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彩の雫  作者: .六条河原おにびんびn


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「その先に何を見たのかは分からない。ただ何かを見た。あの先に、何かを」

 歯が鳴りそうになり、強く噛み締める。鮮明に浮かんできてしまうのは、まずかった。

「風月王がもし……二公子がもし…そうしたら混乱するんです。混乱するんです、混乱したら、またどこかが洗朱地区みたいに…」

 三公子が継ぐという簡単な話ではないのだろう。権力の大きな官吏が諍いを起こし、支持しなかった土地は冷遇する。二公子派の者たちが処断される。または三公子が火種になるならその派閥も一掃。無い話ではないかもしれない。

「あの者は二公子を狙っているどころか、手加減しているように見えましたけど。相当な手練れに思えたんですけどね」

 黙っていた紫暗が不意にそう口を挟んだ。極彩は目を瞠る。素人目なのでなんとも言えませんが。薬箱をせっせと片付け、固そうな金具を閉める。

「でも僕は…国を混乱させようするような、そんな道理も合理も義もない者たちが付けた傷を肯定することは出来ません。蝕まれる前に適切な治療をするべきです」

「非力だと、無力だと嘆ける者は、芯に強さがある。あれこれ言い訳を並べるのもな、弱いと疲れる。皮膚の一部がなんだ。開けどまた塞がる」

 桜は腹に掌を当てた。悔しがるように衣類に皺が寄る。

「塞がったって残るんです!完全に消えたとしたって残るんです。身体から消えたとて、消えないんです…」

「桜殿、」

「紫暗、いい。こういうところに惹かれたんだから。…ところで、夕餉は食べたか」

 紫暗は桜を冷たく一瞥してから、極彩に首を振る。それならここで食べるといいと言い、紫暗に夕餉を取りに行かた。傍らの桜は不服そうに座り込んだままだった。

「その腹の傷か」

 桜は黙て(がえん)ずる。

「切腹して生き延びてしまったから、もう死んだことになってて生家(しょうか)には戻れないんです」

 桜はよく泣く。それがいい。仰向けになっているため、項垂れる桜の顔がよく見える。泣きたいのなら泣けばいい。どうにもならない。だが泣かなくても、どうにもならないのなら。誰かの癇に障るなら、笑っていたほうがいいのだろうか。

「将軍家の息子です。でも武術とか兵術とか全然ダメで。早いうちから見切りはつけられていたんです。だから医術とかのほうに行くのかなっていうのは思っていたんです。もしかしたら勉学の方ならって。でも、いくつも下の弟に鍛錬で負けた時、実父は僕に切腹を命じました」

 桜の顔から表情が消える。そうすると少し大人びて見えた。

「武術じゃないとだめだったんです。戦術じゃないと。戦で散ること以外は不名誉だったんです」

 肩を揺らして桜は笑った。背を曲げ、膝へ顔を埋める。笑ったのか、嘆いたのか分からない。身体が軟らかいな、と関係の無いことを思った。

「腹の傷の縫合をしたのが僕の医業の師で、今日訪れた工具店の2階はその時の診療所で、…僕の養父は、茶葉の専門店です。不況の煽りで、城に仕えるしかなかったんですけど」

「よく、話してくれた」

「傷見て、色々思い出しちゃうんです。そのうち全部、この腹の傷のせいにしはじめちゃうんです。もし…、もし…って」

「桜がこの顔面の傷に、自身の腹の傷を重ねているなら…ひとつ隔たりがある。この傷は、何かのせいにするものではない…どちらかといえば尻を叩くため」

 紫暗が玄関扉を開け、桜は何か言いかけたがやめてしまった。




 少し遅めの入浴後の帰りにふと窓から見えた光に誘われ、外通路から回り込む。線香の匂いがする。小さな明かりが煙を浮かび上がらせた。小枝を踏んだ音で城の裏の目立たない小屋の軒で寛ぐ男は極彩に気付いた。短かい縁側で柱に背を預けたその男は極彩の知っている男だったが少し様子が違って見えた。

「藤黄殿」

 浴衣姿で団扇を片手に姿勢を崩している。きっちりして固く、隙のない雰囲気が失せている。

「極彩殿か」

 酒を飲んでいるらしかった。猪口を大きな手が摘まみ、一気に呷る。

「こちらにお住まいなんですか」

 随分と狭そうな生活を強いられていると思った直後に否定される。

「今夜だけです。極彩殿はこんなところまでどうなさった」

「外から光が見えたものですから、何かと思って」

「座ったらいかがか…酒肴(しゅこう)もござります」

 背を大きく柱に預けた体勢を正し、極彩が座る場所を空ける。言葉に甘え、隣に腰を下ろす。暗い中で液体が注がれる音がする。蚊取り線香の匂いと蒸した草木や土の匂い。夏だ、気付けば。

「前までは蛍がいた。最近見なくなった…いや、吾輩が忘れていただけやも知れぬ」

 皿を球形の煎餅らしきものが転がり、藤黄の口に運ばれ、派手な音を立てる。酔っているのか多弁だ。群青もこの前会った時は泥酔状態だった。縹も会ったばかりの頃酔っていた。城に勤めると酒の力が必要なのか。

「極彩殿も飲まれるか」

「いいえ」

 徳利をそのまま差し出され、極彩は首を振る。

「どうでもよいことよ。蛍など。我々が相手にしている人民に比べれば瑣末なことよ」

 再び蛍の話へ戻る。拗ねた口振りとまだ完全には酔っ払っているわけではないらしい厳めしい目付きが暗い雑木林を眺めている。

「瑣末なこと。灯っては消えていく、些細な夢なのかも、定かでない」

「瑣末なことでも口にする人がいれば、確かな事実としてそこに在ったわけですね。なるほど、素晴らしい教えです」

 がりがり球形の煎餅は砕かれている。中に木の実らしき物が入っているらしい。それから注がれる液体の音と、嚥下。

「吾輩は実のところ、貴嬢(きじょう)を好いておらん」

 好かれているとは思っていない。はっきり口にされるとある程度の不快感はあるが酔っ払いであり、語調が緩んでいるため大したことでもなかった。

「若は幼少から色々なことを我慢してこられた………―長兄が器であらせられなかったゆえ。継承の意向もまた、薄かった」

 転がり逃げ、皿の淵で捕まる。砕かれ、飲まれ、溶かされる。朽葉の名を安易に出せないのか、言葉を詰まらせる。

「しかし…若がどうしても望むのなら、吾輩もまた貴嬢が若と結ばれることを望む」

「天藍様は寂しい御方だ」

「三公子は分かりやすい。山吹殿は三公子と強く結託していらっしゃる。誰が若の喪失感に気付く」

 徳利の中身はなくなったらしい。球形の煎餅もあと数えるほどだった。遠慮したのか鍛えられた逞しい腕は煎餅をやめ、団扇を慰めに煽ぐ。

「藤黄殿と風月王」

「珍奇なことを。上様は忙しい。吾輩は…分からぬ。気付かなんだ。公子たる男児、悲しみを見せるなと言わねばならなかった身よ。叱り、突き放し、時には鞭を打たねばならなかった身よ。兄に負けるな、弟に越されるなと、呪った身よ」

 少し声が掠れている。団扇がゆっくりと静かに伏していく。

「寝るなら中で、きちんと布団で寝たらどうです」

 そうですな。空返事だった。蚊取り線香がもう少しで燃え尽きる。しぶとく下天を炙るから、夏は儚い物が多い。縁側から上がって小屋の中に入る。狭い室内には大きな卓袱台と腰の低い棚、硝子が嵌め込まれ、銀の棒が生えた妙な家具。小さな台所もある。藺草(いぐさ)の匂いが胸を弱く擽った。押入れを開いて布団を敷く。とにかく一夜とはいえ藤黄が暮らすには狭い空間だった。

「藤黄殿。瓦解しますよ」

「寝とらん!」

 腕を組んで頭を垂れていたが、そう主張してから縁側に立つ極彩を見上げ、苦々しい表情を浮かべ腕を解く。室内の布団に頭を抱えている。

「前に腹立つほど固い縄を解こうとしたことがあります」

「解けましたか」

 布団を見下ろしながら藤黄は問う。

「自力じゃ無理でした。太い縄で、枝切りばさみでも簡単には切れませんでした。結んだ人が解けばいいんだと思いました」

「縛ったやつにも解けぬものはあります。解くほうがずっと難しいんです」

 縁側に座って履物に足を突っ込む。紫暗は屋敷に戻っただろう。桜はもう寝ているかも知れない。

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