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彩の雫  作者: .六条河原おにびんびn


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 日が暮れる前に兵が目覚め、暗くなった頃に群青は帰ってきた。出迎え、まだ帰宅の挨拶も交わしていない段階で彼は同居人の怪我に気付いた。本心から心配はしているようだったがそれでも隠しきれていない疑心に滑稽な面をしていた。何があったかは訊かなかった。労わりの言葉をかけ、框を上がる。

「夕餉、よかったら俺が作りましょうか」

 まだ支度していないことを察したらしい。朝に口にした弁当の味を思い出す。食べられないほどではなかったが、曖昧な味付けと、調理法と調味料の組み合わせが好みではなかった。

「いいえ。お疲れでしょう。ゆっくり休んでくださいな。茶葉を切らしていますから、白湯(さゆ)でも持ってきます。先に入浴したらいかがですか。お背中流します」

 着替える彼に告げ、台所に向かった。脈が切断されるほどではなかったが傷が深く、包帯に薄らと血が滲んでいた。湯の用意をしながらもうすぐ焚ける米を待つ。溜息を吐いて、水場に背を預けた。居間から緩んだ部屋着の群青が出てくる。

「手伝いましょうか」

「いいえ。簡単な物で済ませます。お風呂は洗ってありますから」

 群青は浴室へ入っていったが、水音を響かせ居間へ戻った。皿に萵苣(ちさ)を千切り、小金瓜(こがねうり)を添えた。牛酪を絡めた玉子焼きを作り、朝餉の残りらしき群青の仕込んでいた煮物と大根の昆布酢漬けを出した。彼の癖のある味噌汁も温めた。彼の料理は出汁も口に合わないのだった。しかし下手というわけでもなかった。生まれや育ちの土地の違いがそこにある。壁に寄りかかり、浅く眠っている群青に落ち着かないまま飯を食う。時折手首の傷が痛んだ。微かな食器の物音と彼の小さな寝息。数分おきに風呂場の確認をし、3度目で止めた。夕餉を食い終える頃に彼は身を跳ねさせ目覚めた。怯えた表情と目が合った。

「お風呂…」

「止めましたよ」

 見開いた目が極彩を凝視し、顎が緩んでいる。

「…良かった…」

「先にどうぞ入ってくださいな。わたしは片付けがありますから」

「俺がやります。その傷ではやりづらいでしょう」

 完全に目が覚めているようで、吊布から右腕を外し、空いた食器の乗る盆を台所へ運んだ。

「何かありましたらすぐに手伝いにゆきますのでお呼びください」

―一緒に暮らすならちゃんとするから

 優しさに流される。食器を洗う音を背に浴室へ入った。昼間に来た不審人物とは重なった部分が多少はあった。しかし別人に違いないのだ。あずきの探していた者かも知れない。腹を刺されていた若者。婚姻届に書かれた住所。考えるのをやめた。手首に巻いた包帯を解く。腕の端から端までを斜めに走った傷は塞がっていたが包帯を巻き込んで乾いていた。眠そうな目の夫は何も残しはしなかった。滲みるような甘い言葉ばかり耳に留まり、消えてしまった。瑞鳥の櫛は恩人と空へ広がっていった。小さな暗殺者のように黒煙と化して。

 風呂から上がり、台所で白湯を飲んでいる群青は気拙そうに反射を繕った。咄嗟に彼は謝った。湯気が台所へ流れ込む。

「布団は敷いてあります。すぐに寝られますか。差し支えなければ俺が髪を乾かします…いや…その、すみません」

「そうでした。群青様の枝毛を切る約束をしていましたね。今少しお時間を頂戴してもいいですか。それとも入浴しますか」

 模様の入った煤けた床を長い睫毛の奥は頬を染めて泳いでいた。

「お願いしてもいいですか」

「はい。準備をしてきます」

 微笑みかける。しかし相手は拒絶し、逸らしてしまう。居間と縁側を隔て、玄関へ通じる廊下に古紙を敷いた。群青を座らせ、傷んだ毛先に触れる。染髪と脱色を重ねた髪は硬い。夫と同じ明るい色が潤いを保てず髪の流れに逆らっていた。私物の小さな鋏で二又に別れた毛先を切っていく。無防備な後姿が晒されている。枝毛を探りながら、小さい刃物を握り直す。首のどこを刺すか。師の説明をよく覚えている。城へ走って、紅を連れて。もう重病に伏せた叔父はいないのだった。刃の向きを確認する。

「俺はまだ…死ぬわけにはいきません」

 呟きが耳に届く。全体的に傷んでいる髪が女の指に引っ掛かり、乾燥した音をたてる。恍け、辛気臭い横顔へ目線を合わせる。据わった双眸がゆっくり極彩へ曲げられる。

「何をおっしゃっているのか、さっぱり…」

 小さな鋏を持った手を包まれる。木板の外れた右腕の包帯の感触が心地良かった。明日にはまた布で吊られているのだろう。

「貴女を信じたい。自分が好いた人を信じてみたいんです」

「信じるだなんて随分と投げやりになるものですね。案外とすんなり、こなせるかも知れませんのに」

 嗤ってやると、美しい顔は迷いなく穏和に笑む。

「貴女は優しい人だから、俺を忘れないでいてくださるはずです。貴女の罪業のひとつに甘んじるのも悪くない。家の復興は叶えられなくなりますが、…貴女に話せた」

 鋏ごと手を握る両手を慎重に外す。行先のない嫌悪が叫びたいほど溢れた。一気に体温が上がり、鎮まっていた手首の傷が主張する。唾を呑む。取り繕う。しかし全てを見透かされているみたいだった。

「物騒な妄想をするんですね。疲れているんですか。肩でもお揉みしますよ」

 離れたばかりの戦慄する手を掬い取られ、寂しげな表情にさらに憐憫が混ざる。

「群青様がわたしに不安定な、口にするのも憚られるようなものを見出したなら、それは少し…この寝るか食べるかの生活に飽いたからです」

 おどけて、愛想笑いで話を打ち切った。この時間も終わったとばかりに片付けを始める。彼は申し訳なさそうに立ち尽くしていた。

「群青様が気を遣ってくださっているのはよく分かっています。気にしないでくださいませ。あまりに群青様がお優しいから、つい甘えてしまいました。ごめんなさい」 

 半乾きにまでなった髪を適当に乱し、素っ気なく前を通った。布団に向かう途中で腕を引かれた。包み込むような匂いとしなやかな筋肉。

「俺は優しくなんてありません。ですがそれでも、貴女が甘えてくださるなら応えたい」

 だが極彩は返すことができなかった。

「ありがとうございます。先におやすみさせていただきます。きちんと温まってくださいませ。逃亡するようなことはしませんから」

 胸板を突き撥ねる。寒くなる。しかし火傷しそうだった。

「極彩様を信じます」

「城には大切な友人がおりますから。逆らうつもりなどありません。どうぞご安心くださいな」

 同居人は嘆息し、背を向けた。安堵はそこに感じられなかった。布団に入り、蹲って眠った。昼に体力を消耗しないせいか、睡眠は浅く、群青の大きくはない風呂上りの足音で目が覚める。それは布団の傍まで近付いてきた。甘い酒の匂いが漂う。脇で気配は腰を下ろし、飲み下す。そして溜息。自然を装い、布団に潜った。

「お飲みになりますか、薬用酒」

 布団に入っている者に対するには遠慮のない態度で、彼は酒を勧めた。(さと)られているなら寝たふりをする必要もなかった。湯上りの群青は市井の若衆に近い隙がある。

「頂戴します」

 白椿の絵が入った湯呑に赤褐色の液体が少量注がれる。先程嗅いだものとは違う酒だった。彼は器を眺めている女に、湯呑を新しく買ったのだと的外れなことを喋った。

「明日、この生活が少し緩和できるか相談してみます。今必要なのは日常に戻ることだと思います」

 甘苦い薬用酒は量が少なくとも濃く、一口で飲み干すことができなかった。熱が唇に留まり、喉から広がっていく。

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