C1の死神
クシャクャになった紙箱からタバコを一本咥え、火をつけた。
ここには高級車から走り屋まがいの車まで多種多様の車が集う。ざっと見てもランボルギーニガヤルドからトヨタスープラ、ホンダシビックなんかも。ここでは各々が主役であり各々がモブになる。例えランボルギーニに挟まれたヴィヴィオでさえ、ここでは主役なのだ。ふと本線に目を写すと、轟音と共に2台の車が過ぎ去った。パッと見て200キロは出てただろう。音から判断すれば、V8と直6のようだ。車種まではわからなかった。まあ週末の夜だ、あのくらい日常茶飯事と言えよう。
そんなこと言ってる間にまた1台高級車が入ってきた。シルバーのマセラティギブリ、今日のお客さんだ。
「藤本さん、どうも」
「お待たせしました、仕事が長引いてしまって、すみません。」
ビシッと決めたスーツがマセラティに良く似合う。そんなジェントルな方と真夜中の辰巳で何をしてるんだって話になるだろうが、それは至って簡単で一種の接待だ。普通のサラリーマンが取引先とゴルフに行くのとなんら変わりはない。ただそこに、俺らの場合は車があるというだけ。
「お待たせしたお詫びにコーヒー奢らせてください」
「いやいや、お構い無しに」
「いやいや、そんな訳には行きませんよ」
真夜中の辰巳で何が楽しくてこんな会話してんのやろか。アホらしくなってきた。
「すいません、じゃあ1本だけ、よろしいでしょうか?」
「ぜひぜひ、どれにしましょう」
「じゃあ、これで。」
目につく限り1番安い缶コーヒーを選んだ。
ガコン、ガコン
藤本さんも同じコーヒーを選んだようだ。
「いただきます」カシュ
キューンキュキュキュ、ブァーーン
かなり図太く乾いた音が耳を刺激する。おそらく触媒を抜いているか、競技用の触媒をインストールしたNAの車だろう。振り返るとさっきのS2のボンネットが開いていた。
ブァーーァン、ブァーーァン
おっさんがボンネットを開けて何やら観察している間に、青年が3回ほどエンジンを吹かしていた。
一通りチェックを済ませたらおっさんはサムズアップしてボンネットを閉めた。
「あ、あの人…」
藤本さんがふと呟いた。
「お知り合い、ですか?」
「ええ、レースのライバルチームのチーフクルーですよ」
そう言うと藤本さんはコーヒーを飲み干した。
「ご挨拶して来ますか?」
「いやいいんです。そんなに関わりを持ちたいわけでもありませんし。」
彼は踵を返し空き缶をゴミ箱に投げ入れた。そして少し顔を強ばらせて続ける
「競技をやる人間は、こういうイリーガルな行為は慎まなければいけないんです。僕らがやってるのは「モータースポーツ」だ。迷惑行為じゃないんです。格闘技とチンピラの喧嘩が根本から違うように、モータースポーツと暴走は根本から違う。でも、ここ日本では未だにレースが暴走族と混同されてしまうことは珍しいことじゃないんですよ。それは一重に公道で迷惑行為を繰り返す輩のせいだ。だからモータースポーツをやる人間は暴走行為を否定すべきなんです。いや、否定しなくてはならない。自分達の築き上げてきたものを正当化するために。ましてや自分がそれに加担するなんて言語道断ですよ。それがわかってない人間と何を話すんです。」
冷たくそして決して崩すことの出来ない正論だった。そして少しだけ侮蔑を含んだその言葉は俺の心に痛々しく刺さった。
「ええ、その通りですね。」
「そういう僕も昔ここを走っていた人間なので、自戒の意味もありますよ。二度とあんな馬鹿な真似はしないと。」
ドムッ、ドムッ
藤本さんが話し終わると同時くらいにドアの閉まる音がした。1台のS2だった。そして、そのままそれは俺の目の前で本線に向けて加速しだした。
ヴァァァォォァァォォァォシュルルルンヴァァァォォァァォォァォ
上まで段つきなくスムーズに吹け上がり、透き通った高音が辺りに響きわたる。
「あれ、スーパーチャージャーですね」
藤本さんがボソッと言った。
「なぜわかるんですか」
「簡単ですよ。VTEC特有のカムの切り替えが聞こえませんでした。ということは可変バルタイのキラーカムが入ってるはず。それでいて低回転から高回転までスムーズに吹け上がったということは過給器が入ってることは間違いないわけです。そしてシフトチェンジの際に一瞬バックタービンの音がした。でもターボ特有のくぐもった音はしていない。ということは遠心式のスーパーチャージャーで過給してる、という結論にいたるわけです。」
「あの一瞬でそこまで。」
「いえ、特徴的な音だからわかっただけですよ」
いつの間にか、手に持ったままのコーヒーは空っぽになっていた。
「少し、ドライブ行きませんか。僕のマセラティで。C1の外周り1周とか」
藤本さんがふと切り出した。
最後の一滴を啜って缶をゴミ箱に捨てる。
「いいですねえ。お邪魔させて頂きます」
藤本さんのギブリは右ハンドル仕様で、中は黒の革、センターコンソールにはウッドパネルが装飾されていた。
「しっかしとてもシンプルなインテリアですね。すっきりとしていて気持ちがいい。」
少しかしこまった事を言ってみる。
「ええ、こんなシンプルだと、もはや芸術点ですよ。」
「ただ、時計がアナログなのはちょっと見づらい感じがしますねえ」
藤本さんはクスッと笑った
「橋本さん、イタリア車を語るときに実用性は考えちゃあいけませんよ。美しければそれでいいんです。」
「おっと、これは失礼しました」
マセラティは走り出した。とても静かだった。マセラティのエンジンはフェラーリが製造している。ご多分に漏れずこのギブリのV6ターボエンジンもそのはずだ。だからてっきり甲高い、突き抜けるような高音が聞こえると思っていた。
「ちょっと踏みますよ」
辰巳から本線への合流での加速、背中を押す強いトルクにも関わらず、意外にも音は大人しかった。控えめで、最低限の主張で最大限のパフォーマンスをする、まさに最近の車を体現するものだった。
「いい加速しますねえ。」
「ええ、芸術的なデザインとは裏腹にエンジン特性は意外にも実用的だったりするんですよね。」
藤本さんは少しだけ踏んで追い越してみせた。キックダウンはなく、それでいて電気自動車のような気味の悪い加速を見せる
「確かに。回さなきゃパワーが出ない時代は終わりですか」
「そうでしょうねえ」
藤本さんの言い方はどう取っていいかわからないニュアンスだった。今の車を否定するのか、肯定するのか。それすら迂闊に受け取れなかった。
「一体割合にして何%の人が免許取ってから返納するまでにレブリミットまでエンジンぶん回すんでしょうねえ。」
「…。」
「少なくとも、うちの母は5000回転すら回したことないですよ。そう考えたらストリートユースを念頭に作られた車がそう進化するのは当たり前なのかも知れません。」
「確かにその通りですね」
「特に日本車でそれは顕著です。欧米、特にアメリカと違ってストップアンドゴーが多いですから。」
「…。」
沈黙が流れる。V6ターボの鼓動だけが静かに車内に満ちた。
「それが、車として当然の進化……なんでしょうね。」
もうすぐC1だ。
バックミラーが眩しく光った、後ろから何か迫ってくる。
ヴァァァン
バックミラーを再度覗く間もなく猛スピードで追い越された。旧式の996カレラターボだ。
「随分飛ばしてますね」
何の気なしに呟く。
「自分が100キロなんで180キロってとこですかね。」
なぜかどこか寂しい気持ちがこみ上げた。
マセラティは箱崎JCTからC1外回りにアクセスした。
「僕がここを攻めてたのは15年ほど前になるんですよね」
彼は呟いた。
「結構最近ですね。」
「最近って言っても、もう時効ですよ」
そう言って少し苦笑いする横顔は40になり少し老けてきた若社長を、より若く見せてくれた。
マセラティは箱崎JCTからC1外周りに合流した。道幅は一気に狭くなりコンクリートウォールがすぐ側に。
道は曲がりくねり、見通しも悪い。
後ろから2台迫ってくる。マセラティの斜め前にはトラックが走っている。ここをすり抜けるのは無理だ。その車は藤本さんが道を譲るのを待っているかのように後ろについた。
藤本さんが道を譲る。
待っていましたと言わんばかりのスタートダッシュ、ハザードランプを2回点滅「ありがとう」のサイン。
「GTOとZ34ですか」
2台はコーナーの先に消えていった。
「橋本さん、羨ましそうですね」
藤本さんは唐突に言った
「いえ、そんなことないですよ、なんですか急に」
「いいんですよ、ここはもうオフレコですから」
ビルの谷間から東京タワーが見え隠れする。必死に隠そうとする俺を藤本さんは責めることはなかった。
「ここからはお互い、聞かなかったことにしましょう。」
そう切り出すと、戸惑う俺をほっといて藤本さんは続けた。
「僕でもたまに羨ましくなる時もあります。だって自由じゃないですか。体裁を気にすることもなく、ただただ自由に走りまくる。どこを走ろうと、誰と走ろうと、そこには自由しかない。」
気の所為だろうか、彼にさっきまでの覇気はなかった。レースで天才的な采配を下す、若き凄腕監督の面影はそこにはなかった。
「僕らは勝たなきゃいけないんです。レースでスポンサーの名前を背負っている以上、それは絶対。だから僕らはコース上で自由なわけじゃないんですよ。いつも勝利というものに縛られているんです。確かに勝利というものはとても魅力的なものです。だけどその対価として何もかもを捨て去るしかない。時には攻めちゃいけない時だってある。いやむしろその方が多いかもしれない。僕らが追っているのは勝利であってスピードじゃあないんですよ。」
「自由……ですか」
「そうです。唯一彼らにあって僕らにないもの。」
確かにそうかもしれない。自由にスピードを求めることが出来る、それはストリートの特権なのかもしれない。
「ただ物事すべて何かと引き換えです。勝利のために僕が自由を捨てたように、彼らもまた何かを捨てている。」
その先を語ることをせず、車内はまた沈黙した。
「お金、ですか?」
「当然それは捨てていますね。でもそれだけじゃない。社会的信用も含めた「リスク」ですよ。ここはモータースポーツの世界じゃあありません。人は簡単に死にます。僕らみたいに守られている環境じゃないんですから」