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彩の雫  作者: .六条河原おにびんびn


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 花の香りが鼻を支配していた。味はないが香りの強い花を喰らったのかと記憶を疑うほど。起き上がる。背中の異物感に後ろへ腕を回す。当て布と包帯だった。布団を見つめ停止する。鈴の消えた手首に気付く。腹が減った。しかし何を食べても花の風味しかしなそうだった。

「起きたか」

 大男が玄関から現れる。起きた時、夫は傍にいることはない。

「良かった、目ェ覚めて」

 崩れ落ちるように彼は布団の脇に座った。

「ごめんなさい。桃花褐さんからもらった鈴、失くしてしまったみたい」

「あんさんは、紫雷教じゃねェ」

 苦々しく、しかしはっきりと桃花褐は言った。極彩は垂れ目から目を逸らす。あんさんは紫雷教じゃねェ。彼はもう一度繰り返した。

「…そうだったんだ」

「もうあんさんにあの鈴は必要ない。騙して悪かった」

 上体を伏せ、桃花褐は謝った。

「桃花褐さんは、悪くない。頭を上げて。わたしが莫迦だっただけ」

 枕元に置かれた蒔絵の櫛に気付き、拾い上げる。

「夫は、どうなったの」

「酷かも知れねェが、正直に言って…狐という男は存在しない」

 櫛を弄ぶ。まだ視界が緑を帯び、耳鳴りがしている。

「…そう。虚無(ゆめ)と結婚してたんだ」

 櫛を抱く。訳の分からない感覚があった。胸が絞られるような痛みがあった。

「会うか?」

 首を振った。桃花褐は意外そうに目を見開いた。

「いいんですかい」

「あの(ひと)でないなら、わたしの何でもない」

 彼は非常に拙そうな顔をした。見慣れた部屋に人影が増えた。極彩は顔を上げる。明るい茶髪に安堵したのはほんの一秒にも満たなかった。見知った青年がそこに立っている。師を滅多刺す指示を出し、腹を潰した男だ。違うのは明るい毛だけだった。赤い化粧もない。すぐ傍に座っていた大男は退室しようとしたが、情報の処理しきれない頭はたまたま意識の矛先となった彼を呼びとめてしまう。形の良い太い眉が困惑している。時間が止まったみたいだった。感情を落ち着けるたび、肩と胸が上下した。相手も黙っていた。自分から現れたくせ、口を開くことは許されないとでも思っているらしかった。

「何を言っていいか分からない」

 率直に打ち明ける。群青は立ったまま布団の上の女を見下ろしている。

群青殿(あなた)には何の用もないから、消えて」

「…はい」

 夫によく似た背格好の青年は深々と礼をして踵を返す。

「いいんですかい、それで…そういうもんなんですかい?」

 人の好い桃花褐を留めてよかったのか否か、後悔の陰が過った。

「ここで言葉少なに突っ撥ねちまっていいんですかい?ここで言葉足らないまま(はい)さようなら、で、いいんですかい?本当に?」

「貴方の時間をもらってしまってごめんなさい。きっと仕事中だったのでしょう。身勝手な女に割いた時間は無駄だったと思うけれど、わたしとしては、短かくても、いい経験だった」

 桃花褐の意向に従ったが、粘ったこの大男に言ったわけではないというのに悲痛な面持ちをしている。言われた本人は何の感情も露わにせず、ただ女を見下ろしているだけだった。

「別の人間としてでも、極彩様のお傍に居ることができて、俺は―」

「立場が大事な貴方がわたしに対してそう言わなきゃならないのは分かってるから。恨まない。怒ってない。すっぱり忘れるから…帰って。消えて」

 再び深々と礼をして夫と同じ背格好の青年は帰っていった。叔父の頼みごとが何だったのか、もう忘れていた。

「世の離縁も案外、こんなものなのかもね」

 気遣わしげな桃花褐に悪いことをした気になって冗談混じりに口を開いた。狼狽え気味の男は垂れ目を彷徨わせる。

「つらくねェのかい」

「…つらくないものだと思ってた」

 花の香りに充溢した鼻腔が鋭く沁みた。叔父の匂いがした。

「そうかい」

 笑いが抑えられなかった。しかし何の面白みもない。ただ頬が強張って引き攣った。

「自分で思ってたよりあんさんは、旦那さんが好きだったんだな」

 首を振って否定した。暖かな眼差しとその優しさが恐ろしくなった。

「違う」

「違くねェよ…もとが生真面目なのもあるんだろうが、あんさんは…」

 耳元で毛先がぶつかり合った。

「ただの人柱。条件が揃っているのなら誰でも良かった…後腐れがないなら、あなたに求婚したってよかった」

 立ち上がる。妙な顔をされ、どこに行くのか問われる。

「叔父上のところ」

 寝間着に上着を羽織り、裏切ってしまった家族のもとへ向かう。


―ご成婚おめでとうございます。

 憎らしい男の言葉が居座っている。

―子供は…何人がいい…?お嫁さんに似るといいな…

永久(とわ)に貴女を愛します。

―群青が君とはイヤだって言うわけ。どうしてもイヤなんだって。

―もう貴方の前に現れないつもりだったのに。

 鈍い破裂が耳と拳を打つ。壁はびくともしない。物に当たったところでただ痛みが現実へ放り投げるだけだった。腹が飢えを訴え轟いた。ざらついた若草色の壁に爪を立てる。花の匂いとひり…とした微弱なくせ余韻の長い痛みが鼻を苛む。膝に力が入らず、一度は虐げた壁を伝って寂れた廊下を歩いた。扉の前に来て、逃げ帰りたくなった。しかしこれ以上の無様はすでに意識のない病人であっても見せられなかった。暗い部屋へ入っていく。枕元の電灯が全身裂傷に覆われた青年を白く浮かび上がらせる。花の芳烈が姪を歓迎した。乾いた傷口に軟膏を塗った。


 君は生き 我はまだ生き 君は老い 夢は叶わず我も老う


 昔、詩の好きな農民がそう読んでいた。その下手な詩句を覚えていることに自分でも驚きながら、声には出さず、口にしていた。

「勧められた婚姻でしたが、それなりに…思っていたよりずっと、いいものでした」

 真っ白い叔父の衣の懐に櫛を挿し込む。艶の失せ乾涸びたように硬い、色の薄い毛を指で梳いた。唇を噛む。花の模様の傷が刻まれた頬を撫でた。酒には頼らないと決めたばかりで、しかし守れそうになかった。叔父の放つ強い花の芳香に酔う。嗅覚を支配しているものと同じだった。背中に負った致命傷が小さく疼く。

 部屋を出ると、燦々(さんさん)とした明麗な二公子が護衛のひとりもつけずに立っていた。投げやりな揖礼をする。四肢に力が入らないような気もしたがしっかりと自身で把握しきれなかった。異様な空気感を持った天藍に危ないものを感じはしたがそれでも身体は逃げようとしなかった。

「もうここに出入りするのはやめて」

 有無を言わさず強い調子で彼は出てきたばかりの極彩を睨んだ。

「君はやっぱり…オレを選ばない!」

 怒りの形相で女の両腕を荒々しく掴んだ。過ぎた日の屈辱。不格好な揖礼を崩される。

「オレと結婚して。オレを選んで…でないなら、死んで」

 扉に押し付けられる。叔父の目が覚めてしまうことをこの時ばかりは恐れ、男の手から逃れて扉との間に両手を挟んだ。大した音が立たなかったことに安心したが直後に首へ小刀を添えられる。

「誰に殺されるんでもなくて、オレのために死んで。オレの前で、オレのせいで」

 刃を握って除ける。鋭い痛みが走り、手の中に一閃が迸っていた。

「…かわいそう」

 負傷した手を取られ、手相を横切った赤い線を薄紅色の舌が抉る。

「オレのところに来て。オレの傍にいて。オレ以外見ないで。もう二度と離れないで」

 腰に腕を回し、密着した。彼は荒れた息遣いで懇願する。。

「一度たりともわたくしは、二公子の傍にいたことなどありません」

 背中にあった木板が失せ、芳気の暗闇に引きずり込まれる。

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