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彩の雫  作者: .六条河原おにびんびn


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 この奇妙な体験は紅の土産を買い終え屋敷に帰る途中にある小道を横切ろうとした時にもまた起こった。その小道は以前女が乱暴されていた藪のある路地に出る。極彩の脳裏にはその藪に至るまでの順路が展開されていた。しかしまだ昼前だったが目蓋の裏にあるこの先にある寂れた道は夜だった。気の弱そうな面構えの男が歩く女を藪の中に引き摺り入れ、虫が獲物を捕らえる様にも似ていた。何も音はなかった。極彩の耳には不言通りの少し離れた喧騒や鳥の囀りなどの日の明るい朗らかな音が入った。極彩の頭の中で女を押し倒し衣類を剥いでいく男は、特に目立つ顔立ちでもこれという特徴もない、ただ気が弱そうであるという印象だけが残った。強いて挙げるとするなら常時困惑気味といったふうな空気を醸す眉をしていた。乱暴された女はあの日極彩が上着を放り投げた者と同じだった。忘れもしない。紫煙を出逢い茶屋に連れ込んだ日。脳裏で繰り広げられる光景はあくまで神経症で弱った女の妄想でしかなかった。無意識のうちに目にしていた見ず知らずの男だろう。この暴行の現場に居合わせたわけではなかった。本気にするだけの材料はない。気にしないことにした。清々しい昼前の城下に意識を戻す。だがすぐ傍から聞こえた珍しい挨拶に清々しい気分が失せてしまう。天の恵みに感謝を、という挨拶をする知り合いは今のところ1人しかいなかった。真横を向くと厚めの唇に指を当て、空へ投げる大男が立っていた。気付かなかったふりをするか、敢えて自ら行くか判断に時間を要した。決まる前に陽気な調子で声を掛けられる。

「偶然」

 彼は無邪気に言った。

「本当に?」

 木蘭寺では桜に遭遇した。そして今目の前にいる桃花褐は柘榴によると最近桜と共にいるという。実際極彩も親しげな2人の姿を見ている。

「天のお導きさね。日々の行いがいいんだな」

 桃花褐は人懐こく笑って極彩へさらに距離を縮めた。その分だけ彼女も間を空けた。

「汗臭ェか?」

 垂れ目の大男は自身の身体や衣類を嗅いだ。汗臭さも体臭もなかった。わずかに髪油に混じった芍薬の香りがした。

「別に…」

「はっきり言ってくれって」

「臭くはないけれど、少し胡散臭い」

 彼の陽気な目が細まった。

「その刀ほどじゃねェよ」

 太い指が極彩の手から下がる短刀を差す。亀の甲が連なった妖しい縛めにいくらか気拙い思いをする。

「また刀の文句?」

「刀の文句っつーか…刀が文句言ってんな」

 桃花褐は苦笑するように極彩に言うと刀を凝視して静かに唇を動かした。その眼差しは普段の快活な感じが消え、剣呑なものを秘めている。

「どういうこと」

「解放しろってさ。それから手入れしろって」

 ふざけてでもいるのかと思ったが彼の目は真剣だった。それがいつ崩されるのかと待ってはみたがどうやら本当に戯れではないらしく、聞いているのかとばかりに太い眉が動いた。

「分かるの?」

 しかし今ばかりは極彩には何も聞こえなかった。

「ああ、色々あってな。刀の手入れ、やり方分かっかい?」

 一度だけ師の横に並び説明を受けたことはあった。だが実際にやってみたことはなく手順は朧ろだった。

「屋敷の人に訊いてみる」

 桃花褐は溜息を吐いた。そうかい、と呟いて笑う。

「ンでも信じるのけ?」

「何か喋ってるのは確かだから。でも何を言っているのかは分からなくて」

「心を持たない無機物でも、怪物になっちまうことがあるんでさ。それもその(たぐい)だな。それが刃物ってのはちと拙い」

 極彩は吊るした短刀を眼前まで持ち上げた。布の上から指で弾く。

「どうして急に…?今までただの鉄だったのに」

「控えめに言うと、あんさんは…そういう体質なんでさ。その線を越えるほど…強い何かと接触したな」

 診察しているのか質問しているのか分からない調子で彼は言った。目元に大きな掌が乗る。後頭部を押さえられ、木蘭寺の僧にされたよう首を回された。

「あの店辞めたんだってな」

「解雇」

 桃花褐は取って付けたように「おうおう」と驚きを示す。

「何した?客を診療所送りにしたからか」

「話すほどのことでもない」

「そうかい。ま、どっちでもいい。あんさんがあそこから離れたんならな」

 桃花褐はふと表情を緩やかなものに変えた。

「どうしてあの店を、そんなに…確かに、何か裏があったみたいだけれど…」

 だがその前から桃花褐は女豹倶楽部を危険視していた。

「ずっとあの店、臭ェと思ってた。血の匂いっつうのとはまた違って、死臭っつうか。嬢ちゃんのその体質じゃ、きっときちぃ」

「ご心配ありがとう」

「弟のコトも悪かったんな」

 彼は口を開けて笑った。初めて見る表情で、どこかわざとらしく、あざとい感じがあった。その違和感を極彩は眉根に出してしまう。

「それは許さない」

 誤魔化したようにまだ白い歯を晒し桃花褐は顔を背ける。半ば冗談のつもりだったが本気にしたのかと気遣ってみれば彼はおどけたように否定した。

「弟くんは?元気なん?一緒に暮らしてるんだろ?」

「…もう、一緒には暮らしてない」

「そうなんけ?」

「色々あって」

 桃花褐はいつものお節介のように深く踏み込もうとはしなかった。彼なりに引け目を感じているらしい。銀灰の話題を変えようとしたが、ここで浮かんだのもこの男に会った時に生じた躊躇だった。

「桜のこと、」

 極彩は一度区切った。桃花褐は低く「ああ」と言って厚い唇を食む。

「よろしくね。わたしから言うことでもないけれど、散々振り回してしまった自覚はあるから。つらい思いも悔しい思いもいっぱいさせたから」

 垂れ目は円くなり、白い部分を広くした。

「何かあったんですかい」

「…何もない」

「なら良かった」

 今のところは。付け加えそうになったが留まった。焚き付けたのはこの者ではないのだろうか。

「悪かった。本当に」

「何のこと」

 恍けたふりをした。

「いや…何のことっつうと、困るけれども」

「妙なこと教えてないであげてね。今時珍しい純真な子なんだから」

「やっぱり何かあったろ」

 極彩は桃花褐を咎めるように覗き込んだ。

「何かありそうだった?色街遊びは程々にって話をしているんじゃないの?」

 彼は自嘲の笑みを一瞬浮かべて目を逸らした。

「求婚されたりしなかったんかい」

「まさか」

「あ~あ、口滑らせちまった」

 まるで見透かすように桃花褐は簡単に白状した。そしてその後も隠す素振りはなく、むしろ自ら話し始める。

「色街を辞めさせるために自分が色街で働いて、扶養に入れたいってさ。でももうあんさんは辞めたんだって?彼氏は知ってるのか怪しいな。俺もそれを知らないで躍起になっちまってた。マヌケな話だな。どうする?彼氏、本気だぜ。今の夫と別れて自分と、ってな具合に」

 暑苦しげな髪を乱暴に掻き乱す様子から、桜はもう桃花褐にも御せないでいることが窺えた。

「分別はある子なのに…」

「分別ったってね…あんさんが関わってるんじゃ分からねェぞ。あんさんは彼氏の命の恩人で御主人様で居場所で、同時に守りたい人なんでさ。そこんところ、しっかり理解できてるかい」

 明日伺う、と桜は言っていた。極彩は黙ってしまう。

「でももう、過去のこと。縹さんが亡くなるまでの…」

「嬢ちゃんの中ではな。でも槿(むくげ)ちゃんの中では違った」

 何も言い返せなくなり、沈黙のうちに昼の報せが空に響き渡った。

「買い出しか何かの帰りだったんかい」

 極彩は首肯した。彼の声音は気遣わしげだった。

「呼び止めちまって悪かったんな」

 そろそろ紅に何か食べさせなければならない時間だった。桃花褐にこくりと頷くととぼとぼと屋敷へ帰った。

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