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コイちゃん

作者: 穂踏日和

 杖から伝わる振動の変化を頼りにその場所へ行くのが私の唯一の楽しみです。家からこっそり抜け出す緊張も、すれすれに通り過ぎていく車やバイクの音もなんともありません。道中、犬から吠えられても木の上から雀が私を励ましてくれます。嫌なにおいのするガスだって風が遠のかせてくれます。

「おかえり」

 その言葉を聞けた時ほど安心する瞬間を私は他に知りません。彼がいるこの場所こそ代わり映えしないことを許され、許せるただ一つの場所なのです。

 ここを知る前の私はただただ毎日が嫌で、苦痛で、逃げだしたい感情しか持ち合わせていなっかった卑屈な存在でした。それでも私の足はそう遠くへは私を連れて行ってくれません。外から内へ仕方なく入ってくる日常の音たちも、変化を感じるにはあまりにも平坦すぎるものでした。つまらない毎日。でも。

 あれは肌に冷たさを感じた日のことです。外に出てみると虫がころころと小さく申し訳なさそうに鳴いているだけでした。以前教えてもらった、あちらこちらに黒が密集している時間だったのだと思います。

 いつもなら煩いくらいに辺り一面に感じる物の気配も、息をひそめて騒ぎ疲れていたのです。この世界の王様になったような気持ちでした。このなんとも嬉しい気持ちは優越感、と言うそうです。胸を躍らせながら私はかつかつと音を立てながらあてもなく歩いて行きました。そして着いたのがこの場所です。彼は私に

「はじめまして」

と声を掛けてくれました。最初、私は誰もいないと思っていた空間から突然挨拶をされ、とても驚いて口をぱくぱくと開け閉めしてしまい、それが彼には面白く見えたらしく静かに笑われてしまったのを覚えています。

「君は今日からコイちゃんだね。よろしくコイちゃん」

 変わったあだ名に少々戸惑いながらも私は彼に今日ここに来るまでどれだけ楽しかったのかを話しました。みんなそろいもそろってお行儀よく眠っているのがなんだか可笑しかったこと、虫たちがころころと鳴いていたこと、この世界の王様になれたような気分になったこと。

 話を聞いてくれている彼もとても楽しそうに「僕もおんなじことを考えたよ」とか「虫たちの声はきれいだ」とか「コイちゃんの場合はお姫様じゃないかな」とか話をしてくれたのでこれまでにないくらい私はお話が楽しくなってしまいました。

 それからです。私が暇を見つけてはこの場所に来るようになったのは。

 ある日、私は彼とお話を終えてそろそろ帰ろうとしました。そして私は普段感じない違和感を彼から聞いたのです。

「さよなら」

その声は震えていました。何かを怖がっていたようでした。不思議には思ったものの私は

「またね」

と返して立ち去ってしまいました。

 次の日、いつもの場所で彼の声は聞こえません。何度呼び掛けても、楽しかったお話をしても彼の声は帰ってきません。

 その日は家に帰りました。こんなに悲しい気持ちになったのは本当にいつ以来だったでしょうか。

 そして私は家の人からある話を聞きました。新しい建物が近くにできるという話です。近い日に今空き地になっているという場所にできるそうです。昨日はお祓いがその場所でされたということでした。なんでも、数年前にその場所にある木から若い男性が首を吊ったそうです。

 私は頬に温かい雫が流れるのを感じました。家の人にどうしたのと問われても、うまく答えられませんでした。大丈夫。と、ただそれだけ言って私は部屋に戻りました。

 翌日お花を添えに行こうと思いました。

 今までの、感謝の言葉と一緒に。


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