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彩の雫  作者: .六条河原おにびんびn


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 城へ戻ると、離れ家の玄関前に紫暗が立っていた。心配して外にまで出迎えようとしているのかと思った。遅くまでどこをほっつき歩いているのかと叱られるのではないかとも思った。

「二公子がお見えになっています」

「いつから」

「一刻ほど前です」

 帰宅の挨拶を交わすことなく紫暗は極彩の姿が見えると慌てて要件を告げる。ありがとう、ごめんね、ただいま。一度にまとめて紫暗の小さな肩を抱き、室内に上がる。

「おかえりなさい。遅いじゃない。こんな遅くなるまで子女が出掛けているのはいただけないな」

 姿勢を崩した天藍に拱手する。大きな溜息と吐かれる。呆れた調子で拱手を(うべな)う。

「彩ちゃんは意地悪だ」

「何か不手際がございましたか」

「オレに身を任せないところ。もっと砕けてよ。同い年なんだし、ね?他の子から聞いたよ。群青とは仲良しらしいじゃん」

 唇を尖らせ、眉間に皺を寄せておどける。立場に大きな差がある。比べるべくもないほどの。

「そう仰せられましても」

「大丈夫、分かってるよ。群青は官吏でオレは公子。それも実質第一公子。同じ扱いされないことくらい分かってるよ」

 両肩を床に向かって上から押し付けられる感覚に似た、突然の緊迫。愉快げにしていた天藍のいきなり漂わせはじめた冷たい気。不気味に伏せた顔から窺える吊り上がった口角は、脳内に蛇を描かせる。

「何故、天藍様がわたくしにそう良くしてくださるのか分からないのです」

「君は恋をしたことが、ないのかな」

 蛇蝎(だかつ)の如き情調。長屋近くで見たアオダイショウのほうがまだ愛らしさがあった。だが怖気(おじけ)付いてもいられなかった。

「天藍様がそれを仰せになられますか」

 寒気が常温になっていく。生温い。鼻血か。人中(じんちゅう)を指で擦る。指の腹に血が付いている。

「それだよ。君のその姿に惚れたんだ」

 天藍に汚れた指を取られた。滑らかに形の良い唇へと誘われ、血を舐めとられる。その手を引いて、何をするのかと天藍に舐められた箇所を撫でる。糾弾の意を込め睨みつける。天藍はしらを切るように穏やかさを取り戻している。

「その目、懐かしいな」

「…懐かしい、でございますか」

 天藍が躙り寄り、極彩はその分距離を取ろうと後退する。反抗は許されない。壁際に追い詰められ腕を掴まれる。

「もっと向けてよ。尊敬、崇拝、期待、失望、同情、憐憫、共感。そういうのはさ、飽きるよ。捨てられちゃう。受け取ってすぐ消化出来ちゃう」

 氷の双眸が陰る。だが輝きを失わない。美しく整った顔立ちが近付いた。少しずつ焦らし、泳がせている。何も考えられなくなった。何か言わねば。何も言うな。後頭部に当たる壁へ力をかける。だがもう後ろへは下がれない。奪われた腕が壁に縫い留められる。弦楽器を下手に弾く覚束ない群青の姿と、病身のくせ意地を張る縹の笑顔が浮かぶ。そうしている間にも天藍は距離を縮める。視界が黒く滲む。水気の多い墨汁が点々と天藍を消し、長く住むことになってしまった室内を塗り潰す。

「触るな」

 目と鼻の先にある細い顎を壁に押さえ込まれていない手で乱暴に掬う。親指で天藍の唇をなぞる。真っ直ぐ極彩を見据える冷えた眸に熱が籠る。壁に封じられた腕を振り切って、力任せに天藍を頭突く勢いで額と額を合わせた。水面に陽射しが照り付ける獰猛な濁水を閉じ込めた瞳が極彩を大きく睨み上げた。反して口元は弧を描く。

「わたしを殺すか、二公子」

「まさか…こんな面白い人、殺すわけないじゃない」

 天藍の額に移った血液が鼻梁を伝う。

「思い通りにいかなくてもか?」

「オレのことなんだと思ってるの」

 物腰柔らかな仮面を貼り付けて、くっくっ…と快然の断続が漏れ聞こえる。視界の端から伸ばされてきた敵意のない腕を払う。気分を害するどころか機嫌が好いようだ。

「あの時の呆然とした姿も素敵だったけど、今の苛烈な君のほうがオレは好きだな」

「血に塗れた二公子には、血塗れの女のほうが似合いだと」

 天藍の唇が近付いて、極彩は顎を引き、その唇に人差し指を立てる。目を眇め、まるで幼子や飼い犬を躾けるように頭を小さく振る。従ったのか、天藍は人差し指1本で止まり、だが睨む目は変わらない。

「嗚呼、慈しみと悲しみによる救済か」

 哀れみを表せば、聞き分けのいい偉犬に恍惚とした光が射す。人差し指を当てたまま、傷もないくせ、血に汚れた額を指の腹で拭った。

「気付けば汚れていく。血を啜り、臓腑を食んで。骨の森、屍の山。独り、悲鳴を聞き、導かれ花を枯らす」

 薄い唇を塞ぐ指が湿った。関節を甘く噛まれている。風月国の次代を担う。背負わされた。誰かが背負わねばならない。誰かが犯さねばならず、誰かが冒さねばならず、誰かが飢えなければならない。誰かが死なねばならず、誰かが殺さねばならない。小さな雨が床に赤く点を差す。天藍が身を起こし、視界が大きく回る。舐めて濡らされた指と指の間に冷たい指が入ってくる。掌が合わさり、握られる。抵抗しないでいると、もう片方の手もそうされた。天藍の虚ろな瞳。近付く唇は一度極彩の唇へ落ちようとし、だが通り越して開いた眉間を幾度か啄んだ。ぬるりとした生温かさが鼻の頭を舐め上げる。

「若、」

「極彩様、あの」

 藤黄(とうおう)と紫暗の声が重なった。藤黄に至っては室内に上がっている。極彩を押し倒し、覆い被さる天藍の姿に藤黄を追って入ってきた紫暗は言葉を失う。天藍は乱入してきた2人へ顔を上げると、血で染まった口元を拭った。

人狼(ひとおおかみ)に憑かれたか」

 紫暗は躊躇も忘れ、極彩に駆け寄る。手巾を傷に当てる直前で極彩は肘を立て、手巾を拒んだ。

「オレには代わりがいるんだよ」

 極彩に小さく呟いた。紫暗の耳にも届いたらしく微かに眉が動いた。天藍はよろよろと立ち上がる。

「若…」

 藤黄は常に携帯している小刀に触れようか触れまいかというところで固まったまま、天藍を不安げに観察する。険しい顔が和らいで映った。

「抜刀しないでくれてありがとな」

 宙を迷い、止まった腕を叩いて天藍は離れ家を去っていく。残された藤黄は腕を勢いよく振り下ろす。紫暗は天藍の呟きを聞いたきり、暫く固まったままだった。空気が止まっていたが玄関扉が情けなく鳴り響き、桜が間の抜けた様子で床に倒れている極彩を認める。

「夜分に無礼つかまつった」

 平生(へいぜい)の迫力はなかった。ばつが悪そうに天藍の後を追う。騒々しく薬箱を持ってくる桜によって視界が遮られ、その背を見送ることはできなかった。近過ぎて焦点の合わない消毒液の染みた綿が傷を避け、血を拭う。されるがまま、ぐったりと床に身を任せる。軟膏を塗りたくられて、手は離れた。

「縫合、なさらなかったんですね」

「食うた魚、家畜。それは血となり肉となる。だが志が食うた人間はな、何もならない。結果の小さな糧にしかならない。成さねば尚のこと、何もならない。悲しみと憎しみを遺したら、誰かを狂わせる。これはな、そういう人の執念だ」

「…そうは、思いません。あの人たちですよね、見てました。風月国を混乱に陥れようとしたのに…」

 極彩は言葉に怒気を孕ませた桜を仰向けになったまま見つめた。紫暗が桜の手から道具を奪い取り、代わりに片付ける。

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