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彩の雫  作者: .六条河原おにびんびn


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 蝉がうるさく鳴き、庭には2つ3つほどの息絶え損ねている蝉が落ちている。生きられたか。土の中より、地上はいいものだったか。次代を遺す相手は見つかったか。縁の下では死んだように猫が倒れている。扇風機がカラカラ回る畳の部屋だった。麦茶の葉の袋が外から見える透明な水差しから水滴が落ちる。蚊取り線香を丸呑みするブタの陶器の中には灰が溜まっていた。すり切れた卓袱台の上には金魚が1匹泳ぐ金魚鉢があったが眩しく光り、煮られているように見える。近付くと、障子に隠れた縁側に女がいる。白梅の季節外れな香りがする。

「何、してるの」

「風、当たってるの」

 軒から垂らされた風鈴は鳴っていない。女はぱたぱたと足を浮かす。水が跳ねる。足水だった。氷が小さくなって浮いている。

「どう?」

 問われ、その意図が分からなかった。

「何が?」

 女は無邪気に笑った。忘れたものを思い出しそうになる。

「何が?って…。思ったより、いいところじゃない?」

「仇を討ちに来たんじゃないの」

 女は水をばしゃばしゃと勢いよく跳ねさせ、それから突然力を抜いて俯いた。

「別にさ、もういいんじゃない。あそこで生きていけば」

 女のことを知らない。だがこの女がそう言うとは思わなかった。裏切られた心地がして、その女を視界に入れておくのも嫌になった。

「それなら何のために生きてるの」

「…その先に、悔いのない未来を求めるため…?」

「無理だな。後悔は必ずする。どう選んだって」

 女はくすくす笑う。見え透いているようなその態度が気に入らなかった。

「一度決めたら曲げるの、怖いもんね。貫くのも強いけど、分かっていて曲げるのも、きっと弱くちゃできないよ」

「強さなど不要。弱く惨めで結構。この怒りを鎮められるなら、あとは意地だけで」

 遠くが曇り、稲妻が見えた。だが女は明るい。その周りは明るい。だがずっと遠くは曇り、濃く翳っている。

(しがらみ)だらけだ。忖度だけでヘチマの(つる)みたいに生きるんだ?」

 分からなくなる。何をするつもりだったのか、これから何をするつもりなのか。まだそれはできるのか。全てが漠然としている。

「誰かを復讐の傀儡(くぐつ)にするために、わたしたちは住処を見出し生きるのか、ずっと、これから…わたしたち自身が…」

「わたしたち?……あなたはそう生きたら。…でもごめんね、ほら、わたし…」

 もういないから。女は強く水を蹴った。足元に落ちていた蝉の脚が開いている。抱き留めていたものを放してしまったのか。湿った風が吹き、風鈴がうるさく鳴った。水桶は乾き、隣には誰もいない。麦茶の水差しは畳に水滴の跡を残している。金魚鉢の中で横になって浮かぶ金魚を、蝉がうるさかった木の下に埋めた。脚を開いて空を仰ぐ蝉も埋めた。どいつもこいつも後を任せやがって。埋めた土を叩く。枯葉が舞い落ち、空っ風が吹き荒れ雪が降る。その間ずっと1人、変わらず盛り上がった土を見つめていた。



 近くで鳴る物凄い音に意識が引き上げられた。訪れた静寂が破られて軽快な音を立ててからざーっと降り始めた雨。前に広がる天井の木目。離れ家の天井と違っている。寝ていたらしいがあまり寝たという実感はない。雨の湿った匂いの他に仄かに樟脳(しょうのう)の匂いがする。

「お目覚めはいかがです」

 極彩が見ていた方向とは逆から掛けられる、優しげな声。眼鏡の奥はどこかで見たことのある目鼻立ちの青年だが思い出せない。喉まで出掛っている。

「黄色のスイカ、覚えていませんかねぇ」

 間延びした喋り方。覚えている。凝視する極彩に青年は微笑んだ。黄色の果肉のスイカといえば淡香寺だ。空が閃き、一度真っ白くなる。直後に雷鳴。

河始季(せんしき)

「正解です。ただこういうカタチで再会するとは思わなかったので…もうそう呼ぶのはやめてください」

 そう言われると困った。随分と長く発音しづらい名だったことは覚えている。青年は微笑んでいるが、そこには極彩を試すような色も含んでいる。

「…ひ、翡翠さん」

 翡翠は極彩の前に直り、掌に拳を当てると開いた指を1本1本ゆっくり拳に沿わせて折る。杉染台の老婆もしていた仕草だ。そのまま背を曲げ頭を垂れた。

「お久しぶりですねぇ。こうしてお話するのは」

 記憶の限り、ここに来た覚えはない。この青年を訪ねた覚えも。

石畳の墓園の風景で終わった。夢の中の部屋と雰囲気がよく似ていた。すり切れた卓袱台と座布団。壁に掛けられた木製の振り子時計、天井から下げられた笠付きの環状の照明。枕元には不透明な白地に赤みがかった黄色の花柄が描かれている縦長の薬缶。そして竹光が丁寧にタオルの上に置かれている。

 思い出せない。すぐ傍にいる宗教家が説いた死後の世界は誰が測ったかも分からない永遠に続く河川のはずだ。生活感を隠さない空間ではないはずだ。そうでなければ、生だの死だの、態々世界を隔てる幻想など抱かないはずだ。

「わたしは、死にましたか」

「随分と混乱していますねぇ。目覚めてすぐに会った人物が、ワタクシだからですか」

 翡翠は小さく溜息を吐いた。

「何故…どうして…」

「ある御方に頼まれました」

 何となく縹だろうと思った。訊ねない極彩に翡翠は意外そうだった。それよりも。

「桜ッ」

 跳び起きようとする直前に制される。

「安心ください。あの父親の元には残してきておりません」

 翡翠の表情から微笑が消えた。

「基本的に親は、子が可愛いものです。…でも、絶対じゃない」

 翡翠は姿勢よく折り畳んでいる膝の上で、両手を組んでは解いたりまた組んだりしていた。おどけて極彩を挑発するような態度が消えている。

「どうしても子が可愛くない親はいます。可愛くないどころじゃない。憎悪や殺意、肉欲まで向けてくる」

 包み隠さない言葉が重く響く。

「無事なんですか」

「心配ですか」

 上げられた顔は凍て付いている。憤怒。嫌悪。侮蔑。どれでもあり、どれでもなさそうだった。

「連れはまだ、割り切れていないようでした」

 実際のところは分からない。桜が狙って、この日を選んだかも知れないという、偶然から導き出した推測に過ぎない。

「あなたはそもそも、相手を討つ気があったのですか」

 極彩は応えず庭を眺める。雨音が心地良い。雷光。そして数秒後に空が破裂する。師が死んだ時の音に似ている。

「子が親を恨んでも、親が子を恨むのはおかしい」

 柿の木1本が植えられ脇に小さな向日葵畑がある。トマトやきゅうり、ナスが見える家庭菜園がその隣にあった。

「親も人である以上、理路整然といかないものですね。子を成せば皆揃って聖人君子とまではいかずとも、慈悲深い人間になれるという錯覚は捨てるべきだったかもしれません」

 親を知らない。だが縹との偽りの関係がある。親は子のために、命を差し出すものではないのか。国より、誰より。腕を乱暴に掴まれる。目の前に翡翠が迫る。

「ならばあなたも今ここで子を為すか」

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