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「おかえりなさい…あら」
格子戸が開かれ、夜に慣れた目には眩しい暗赤色のドレスが受付長台の奥から出迎えた。不自然な金糸の髪と黒く縁取られた長過ぎる睫毛に囲まれた瞳は素早く極彩を捕まえる。咄嗟に俯いてしまった。
「今夜…一緒に泊まりたいです…」
「イヤぁね。甲斐性なしかと思ったら隅に置けないじゃないのよ、アンタ」
気拙そうに、しかし面白さを抑えきれないといった具合の誤魔化せていない笑みを浮かべ、宿の店主は手を振ってそう言った。「ざくろ」と丸みを帯びた字で書かれた名札が白く光った。
「うちは桃色御茶屋さんじゃないんですからね!」
夫を介して名簿を出され、記名する。知り合いを視界に留めておくことが出来ず顔を上げられなかった。
「まったくどこで引っ掛けてきたのよ…不言で投網すれば捕まる類の娘じゃないでしょうに?」
「妻です…」
「あらま!」
紅に彩られた口元を柘榴は覆って悲鳴を上げる。記名を終えた名簿を夫が店主へと渡す。
「は、“初めまして”。白梅と申します。夫がお世話になっております…」
宿の店主は意地の悪い笑みを浮かべ「初めまして」と返す。
「夫婦なので…大丈夫です…」
「一体何が大丈夫なのかしら!」
大きく厚い手から冷たく薄い手に鍵が落ちた。空いた手は明るい茶髪を掻き乱す。
「随分と可愛いお嫁さんをもらったのね。狙ってたのに残念よ」
「もうぼくの…大好きなお嫁さんなので…諦めてくださいね…」
店主は肩を竦めて半目で宙を泳ぐと首を振った。妻の手を再び衣嚢に突っ込んで2階へと促した。入り浸っているのか部屋には私物らしき物が置かれている。
「ぼくは…寝椅子で寝るから…お嫁さんは…寝台で寝て…」
壁に琵琶を立て掛け、散らかる衣類や小物を片付けながら彼は言った。
「ここに住んでいるの」
「うん…そうだよ…柘榴さん、とっても…いい人…」
寝台に座るよう勧められ、それに甘えて躊躇いがちに腰を下ろした。夫は背を向け、洗濯籠と寝椅子へ散らかした物を仕分けていた。
「それは畳んでしまっていい物なの」
寝椅子に放られた衣類に触れようとしたが、彼は構わないように言った。
「一緒に…暮らすなら…ちゃんとする、から…お料理も…洗濯もする…」
一緒に暮らす予定は妻の中にはなかった。そしてその資格を有していないような気がしてならなかった。言葉に詰まると夫が振り返る。
「お嫁さん…?」
「謝らなければならないことがあって」
夫は衣類を仕分ける手を止め、立ち上がった。寝台に座る極彩の前に跪く。
「別れる…とか、ヤだ…」
まだ迷いがあった。話す必要はないかも知れない。しかし黙っておくこともまた苦しかった。
「違う」
「謝られることなんて…何も、ない……謝るコトなら…いっぱい…ある…」
女の両膝に縋りつき、その上に組まれた手を弄び、夫は泣きそうに眉を歪めて頬を擦り寄せる。すぐに去ってしまう体温だと高を括って抗いもしなかった。
「貴男以外の男と通じた」
一言に纏めなければ止まらない感情を抑えきれないことが分かっていた。語弊があろうと、そこに在る事実は変わらなかった。乾いた唇を舐め、視界を閉ざして断罪を待つ。
「うん…」
反応の薄い夫の頬に腿を摩られるとくすぐったさに腰が痺れた。
「それだけではないの…他の人に抱かれようとした。薬飲んだから、子供も、産めなくなった…」
「抱き締めても…いい…?」
意味が分かっていないのではないかと思った。返答する前に抱き締められる。酒と他の女を仄めかす佳芳。
「他の人と通じても、わたしは貴男を放せない。それだけじゃない…貴男に子を持たせられない。子供2人欲しいって言っていたけれど、わたしには叶えられないから…わたしの夫でいてくれるなら、もうそれ以外何も、」
戦慄しながら言葉を続ける。細腕に似合わないしなやかな筋肉が彼女を押さえる。
「夫婦の営みも、もう意味を成さない」
「ぼくは…お嫁さんのこと、好き…」
密着した上体から鼓動を伝えられる。無邪気な夫の抱擁に応じられないでいた。
「だから…お嫁さんが…放さないって言ってくれるなら…ぼくも離れる気、ないよ…」
「貴男に会いたいっていう人がいるの。会ってくれる?貴男を裏切った女と…二公子の―天藍様の前で、もう一度契れる?」
愚鈍な面ばかりする夫の掌が怯むことなく女の背を上下する。
「何度でも、お嫁さんに…愛を誓うよ…誰の前でも…だからお嫁さんは…君はぼくを放さないでいてくれる…?」
肩へ顔を埋める。包み込む腕が固くなる。乾いた咳嗽で波打つことのなくなっている背へ極彩も手を回した。手首の鈴が鳴り、布を越えて皮膚が混じり合うほど強く結ばれる。
「許されるのは…つらい…?」
「分からない」
彼は惜しみながら身を離し、妻の前に小さな箱を出す。
「お嫁さんに…買ったの…」
夫の手も戦慄いていた。蓋を開け、包みを捲る。蒔絵の黒い櫛がそこに佇んでいた。尾の長い鳥が銀色に煌めき、金色の羽を散らしていた。
「これが…ぼくの…意思…」
穏やかに彼は額を押し付ける。
「苦しい時も…一緒に…死が2人を別つまで…寄り添って…なんて…」
細い指が髪に入っていく。この宿の店主によって巻かれた毛先を掬い、夫は布の上から接吻する。
「髪飾りを贈るのはね…もうひとつ…意味があるんだ…知ってる…?」
極彩は首を振った。
「君の髪を乱したい」
背筋に力が入った。白く薄い手から髪が滑り落ちていく。そして耳に掛けられる。緊張を覚られてしまう。布の下で彼が微笑んでいるようだった。頬に貼り付いた毛を除けられ、肌を確かめる掌に目を逸らす。
「冗談?」
「半分…本気…だけど…お嫁さんのこと…待つ」
額に額が合わさり、不思議と気分が安らいだ。
「ごめんなさい」
「謝らないで…お嫁さんのこと…許すとか…許さないとか…ぼくには…ない…あるとしたら…君に口付けるか…否か…その迷いだけ…」
夫は少しでも動けば触れそうなほど接近したが、ただ髪を撫でながら、鼻先に布に覆われた唇を当てた。そしてまた散らかしたものの仕分けにかかる。入浴を勧められ、先に湯を浴びたが彼を待つ前に眠ってしまった。身体が浮き、四肢を投げ出す。触れ合った箇所からは酒の匂いも他人の余薫も消えていた。代わりに統一された洗剤の芳馥に境界線を失う。
―こんなところで寝て…いけない子だな
―すぐにお運びいたします
―こらこら、君が運んだら両手足を引き摺ってしまうよ
―ですが…
―やれることは、やれる者がやったらいい
―悪い夢でもみないよう、子守唄でも歌ってあげてくれ。得意だろう?
柔らかく軽い温かさに包まれ、額に少し乾いた弾力を感じた。おやすみなさい。溶けそうな響きだった。耳元で鈴がちりん、と返した。その直後に、人を許した口で誰かが謝った。夏の終わりに沈んでいく緋色に重ねた心情のようでもあり、秋の終わりにはもう消えていたスズムシの残響のようでもあった。もう一度夫は同じ調子で謝り、体温と洗剤の名残が衣擦れを伴って近付いたが、何をするでもなく離れていった。ただ手の甲に乾いてむず痒い微熱が印された。




