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短剣を紛失した賠償金が払われたらしいが、質屋で告げられた額とはほど遠かった。紫暗が城へ出払い、下着以外の洗濯物を慣れない手付きで畳んでいる桜が上手く畳めたタオルに純真な喜びを露わにしたのを横目で見て嘆息する。暫くの桜の雇用費に充てられるだろう。雇用主はおそらく縹だが、ずっとというわけにもいかない。おそらく。開きっ放しの玄関扉が叩かれる。極彩が立とうとして桜がすぐに出た。
「極彩殿は」
藤黄の声に桜が答えるより速く玄関に姿を現す。藤黄は含みのある目を桜と極彩に向ける。それに気付かないふりをして、桜に縹の手伝いでもしに行けと命じる。用件は分かっていたため大した会話もせず、藤黄に天藍の部屋へと案内される。
「数日前、物取りに遭われたとか」
「さすが、よくご存知で」
気に入らないという態度を藤黄は極彩に隠さなかった。だがそのことにも気付かないふりをする。
「責任者が処断されなかったと聞き及んでいまするが」
「さようでしたか。腹を切り首を刎ねれば責任を果たした、果たされた気になる奇妙奇天烈な体系は好かないので、よかったです。それも本人がやったことでもないことに」
お互いに顔を合わさなかった。藤黄は呼び鈴代わりでなく厄介な警備兵との同じことの問答を省くために同行しているようなもの。
「責任者ひとりの油断から組織は瓦解する。下で間違えた積み木は全て崩す必要がある」
「積み木は次がありますが、わたしの死生観でいえば命に次はありません。あったとしても今生は一度きりでは」
冷たい眼差しに見下ろされる。一度視線がぶつかり、極彩から逸らした。
「自ら首を切り付けた童の言葉とは思えませぬな」
「圧倒的暴力だの権力だの腕力だの、刃だので人を脅せばどうにかなるという姿勢が腑に落ちなかったんですよ。…もっとも、人ひとりの命は責任の前で軽く吹き飛ばせることが分かったので、愚行だと理解いたしました」
互いに無言になり天藍の部屋へと辿り着く。警備兵は藤黄に怯えた様子だったが極彩からは見えなかった。
「若、極彩殿をお連れいたした」
扉を叩き、返事を待たず開く。香木の匂いがした。広く薄暗い部屋で天藍は腰掛けに座っている。軽率な微笑は消え、極彩と藤黄を生気の無い貌で捉える。藤黄は極彩が部屋に踏み入ると自身は入らずに静かに扉を閉めた。
「やぁ」
拱手しようとして、やめてやめてと阻まれる。座ってよ。対面の華美さはないが楚々とした絢爛さを漂わせる腰掛けを勧めた。
「この前は世話係がごめんね。それから失礼なことも言ったみたいで」
大きく開いた膝の腕に手を被せ、頭を下げる。
「おやめください、こちらも無礼な態度をとりました」
据わった瞳。緩やかに上がる口角。
「それじゃあ、本題ね。単刀直入に言うよ。山吹との約束は破棄して、オレのところに来てほしい」
組まれた手に顔を埋める。突き刺すような眼差しに身を突かれる思いがした。
「天藍様は風月国の次代を担う御方。その伴侶が、何一つ取り柄がなく、器量もよくないわたくしというのは…」
「そんなこと言って。聞いたよ、国の最高権力者の嫁ぐのも悪くないんだって?彩ちゃんにもきっと悪くないよ…オレの知らないところで、オレの知らないコト、すればいいんだから」
美しい双眸はただ昏く極彩を伺い見る。
「それは…」
「オレの妻になればそのことを誰も悪く言わない。咎めない。この前みたいに脅迫だってされなくて済む…オレだって彩ちゃんが危なっかしくて仕方ないんだから」
短剣を失った今、頼る術は天藍しかない。だが何故天藍が婚姻を迫るのかが分からなかった。数えるほどしか関わった覚えがない。気を惹くようなこともしていない。顔面には大きな傷があり、色町の男たちもそれを嫌がっていた。
「すぐに返事をくれ…とは言わないよ。山吹にはオレから話つけておくし、縹にも」
縹の名を出されることは自然な流れだった。叔父と姪の関係を偽っているのだから。しかしそれがひとつの脅迫に聞こえたのは縹の容態が目に見えて悪化しているからだろう。
「…叔父上のことは何卒よろしくお願い申し上げます」
「分かってる。大丈夫。それとは関係なく、色好い返事を期待してるよ」
天藍は笑んでいるが冷めきっている。射抜かれているようで居心地が悪かった。得体の知れないものを前にしているような薄気味悪さがある。生気の失せた麗らかな瞳に、極彩は乾いた唇を舐める。
「あなたが欲しいよ…彩ちゃんのためだなんて言って…こんな情けないこと言ってまで、オレはあなたが、欲しい」
「失礼します」
席を立つ。そこまで好意を持たれることをしただろうか、覚えがなかった。数秒足らずの反芻だが思い当たる節はない。皆目見当がつかない。幼い頃に会っていたのだろうか、長兄と同じく。もしくは正体に気付いている。疑心。言葉を交わしたり、挨拶さえしたことがないが、若い良家の娘は城に幾人かいたはずだ。城の敷地内にある立派な御殿に住んでいた。顔に目立った傷はなく遠目から見ても器量はよかった。退室すると藤黄が扉脇に立っていた。随分とお早い。顔を見るだけでそう言いたいのが伝わった。
「吾輩が思っているよりも若のご意志は固い」
「何故天藍様のお目に留まったのがわたしなのか、理解しきれておりません」
「理解する必要はございませぬ。若が仰せなら、ただ享受なされよ」
「そういう油断から瓦解するのでは。藤黄殿の言葉をお借りするなら」
「させませぬ」
どうだか。肩を竦めて、帰りに縹のいる部屋へ寄る。横に広い城は似たような構図の廊下が続くため道筋を覚えるのが時折曖昧になった。城にいる者が多くなり解放された廊下は窓が等間隔に取り付けられ外が見えるため、その風景で覚えるしかなかった。枯れた木を目印に縹がいる部屋の扉を開ける。眠っているかもしれない。控えめに扉を叩く。
「どうぞ」
開扉する。寝台に横になっているはずの者が傍らで団扇を煽ぎ、手伝えと命じた者が寝台に横になっている。縹が使っている寝台とは対面の壁に接している寝台で桜は赤い顔を持ち上げた。上半身の衣類を脱がされタオルを掛けられている。
「忘れ物かい。暑いから水と塩には気を付けて」
縹は確かに極彩の方を見た。桜が不思議そうに縹を見る。極彩はわざとらしく咳払いをした。
「こちらにわたしの使用人を忘れてしまいました」
自嘲を滲ませて縹は俯き、また極彩へと向いた。顔や腕の刺青と見紛う紋様を描いた痣はまだ引いていない。
「手間かけさせてすみません」
「いいよ。この季節だ。仕方ない」
縹の傍に寄り、団扇を借りる。煽げば風に倒れてしまうと不安になるほど病状は悪化している。
「どうしたの」




