことは違う楽しくて、豊かな土地に行けたらいいと思ったっすよ」
銀灰の顔を捉えると変わらない犬歯を見せる。笑っている。
「…そう」
「あるわけないの、分かってるんす。でもね…生きてる人が持っちゃう期待みたいな、厄介な夢っすよね」
「だから区切りがつけられるんじゃない」
返事は軽快な笑い声だった。
「桜ちんに大仕事任せてちゃってごめんね」
「桜が承知したことならわたしが口を出すことじゃないよ」
安楽死。浮かんだ言葉に寒気がした。提案するに値しない。誰の安楽を求めているのか。部外者が口を出すわけにはいかない。この手でそう出来る気さえしないというのに。銀灰が何かぽつりぽつり話したが全く耳に入らなかった。
「白梅ちゃん?」
銀灰に肘で小突かれ社の前で我に返る。桜は社殿の階段上部に座っていた。
「桜」
一度呼んだが反応はなかった。神社を囲う雑木林の背景に紛れそうなほど空ろな様子で赤くなっていく空を眺めている。
「桜ち~ん」
銀灰の横から走り出し、桜のもとへ銀灰が向かっていく。銀灰に気付くと極彩の姿も認めたようだった。
「御主人」
桜は常日頃と変わらない調子で微笑を浮かべた。だが一度目を合わせただけで視線を泳がせ、銀灰の忙しない接触を気にしながら極彩の体調や近況を訊ねた。
「いつでも戻って来られるから」
「はい。ありがとうございます。ですが暫くはこちらで、自分のやれることをやることにします。いつの日か庇ってくださったことを無下にしてすみません」
「そんなことは気にするな」
銀灰は極彩と桜を交互に見遣る。同年代の同性の存在にいくらか気が緩まったのか、いつもの軽快さを纏い直している。
「桜ちん、何かあったんすか」
「御主人に2度も命を救っていただいて、まだやれること、学べたことがあったかも知れないな、自分って何も無いんだなと、思ったんです」
極彩から顔を逸らし、赤面しながら桜は銀灰に耳打ちするが極彩にも聞こえた。首を雑に傾げて聞き流す。
「無理はしないように」
「はい」
何度も強く頷く様を見て、何か言うのはやめることにした。
埋葬が済む頃には空は赤みを増していた。炊き出しや掃除をしていた境内に桜の姿が見えず、少しずつ顔色や肉付きの良くなってきている洗朱にいた者たちを確認しながら探し回った。社殿の裏で銀灰と胡桃が2人寄り添っている場に出会すと、2人は温かく迎え入れようとしたが理由をつけて断った。ひとりになりたいのだろうと諦めに理屈を捏ねているところで背後から音もなく迫っていた気配を察知した。
「白梅ちゃん」
内心は肩を跳ね上げさせるほど驚いた。柘榴だ。
「ちょっと話があるの。いいかしら?」
「柘榴さん。こんにちは…話ですか」
廃れた手水舎の下に連れられる。威圧感はあったが怒気は感じられなかった。柘榴は少しの間溜息ばかりだった。銀灰の言っていた「ヘコんでる」というのは本当らしい。
「悪かったわね」
柘榴は姿勢を正し、極彩に謝った。場所を移した手間についての謝罪くらいしか身に覚えがなかったが、そうでないようだ。極彩はどう返事をしていいのか分からず、言葉を発する機会を見失う。
「いやぁね。桜くんのことよ。随分と重荷を背負わせちゃったからね。まだ彼に面と向かって言えないのよ。バカでしょ。恐ろしくってね。そんな恐ろしいことをあんな若い子にさせちゃったのよ」
「彼は…普段は優柔不断な性分のようですが自分の中で決めたことにはなかなか強引なところがありますから。桜が自分で決めたことなら何も言えません」
「そうね。けれど一応、あなたの兎ちゃんだから」
手水舎を往ったり来たりしながら柘榴は話す。ありがたかったわ、と。
「もっと早く、彼にここに居るように命じるべきだったのでは、と思っています、今でも。自分の中では桜の意思を尊重したかったはずなのに」
「死なせてしまってよかったのか、まだ分からないわ。あてくしは。選ばなかったほうに理想を見てしまうのよ」
柘榴は手水舎から去っていく。極彩は水盤の脇に腰を下ろした。境内に用事を済ませた杏が戻ってくるのが見えた。互いに気付き、杏の爪先は手水舎に方向転換した。
「こんにちは」
「銀灰が心配していた」
「わたしをですか。桜を?」
杏はきょとんとした表情で極彩を見下ろす。
「桜もだが、お前のことも。元気しているか。不言では“夏風邪”が流行っているそうだが、無事か」
杏は手水舎の柱に背を預けた。屋根に頭がぶつかりそうだった。
「はい。元気です。きっと誰より」
「結構なことだな。あれで銀灰は余計なことを言ったかもしれないと沈んでいたから」
特に話すことはなかったが、息遣いや空気で杏の調子は分かった。話はしていないが解散もしない。無言の中に会話がある。見通されている感じがあった。
「銀灰くんとは長い付き合いなんですか」
「まだこれくらいの時から、それなりに。すぐにどこかに行く悪ガキだったから、今の無邪気さが不思議だな」
腰の辺りで手を彷徨わせ、小さい頃の銀灰の背丈を示す。
「それなら、銀灰くんの御父上のこともご存知なんですか」
「そうだな。杏とは逆だった。奴は真っ白だった。杏は奴に無いものを逆に持ち過ぎた。ただ、杏には言葉も妻子もないからそれは言い過ぎかもしれないな」
極彩は杏の様子を見る。息遣いや空気で分かった調子など外面的なもので、話してみて理解した。銀灰の言う通り、柘榴同様だ。
「杏さんにはどんな方に見えましたか」
杏は考え込むように顎に手を当てる。小さく首を傾げる姿が背伸びをした子供のようで愛らしく映った。
「元気で騒がしいと思ったな。地方言葉が強すぎて、杏の言ってることは分かっているくせ、杏は奴の言っていることが少ししか分からなかった。酒に弱くて…頼もしくはあったな。銀灰によく似ているぞ。あんな感じだな」
元気で騒がしい。師に描いていた図像とは大きく離れている。そして目にした。言葉を交わした。
「…剣技の師匠だったと銀灰から聞いているが。何故?知り合いなのだろう?」
「わたしの知る限りでは、どちらかといえば杏さんみたいに物静かな人だったものですから。口数も少ないし、笑わないし、どっちかっていうと怒りっぽいし…」
杏は極彩の顔を覗き込んだ。口元の傷はまだくっきりと残り、これからも長いこと塞がることはないだろう。違う部位で全く違う時期に付いた傷だが、そこに抱くもののためか、揃いの傷という感じがして心地良さがあった。杏の目を捉えると顔ごと逸らされてしまう。
「調子のいい奴だったから地方言葉を隠したかったんだろう。ああ見えて照れ屋だから。いつも好き放題言っていたが大事なことは酔いに任せないと口にしない。残してきた教え子に素っ気なく当たって男嫌いになったら悪いことをしたけれど、この時世だから剣技嫌いになってくれたらいいもんだと話していた。まさかお前のことだとはな」
遠くの空で何度か小さな破裂音が響く。花火だな、と杏が呟いた。




