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Limit of mental  作者: くらしかる
9/12

紅い夜空と蒼い朝

それからの記憶はない。気がついたら自宅のベッドの上だった。あれからどうなったのか、さっぱり検討が付かなかった。警察の聴取にどう答えたのかとか、そもそも矢沢はどうなったのかとか。

気だるい体を起こしてカップラーメンを袋から出し、お湯を入れようとポットのてっぺんを押し込む。ぬるくなったお湯がポットから流れ出る。湯気のひとつも立たない。

長い溜息と少しのうめき声のあとに水をくんだヤカンを火にかけた。そしてしばらく手持ち無沙汰になった。洗濯物をしてもいいのだが、正直それに気が進むほど体は軽くなかった。しょうがないからテレビをつけよう、そう思ってチャンネルを回した。時刻は昼の2時。やってるのは、ワイドショーかショッピング、それと興味もない恋愛ものの洋画、刑事ドラマだった。何の気なしにワイドショーにチャンネルを回す。コマーシャルのあとワイドショーからニュース番組へ移った。いつもの如く日本のどこかで起きた殺人事件について報道していた。

「被害者の男性は背中と胸を刃物で刺され、病院に運ばれましたが、昨晩死亡が確認されたとのことです。」

ここで画面が切り替わる。

「次のニュースです。」

画面には夜の道路にあがる火炎を上空から撮影した映像が流れている。

「一昨日の午後11時頃、首都高速の辰巳ジャンクションで乗用車2台が壁に衝突し、そのうち1台が炎上する事故がありました。この事故で乗用車を運転していた群馬県の会社員"上野新一"さんが頭を打ち軽傷、また、東京都の会社員"矢沢健一"さんが全身に火傷を負い、今朝病院で死亡が確認されました。」

病院で死亡が確認されました。

病院で死亡が確認されました。

病院で死亡

病院で死亡

病院で死亡

死亡

死亡

死亡

死亡

死亡



矢沢健一 は 死んだ。

死んだ。

矢沢が……死んだ。



「警察は矢沢さんが制限速度を大幅に超過して走行していた疑いがあるとみて調査を進るということです。

次のニュースです。今朝未明、千葉県市川市にある……」

矢沢が死んだという知らせは俺にとってかなり大きいものだった。もぬけの殻になるような、意識すら遠のくような感覚。ピーッと音を立てでヤカンがお湯が沸いたことを知らせる。呆然として見るテレビは今朝方起こった火事を報道していた。チャンネルを弱々しく握りながら、何も耳に入らないニュース番組を見ている。ヤカンの音が一層激しくなった。そこで初めてそっとテレビを消した。そこからの記憶は曖昧だ。気づいたら伸びたラーメンが目の前にあった。無気力にふにゃふにゃになった麺をすする。一口、二口と機械的に。別に美味しいとかそういうわけじゃない。間違いなく今までで一番不味いラーメンだ。味わうなど忘れてひたすらラーメンを口に運ぶ。ひたすらに。伸びてふにゃふにゃしている麺をひたすらに。だが量は所詮カップラーメンのそれだ。あっという間にぬるくなったスープすらなくなった。あまりにも、埋めるにはあまりにも力不足だった。


テーブルの上には銀色の鍵がある。GT-Rのエンブレムがあしらわれた無骨な33の鍵だ。だが今は少しの魅力すら感じなかった。



矢沢の死を知ってから一週間が過ぎた。通夜に出て、葬式で焼香をあげ、それから仕事に明け暮れた。帰ったら寝る、そんな生活を送っていたんだ。33Rの鍵は壁にかけられたままでいた。やがて、視界にも入らなくなっていった。非日常のあの空間は、日常の波の中に消えていった。今までデスクトップにしていた愛車の壁紙は、いつしか出張で行った京都の紅葉に差し替えられ、今まで考えてもいなかった"気になる女の子"もできた。ふつーのサラリーマンに俺はなった。あのアウトローを忘れ、あのアドレナリンも忘れ、俺は日常を生き抜いた。1年、いや1年と2ヶ月くらい経ったろうか。目まぐるしくすぎる1年と痛いくらい寒い冬は終わり、清々しい春がやってきた。

自転車に跨ると春一番が吹き付けて少し寒い。身を少し震わせて吐く息はまだ少し白かった。行く手を阻む風を押しのけ満員電車に押し込まれると、いつもの景色が窓を流れる。最寄り駅から会社までは電車で20分、その間気になる小説を読むのが日課だ。会社のある駅についても人の波に揉まれながら改札をくぐり、目を閉じても歩けるような慣れ切った道をひた歩く。いつの間にかデスクに座り、Pcを立ちあげる。朝礼前にやっておかねばならない仕事をちゃちゃっと終わらせ、朝礼を迎える。また、仕事に追われるのだ。


そして迎える昼休み。テキトーにコンビニのお弁当を屋上でつつくのが俺の昼飯。そこにいつもと違うことがあるとすれば"気になる女の子"が近くでお弁当を食べていること。気のせいかこちらをチラチラ見ている気がしないでもない。自意識過剰か。

「ねえ白井くん」

唐突に呼ばれて間抜けな顔で前を見る。気になるあの子はそこにいる。

「お花見、しない?」

「えっ…」

「ほら、桜もうすぐ咲く頃じゃん?お花見、したいなって。」

こういう展開はいつになっても不慣れなものである、

「あっ…別にいいけど……」

「やったあ!車持ってる?」

車……

「いや、持ってないよ」

「そうなの?いつも車の雑誌見てるイメージあったから、車好きなのかと思ってた」

別に嘘を言う気はなかった。ただなんというか、頭の中にGT-Rが、すっぽり抜け落ちていた。

「じゃあレンタカー借りていこっか!」

「そう…だね。」

なぜ持っていないなどと言ってしまったのだろうか。GT-Rはどこに行ったのだろう。俺の中でGT-Rは。


そう考えていたら午後の仕事はロクに手につかなかった。部長に怒られ、部下に迷惑をかけたが、どうも頭がふわふわしてしょうがなかった。


気づいたら家の前に立っていた。無気力に鍵を開け、誰もいない部屋の明かりをつける。

車……か…。

今まで見ることすらなかったGT-Rの鍵に目を向ける。その鍵は薄く埃を被ってそこにあった。そっと手に取って見るとそれはやけに重く、そしてやけに力強く感じた。まるでおぞましい魔力をもつ石のように、GT-Rのエンブレムを鈍く光らせていた。そしてその力に導かれるようにかつて歩いた駐車場への道を歩いていく。外は徐々に冷え込んでいく。吐息は白くなり、少し肌寒い。路地を抜け、何ヶ月ぶりかの駐車場にたどり着く。


あった。


俺のGT-Rはそこにあった。駐車場を照らす街灯に薄暗く照らされて白いGT-Rが止まっている。ずっと今まで見ることのなかった俺の車だった。

だが、かつて見た栄光はそこになかった。

土埃を被り、雨に濡れ、ヘッドライトも曇り、タイヤのエアも抜け、泥だらけの猫の足跡すらあった。ドアノブの鍵穴に差し込み、鍵を開ける。ガチャっと機械的な音とともに鍵は開いた。埃っぽい車内で色あせたバケットシートが出迎える。いつもは取り外していたステアリングも付けたまま放置していたようだ。キーをイグニッションに入れると弱々しく警告灯類が光だした。そのままスタートのところまで回しきる。

「カチンッ」

何か緊張感の切れるような金属的な音とともに静寂が訪れる。エンジンはかからなかった。バッテリーが上がっていた、己のセルモーターを回す力すらGT-Rは持っていなかった。俺の中で何かが終わった。愛情というか、執着というか。

ボンネットすら開けないまま鍵を閉めた。振り返らずに歩きだす。もし、エンジンがかかったとしたらどうしていただろう。また走り出すのだろうか、友と呼べた数少ない人間が死んだ場所で。死と隣り合わせのあの場所で。


ともあれ、33Rは後日業者に引きとられた。出勤していたので、そこに俺は立ち会わなかった。つまり俺にとって33Rの価値はその程度にまで落ちたということだ。夜帰ると、33Rのいた駐車場は空っぽになっていた。ケータイの着信履歴にはお世話になっていたショップの店長からの電話が何本か入っていた。

「もしもし、サイトウです」

「お久しぶりです、店長」

「おー君か。あのR33、どうしたんだ。一体どうしてあんなになってる」

「あのクルマ、売ります。200でいいんで買い取って貰えませんか?」

「売る?正気なのかい、それは。お前さんの半身みたいな車じゃあないか。」

「はい。俺はもう、乗れません。」

「でも200って訳には行くまいな。」

「次の車の頭金になればいくらでもかまいません。」

「興味はないのか。」

「はい。」

「……。」

「わかった、450で買い取ろう。」

「感謝します。」

「それはそうと、次の車ったってお前、何に乗る気だ」

「まだ何も。カローラとかティーダでもいいかなって」

「…。もう、車遊びから足洗うわけか。」

「はい。俺はもう、行くところまで行っちまったんじゃないですかね。これからは夜の世界忘れて、善良な市民として生きていきますよ。」

「お前がいくら変わろうと、過去は変えられるわけじゃないぜ。もし、新しい世界の人間にお前の過去がバレたらどうする?またその世界の人間ともサヨナラするのか?」

「さあ、その時考えますよ。」

「そうか。とりあえず振り込んだら連絡するわ。じゃあ。」

「はい。」

通話は終わった。俺一人が住むだけの部屋には何も音がなかった。ただただ遠くに線路を走る電車や前の通りを走る車の音が聞こえるだけ。静かだった。アパートのベランダでタバコを吹かす。セブンスターの14ミリ、ちょっと辛い白い箱のタバコ。これを吹かしながら車談義をした首都高は、もう数ヶ月前の遠い思い出だ。


数週間もしないうちに俺は新しい車を買った。日産ティーダのCVT、2.8L直6ターボの車から1.5LのNAエンジンの車に乗り換えて、その遅さに当然戸惑う。この遅さに慣れたとき、俺の人生にあの夜のことはなかったことになるのだろうか。あのアドレナリンに魅せられたあの世界と決別できるのだろうか。江戸川区のマンションだらけの光が俺を優しく照らしている。少し違う日常が始まった。

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