虹と10円玉
あぁ、久々に虹が架かったのを見た。
あの7色だか5色だか、よくわからない曖昧な半円を眺めていると、その度に思い出す。
「虹が架かった日に10円玉を拾うと良いことがある」と。
よく祖父が雨の日に口にしている。
また変なこと言ってる…。そう毎回思いながら聞いていた。
まぁ、迷信の類いの一つだろう。でも悪い話ではないから、そんなもんなんだな…と、適当に返事をしていた。
ある日祖母が亡くなった。
老衰だったようだ。苦しまなかったのなら良かったんじゃなかろうか…などと、ぼぅっと思う。
呆然とした僕を置いてけぼりに、葬儀の準備が着々と進んでいく。僕はおとなしく部屋に閉じ籠って、受験勉強の続きに取りかかった。
「このお水を、仏様のところに持っていきなさい」
母が忙しそうに僕を呼んで、盆に乗った水を押し付けてきた。
あぁ、また面倒なことを…。
勉強にも飽きていたことだし、素直にその盆を引き受けた。
でもちょっと怖いな。祖母ではあるが、もう仏様なんだ。死んでいるんだ。
漠然とした怖さも盆に乗せながら、僕は祖母の寝ている和室に向かった。
和室の障子をゆっくりと半分開けたところで、祖父の姿が眼に入ってきた。慌てて僕は半歩下がる。
障子の影からそっと覗きこむと、どうやら祖父と祖母の二人きりらしい。何だか邪魔するのもなぁ…と引き返そうとしたとき、祖父が呟いた。
「あの日、あの虹が架かった日を覚えているかい? そうだよ。あの日だ」
無意識に息を止めて、そのまま障子の影に立ち尽くしてしまう。
「あの日、貴女がポケットから10円玉を落としただろう? その10円玉を、たまたま隣にいた私が拾ったんだ。本当にたまたまだった。その10円玉のおかげで貴女と出会えて、貴女と結ばれたんだよ」
祖父と祖母の馴れ初めだ。初めて聴いた。
僕はゆっくりと息を吸って吐いた。
「貴女は居なくなってしまうけれど、虹を見たら、貴女のことをちゃんと思い出すから、心配しないで行っておいで。そちらにも虹が架かったら、夢で教えておくれ」
萎えた声だ。
耐えきれなくなって、僕は物音を立てないようにその場から去った。
翌朝、親に頼み込んで、近所の雑貨屋に走った。
何でそうしたかなんか分からない。分からなくてもいい。
シャボン玉のセットをひとつ買い、また慌てて帰った。
親には、こんなときにと怒られたが、そんなこともどうでもいい。
祖父のところに行かなければならない。ただそれだけが分かることだ。
「ねえおじいちゃん」
祖父に声を掛けられたのは、夕焼けが眩しくなる時間になってしまってからだ。
「どうした」
祖父はいつも通りだ。祖母が生きていた時と変わらないくらい、いつも通りだ。しかしそれが痛々しい。
「おばあちゃんは、何処にも行かないよ」
何だこの言葉は。もう少し上手く言えないものか。
僕はシャボン玉のセットを取り出す。そしてそれを吹いた。
上手く言えないなら、それでもいい。それでもどうか伝わって欲しい。
「これは、虹だよ。虹の欠片だよ」
あぁ、やはりだめだろうか。
「おばあちゃんは、何処にも行かないよ」
吹いたシャボン玉は、微かな風に乗って高く上がる。夕焼けに光って、虹色が見えた。
「あと、これ。拾ってないけど。あったから」
制服のポケットから10円玉を取り出して、祖父の手に押し付ける。押し付ける…というよりも、叩き付ける方に近かった。
「だから」
祖父がまじまじと10円玉を見ている。そして受け取ってくれた。
「おばあちゃんは、何処にも行かないよ」
祖父の顔を見上げたら、今までで見たこともないような顔をしている。
何だか涙が出そうになって、僕は走って祖父から逃げた。
葬儀も終わってから、暫く経った。
それから、祖父がたまにシャボン玉を吹く姿を見るようになった。その傍らにはいつも10円玉がある。