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縹は意識を取り戻すことはなかった。全身を覆っていた紋様は刃物で掘ったように傷痕になり、瘡蓋になってもところどころ血が滲んだ。当て布を替えてもきりがなかったため、下回りに処置を止めさせ、もう部屋には寄らないように頼んだ。昼夜問わず天井の照明は点かず、枕元の明かりだけが眩しい。寝台の少し離れた脇から呼吸だけはかろうじて繰り返している叔父を眺めていた。花を吐くことも、咳をすることもない。消え入りそうな息は姪の息遣いに紛れていた。叔父の懐かしい匂いと、人工的ではないくせ押しつけがましい花の芳香が充満した空間は衣擦れの音ひとつしない。静かな室内で病人同様に息だけをして、叔父と光の中で舞う埃を見つめていた。布団の盛り上がりから、痩せて険しくなった寝顔の凹凸の輪郭を空で描けるほど執拗に辿った。眠気が時折押し寄せる。縹は起きない。おそらくもう目覚めることはない。今のところは自力で呼吸をしているが、あとどれくらい続くのだろう。気分は荒んでいく。点滴の袋の中で雫が落ちる。ここで自ら終わらせるという考えまで浮かび、結局出来なかった。弱々しい息吹が静寂に呑まれていきそうで、頭を抱えた。苦しい。重苦しかった。胸に形のないものが詰まっている。叔父はすでに声を失い、意識もなく、あとは熱と呼気が消えるだけだというのに、それが恐ろしくて仕方がない。どう生きていけばいいのか分からなくなりそうだった。今でさえ、どう生きていいのか分からない。震えの止まらない手が、長いこと体勢が変わらず仰向けに眠る叔父に伸びる。刺青のような傷口から血が流れ、湧水のようだった。触れる直前に、手を下ろした。痛々しさにつらくなり、鼻の奥が痛みを伴い湿っていく。扉が開き、廊下の明るさに網膜が射され、眉を顰めた。猫に似た目付きの八重歯が特徴的な少年がたまげた表情を晒す。部屋の暗さにか、中にいた女に意表を突かれたか。
「銀灰くん…」
「お久し振りっす」
照明を点けようとしながら、彼は彼なりに暗いことに意味を見出したらしく、結局暗いままだった。
「桜ちんに色々聞いて、毎日来てはいるんすけど、今日は夜になっちゃって…」
枕元の明かりだけに照らされた血の繋がらない堂弟はまたいくらか痩せていた。行方不明になっていた思考がふと頭の中に叩き込まれたように戻ってくる。最小限の脂肪としなやかな筋肉は健康そうではあるがまだ余地を感じさせた。
「いらっしゃい」
体温を残してしまった椅子を譲る。銀灰は礼を言って腰掛けた。立ったついでに照明を点ける。知ってしまえば濃い面影のある猫目が義父を無邪気に見ていた。横顔に寡黙な師を重ねる。雰囲気は似ても似つかない。
「お茶淹れるから」
室内にある電子薬缶に水を汲む。沸かさなければ、どこか薄汚い印象がある水道で、水回りは暫く使われていないらしく濡れた形跡がない。横には空の花瓶が並び、湯呑が逆さになって置かれていた。勿忘草の模様が入っている湯呑は縹の私物だった。
「城に入らない?」
痩せた少年は驚いた表情で義父から顔を逸らした。きょとんとしている様は師よりも朗らかな昼の森で別れた青年に近かった。
「縹サンの息子として、家を継ぐってことっすか」
「複雑だとは思うけれど」
実父は城に殺されたも同然で、そして義父を完全に選び取り、実父を捨てるようなものだろう。おそらく縹はそこまで要求していなかったはずだ。漠然とした息子であり、突き詰めてしまえば友人として傍らに置いて措きたかったものだと、薄らと感じ取れた。
「オレっちの父親は縹サンっすから…でも、オレっちには荷が重いっすよ」
茶菓子を出す。彼はそれに気を取られたが、直後に再び極彩へ瞳を戻した。
「夕飯はもう?」
苦味を持った笑みを浮かべ、銀灰は首肯した。
「まだ食べられるでしょ。ご飯、付き合って。簪のお礼がしたいから」
沸騰しきっていない電子薬缶の電源を切る。強引で突然の誘いに銀灰は間の抜けた面構えになっていた。
「でもこの前お団子食べさせてくれたじゃないっすか」
「あれはお礼なんかじゃない。猪鍋が食べたい。苦手?」
「苦手じゃないっすけど…簪のことなら気にしなくていいんすよ、ホントに」」
「ずっと引き籠って慣れないお酒ばっかり飲んで…たまには美味しい物食べて、人と話さないと……叔父は呆れるかな。奢らせてよ。叔父上に代わってもてなすから。家族で鍋、突つきたい」
目覚める気配のない縹を視界から排除した。血縁関係のない従弟は薄い目蓋をぱちぱちと瞬かせる。叔父の息子というよりは、自身の弟のような感じがした。ぽかんと開いた口元が人懐こく円む。不言通りの肉鍋屋が数店候補に挙がった。
「家族、か。家族っすね。御馳走になるっす…でもさ、白梅ちゃん」
ころりと表情が一変し、曇り始める。極彩は首を傾げて話を促す。この後用でもあるのかも知れない。
「あの、オレっち…、その、あんま人前で飯、食えなくってさ…」
気さくな平生の様子であるだけに、遠慮がちな態度が似合わなかった。
「どうして」
飯という枠に当て嵌まらないのか、食べ物という点について挙げるならば三食団子は食べていた。杉染台で握飯も食っていたところを見た覚えがある。
「…箸の持ち方変なんすよ。多分食器の持ち方だって綺麗じゃないっす。白梅ちゃんに嫌な思いさせないかなって…下品なヤツと一緒にいたら…色々と事っしょ」
迷いを窺わせつつも、拗ねるように彼は説明する。
「わたしは銀灰くんと夕飯が食べられたらそれで。口に運べればいいから、気にしないで」
銀灰を連れて城内を歩く。自然ながらも不自然な花の強い香りが嗅覚を追い縋る。寂れた廊下の埃臭さがまるで味方のようだった。数日ぶりに現れた極彩に下回りたちは目を瞠った。安酒を頼んでは日がな一日叔父の傍を離れなかった。かといって世話をすることもなく酔っ払って天井の汚れを凝視しているか、眠るかだった。叔父が叔父になる前の生活を覗いてみるつもりだった。何も分かった気がしなかった。むしろ底の無い泥沼へ積極的に嵌まっていくような心地があった。牛車に乗り、不言通りへ向かう。繁華街は混雑する時間帯で牛車やその他車両の立ち入り区間も制限されていた。最も繁華街に近い停留所で降車する。人々の活気が星空を隠す提灯を赤々と燃え滾らせている。喧嘩や囃し立てる野次馬の騒がしさまで聞こえた。多種多様な専門料理店が並び、重なり合った匂いを自ずと鼻が分析する。花の香気で壊れたものだと思っていたがまだ正常に働いている。繁華街の大通りから外れた店へ、逸れないようにと従兄の手首を引いた。彼もまだ成長の余地が大いにあるくせ、部外者の前に限り弟である少年のように目線が変わっているという感じはなかった。わずかに上にある、師の色を湛えた目に意識と取られる。瑞々しいが痩せた頬が彼方此方の明かりに炙られていた。父よりは濃いがそれでも他の人たちと比べるといくらか薄い色の瞳の煌めきが鋭くなる。健康的ではありながらもやはりまだ細い少年に肩を寄せられ、すぐ真横を酒臭い男が千鳥足で追い越していった。着いたのは、大通りの脇に入り組んだ階段の先にある肉鍋屋だった。以前何度か通りかかったときに幟で知った店だった。




