欠陥とマルボロ
ざらつくアスファルト、うねる路面、暴れ出すステアリング、膨れあがる吸気音、高回転域で叫ぶエンジン、うなるギア。そうだ、この空気、緊張感。加速でロータリーには離されない。呼吸が同期し、車間は詰まり、視界のほとんどがRX3で埋まる。横羽特有のリズムに身を任せ、バトルは動いていく。明らかにペースは上がり続けていた。つまり、黒騎士は僕を意識している。間違いない。眼中にない雑魚を先に行かせるチャンスはいくらでもあった。しかし今黒騎士はその時代錯誤甚だしいマシンで必死に逃げている。こちらが優勢だ。コーナーで追い詰めるたびにRX3はオーバーステアの挙動を見せてリアが乱れる。そりゃそうだ、RX3のホイールベースはわずか2310mm、こんな速度域なんて微塵も想定していない。こういう極端にオーバーステアを示す車の弱点、それはターンイン。舵角を大きくとれない車故ターンインのライン取りはシビアなはずだ。そうなればイン側をとってしまえばもう終わり。まともな奴なら鼻先を引っ込めるし、イかれた奴でもよくて大カウンターのオーバーステア、運が無けりゃ壁にキスが関の山さ。さあ渡りに船の高速S字、どう乗り切る? 前との車間は詰まる一方だ。いける、完全にキルゾーンに入れた!スリップストリームに入ったのかF20Cの叫び声がだんだん小さくなっていく。行ける、S字2つ目右、そこで鼻先を入れろ!横Gが小さくなっていく、そしてrx3が右旋回する直前、その一瞬でアクセル全開のまま右に舵!
「ズリッ」
一瞬フロントが舵を受け付けなかった。車はタイヤ2個分膨らむ。原因はなんだ?アクセル戻せば接地感は回復する。フロントの荷重不足?いや違う、アクセル戻した瞬間爆発的にフロントのグリップが回復した、これは荷重云々の話じゃない…。
車はコーナーを抜けストレートへ。段々フロントの接地感に疑問を抱くようになってきた。原因が不明瞭なトラブルは次が予想できない。突発的にグリップが失われるようなことがもし横Gがマックスにかかるクリップ付近だったならどうだろう。マシンを信頼できていない...危険だ...。一般車を避けるため、RX3がレーンチェンジしてスリップストリームが解除される。一気に空気の壁に押し戻される。それと同時にリアのGTウイングが生み出すダウンフォースがリアタイヤを横羽の路面に押し付けた。
ダウンフォース
それか...。リアがGTウイングやディフューザーで押さえつけられているのにフロントにはリップスポイラーしかついてない。初歩的、かなり初歩的なミスだ。いや、盲目的にトップスピードを求めた代償かもしれない。とにかく、現状僕がこの車を選択しているメリットがなくなってしまった。アイデンティティを殺してしまったんだ。盲目的追求の代償、均衡の崩壊、それが招く終焉。浅はか、実に浅はかだった。自惚れだ、あの怪物を討伐する日はまだ先の話だったんだ。
僕はスローダウンした。車も、そして乗り手も。このまま追うこともできたが、僕はそれをしなかった。勝敗は決した。明らかに。500馬力のS2000は吠えるのをやめた。バックタービンを鳴らして周りに溶け込んでいく。まるで我慢していた息をまたし始めるように緊張は溶けていった。時はまた、動き出す。無機質な白い光はS2000の青色に反射した。リズミカルに継ぎ目を乗り越えた音が振動とともに伝わってくる。そういえば佐々木さんはどうしたのだろうか。夢中で追いかけてちっとも後ろに気を使っちゃいなかった。無論バックミラーなんて一度も見ていない。あの速度に追いつける車なんてほんの一握り、その車の接近を想定することは全くの稀有だと思えたからだ。後ろから近づく甲高い轟音、直6のそれではない。これはそう、V8のシングルプレーンクランクシャフトの高回転ユニットを積む車の音だ。こちらは100km/h、推測するに相手は200かそこら。脳天を貫くような高音が横をぶち抜いていく。白いフェラーリF430スクーデリア、ソプラノの正体はこの車だった。F430、それは一時のフェラーリのレースシーンを飾り数々の名勝負を演じた、まごう事なき名車であり、完璧に調教されたイタリア生まれのサラブレッド。そしてスクーデリアとは、その贅肉をそぎ落とし、カーボンパーツを多く採用した、よりレーシングカーに近づいた車。だが正直なところ興味はそそられない。刺激に欠けるのだ。僕はもっと血肉の沸き立つような、ピーキーでリスキーな、それでいてカミソリのようにシャープな車がいい。ちょっとくらい裏切られてちょうどいいのかもしれない。これはもう病的であり、一種の中毒だ。
フェラーリを追うようにして直6ターボの音が近づいてくる。間違いない、2Jだ。バックミラーから一瞬で消えたスープラは、このs2に気づいたのかアフターファイアを焚きながらフルブレーキをかました。推定240km/hが一瞬で100Km/hに落ちる。
間も無く台場だ。
台場を降りると、そこは閑散とした幹線道路だ。その中を二台のスポーツカーはゆっくりとながしていく。
車は月島に向かっていた。
東京の夜という喧騒から置いて行かれた真っ暗な倉庫街。レインボーブリッジと東京タワーが遠く思えた。晴海埠頭、標識にはそう書かれている。
安藤さんはいつの間にか寝ていた。rx3を追っていたときは確かに起きていたのだが、どうやら徹夜が応えたらしい。倉庫街の奥、埠頭の先にくると佐々木さんは車から降りた。僕も彼に倣い車から降りる。汗ばんだ肌に潮風が心地いい。思いっきり夜の潮風を吸い込んだ。彼はおもむろにタバコに火をつけた。メンソールなしのマルボロを吹かしながら、まじまじとS2を観察しはじめる。
「速いですね、このS2。兎角瞬発力がいい。あのRX3を追い始めたときのあの加速。ターボじゃああは行きませんから。事実俺はブーストが立ち上がるのを待っていたら完全に出遅れちゃいまして。それからコーナーは言わずもがな。正直少しなめてた部分も否めないですが、ここまで置いて行かれるとは…。おまけにトラックに道塞がれたもんで完全に視界から消えちゃいましたヨ。正直横羽はそこそこ自信あったんですけどね、ここまでヤられるとは。油断大敵済む話じゃあないですよ。」
彼はそう言ってまたタバコを吹かす。彼は細く長く煙を吐き出した。
「別に勝負していわけではないですし、そこまで言わなくても…。実際僕も奇襲的にペースアップしていたわけですし。」
彼は少し勢いを増して煙を吐いた。
「例えそういう加速をされても追いつける自信はあったって訳ですよ。なんたって過給器積んでるとはいえ2Lvs3Lですからね。峠道ならいざ知らず、横羽ついて行けないとあれば、それは勝負してるしてない関係なくこちらの負けですよ。
それはそうとあなたもあのRX3を追っているんですか?あんな急加速じゃあたまたまって訳でもないでしょう。」
「ええまぁ。あの車には一回抜かれただけなんですけどね。実にあっさり抜かれましたよ。別にだからなんだって話なんですけどどうしても抜き返したくなって。何がここまで駆り立てるのかはわかりません。ところで、あなた"も"ということは僕の他にも追っている車がいるということでしよね?」
「あぁ、うわさで昔の仲間が追い始めたと聞きました。最近縁遠くなってしまって確認のしようはないんですがね。」
「へぇ。速いんですか、その人。それから車種は」
彼はどこか少し笑ったような顔をしながらタバコの火をもみ消した。
「速かったですよ。少なくとも昔はね。私の知る頃の彼は、一端の33R乗りで結構腕をならしてたもんです。19で33Rを買い、それを800馬力オーバーのバケモノに仕上げた。特に当時の湾岸線ではほとんど無敵でしたね。本当にRに選ばれたような人だった。でもチームメイトのクラッシュを機に第一線から退いてしまったんです。俺が最後にあいつを見たとき、あいつはティーダに乗ってましたよ。そんなんで物足りるのかと聞くと"俺にはもうスピードは必要ない"と宣った。俺は悔しいとさえ感じましたね、正直。俺が追いかけたR乗りはもういないんだと。
でも、あの人は新しいR引っさげて帰ってきた。あの人はもう15年も前に終わったのに。GTRなんて見せられたら古傷が疼いちゃいます。ああそう、あの人は白の35Rですよ。」