第六話 約束の褒美
永禄十年 八月一日 丑の刻(一五六七年 午前三時頃)
夜も明けきらぬ頃、小牧山にて一つの鼓が音を上げる。それに続いて低音の法螺貝が鳴り響くと、一騎駆ける男の姿がある。
その男の後ろにも、一騎、二騎と続き、更にその後ろには徒歩や荷車を引いた者達、そしてまた騎馬隊が長く列を作った。
一騎駆けるその男の名は 織田信長 その人である。
信長が、墨俣城に到着した時には夜も明け、馬廻り衆、騎馬隊が数百名、その後方で馬を休めた。
「猿!」
甲高い声でそう叫ぶと、呼ばれた名の通り、猿顔の小柄な男が一人、信長の前にかしづく。
「はっ、西美濃三人衆、稲葉一徹、安藤守就、氏家卜全、織田家に呼応しましてございます!」
「なれば」
信長は、村井貞勝・島田秀満両名に人質の受け取りに向かわせると、ぞくぞくと集まってきた兵をひとまとめにし、美濃へ攻め入った。
織田軍の猛攻は凄まじく、城下の井ノ口まで攻め入ると、この町を焼き払い、稲葉山城を丸裸にしてしまう。
永禄十年 八月十五日
稲葉山城 斎藤家当主・斎藤龍興らは、城を抜け出し舟で長良川を下り伊勢の長島へと逃げ出した。
織田軍の圧倒的勝利であった。
斎藤龍興が舟で逃げたとの報を受けた信長は、河尻と共にやってきた自身の息子、奇妙丸に言う。
「これが戦ぞ」
信長が一騎駆け出した夜から、わずか半月の間の出来事である。
◇◆◇
大勢居た浪人さんやらなにやら、男手はほとんど戦へ行ってしまい、いつもの活気のない小折城(生駒屋敷)では、夏本番のうだるような暑さの中、美代と二人、水を張ったたらいに足をつけて話し込んでいた。
「へ~美代さんってお姉さんいるんだ~?」
「はい。吉乃様についてこちらに来てからは、一度も会っていないんですけど……」
そう言って寂しそうに笑う美代を抱き締めた。
「きっと美代さんのお姉さんだから素敵な人だろうし、私じゃ役不足かもしれないけど。お姉さんだと思って甘えていいからねっ」
「お前じゃお兄さんだろう」
この声は……
「夏さん! 失礼な!」
「確かに。鈴さん、女性のお着物はお召しにならないのですか? きっと似合うと思うのに」
「うーん動きにくいの嫌なんだよねぇ、着慣れないし」
「ふっ……」
夏が小馬鹿にするように鼻で笑う。
「なんなんですか夏さんはもう! で、なんの用ですか?」
いつでも用もなくいる夏だけど、一応聞いてみる。
「稲葉山城が落城した」
「「えっ!?」」
「昨夜の事だそうだ」
「え、でも、一二三四…」
指折り数えてみても。
「まだ十五日しか……」
「あぁ」
「戦って、そんなに早く終わるもんなんですか?」
「いや、今回は特別早いと思っていい」
「ふーん。って美代さん? どうしたの?」
”稲葉山城陥落”それを聞いたからなのか、夏本番のこの暑さにやられたのか、美代の顔色がみるみる内に青褪めてゆく。
「なんでもないです……」
「顔色悪いよ!? 具合悪い!?」
「い、いえ大丈夫です……私、部屋へ戻りますね」
気分が悪そうに口元を押さえながら立ち上がる美代を、私と夏で部屋まで送っていった。
心配だったけど、一人になりたいと言われ、部屋に入る事はせずに、美代の部屋の前で何かを一人考えだした夏を放って、私は庭へと下りる。
美代さんは戦の話嫌いなのかな? それともホームシック? ……でもお姉さんが会える距離にいるのは正直羨ましいな。――遠く、数百年の先にいる母を思い、寂しくなった。
「――え?」
突然、背後から抱き締められる。
「……夏さん」
「お前が、寂しげにしていた美代に、こうしていた」
「私、寂しそうでした?」
背中が泣いているように見えた、と夏は言ったけど、私は夏の不器用な優しさにこそ、涙が出そうになった。
「お、おねえ、さんだと……」
「――私、お姉ちゃんいませんけどね」
「……」
後ろから回された夏の腕にそっと手を重ね、
「ありがとう、夏さん」
静かにそう言って振り返ると、夏が優しく微笑んでいた。
◆◇◆
それから数日もすると小折城にも活気が戻り、男達の顔ぶれにも欠けた顔はなく、ほっと一安心したところで、奇妙丸が勝蔵をお供に連れ意気揚々とやってきた。
「お帰りなさい、奇妙丸様」
「おお鈴殿、達者であったか?」
「達者でって、まだそんなに経っていませんよ?」
「あぁ、そうであったな。戦場では一日がとても長く、しかし短く感じたぞ」
身振り手振りで戦とは、と講釈を聞かされたけど、話の八割は理解出来なくて、適当に相槌を打つ。
分かった事といえば、稲葉山城を手に入れた信長は、井ノ口を『岐阜』と改め、『岐阜城』となった城を改修するとかなんとか。
「それでな、鈴殿。大工の事なんだが」
「あ、はい!」
待ってましたとばかりに返事をしたのに、奇妙丸は口をもごもごさせてから、切り出す。
「主だった大工という大工は、父上の下で皆、岐阜城の普請にあたっておるんじゃ……」
「――というと?」
「褒美をと、おれから言った事だから言い辛いのだが……。その、大工は見つからんかもしれん」
「えーそんなぁ! 私、設計図まで描いて待ってたんですよー!」
肩を落とし項垂れていると、「他の願いを」とか「うまい飯を」とか、一生懸命提案してくれたけど、「うー」とか「あー」しか返事をしない私に業を煮やした奇妙丸。
「よし、分かった。それほどまでに大工を所望というのならば!!」
「え! 何か方法が!?」
「父上に直接頼みにゆこう!」
そう言って立ち上がった奇妙丸の足にしがみ付いた。
「ちょ! ちょっと待って! 父上って、大殿……様ですよねっ!?」
「はぁ? 何を当たり前の事を」
「大工さん借りたいなんて言ったら、こ、こ、殺されちゃったりしませんか!?」
「何を言っておる。殺されなどせぬ、大丈夫だ」
という言葉にほっとしたのに。
「――多分」
私から視線を逸らして言った最後の台詞が恐すぎる。
「冗談だ」
「――っ!? 冗談になってないですよっもう!」
「ではさっそく、今からゆこう」
「ふぇ? 今からですか? 随分急ですね」
「善は急げと言うだろ、それにそうそう城を抜け出してはこれぬからな」
ぽんっと手を叩いて言った奇妙丸に、私は手を振って言う。
「はぁ、そういうもんですかね。じゃぁ、いってらっしゃいお気を付けて!」
「はぁ?」
「ん?」
「そなたも一緒にゆくのじゃ!」
予想外の言葉を発した奇妙丸に、振った手を掴まれる。
「はっ!? なんで私も!?」
「当然だろう! ほれ、ゆくぞ」
嫌だ嫌だと駄々をこね始めた私に、それまで黙って後ろに座っていた勝蔵が立ち上がり、私の耳元でつぶやいた。
「それ以上ごねれば、殺すぞ」
「――っ!?」
子供とは思えない迫力に正直びびった。――信長に殺されるか、勝蔵に殺されるかの二択!?
いまここで勝蔵に殺される一択よりも、”多分”大丈夫な信長に大工を借りに行く方を選んだ。
吉乃に暇乞いをし、旅支度を整えるとすぐに出発する事に。
「――で、なんで夏さんがいるの?」
「何か問題が?」
「いやまぁいいんですけど」
得体の知れぬ勝蔵と、いざとなったらお守りしなければならない奇妙丸との短い旅に、夏は心強い味方だ。
「そこの二人、少し下がって歩いておれ」
奇妙丸が、夏と勝蔵を指して言った。
「?」
二人が少し下がるのを見届けてから、奇妙丸が口を開いた。
「――前に、おれの縁談の話をしたな」
「あぁなんか、してましたね」
軽い調子で返事をしたら、奇妙丸は呆れた声を出しながらも話を続けた。
「なんかって、そなたは……。まぁよい、武田の姫君との縁談なんだが」
「破談になりました?」
「そんなわけあるか! ――此度、美濃との長い戦に片が付き、父上は次の段階へ進む」
「え、長いって、十五日だけじゃ?」
真剣な眼差しで話をしている奇妙丸も、私の間の抜けた問いには呆れた視線を度々寄越す。
「そなたは本当に何も知らぬのぉ。先日の決戦だけが美濃との戦ではない。父上の、更に父上の代から美濃と戦をしておった」
「えー! なんだか気の長い話ですねぇ」
「んむ。と、今はそんな話はどうでもよいのじゃ!」
勝手に説明をしたくせに、なんだか怒られた。小学生位の少年に度々呆れられ、しまいには怒られるなんてなんとも情けない限り。
「はぁ、すいません」
「でだ、次の段階へ進もうにも、甲斐の武田信玄殿が黙っていない」
”織田信長”に続き、日本史に疎い私でも知っている名前が出来た。――あの有名な”武田信玄”。
「甲斐の武田って、た、た、武田信玄の事だったんですか!?」
「無知のそなたもさすがに武田は知っておるか?」
「そ、そりゃもう有名ですからっ」
この時代の人だったのか……。まぁ正直、知っているのは名前と、”風林火山”って言葉だけで、何をした人なのかも分からない。
「その、武田を黙らせておく為の、縁談なんだ」
「うーん?」
よく分からないと首を傾げると、奇妙丸は皮肉に笑った。
「武田の姫君を、人質として預かるって事よ」
「えー!」
「そもそもは、武田の四男、勝頼殿の元へ織田の娘として父上の養女になった娘が嫁いでいたんだが、近年病で亡くなってな」
なんだか難しい話になってきたな。こんな話を私にする意味はなんだろうかと不思議に思いながらも、必死に頭をフル回転させる。
「うーん、織田家が人質を出してたってことですか?」
「あぁそうだ」
「でも今回は人質をもらうんですか? なぜ?」
「本来であるならば、人質を差し出す立場なんだが。父上はどうやったんだかは知らぬが、武田の姫君をもらう約束を取り付けたようだ」
「ふーん。よく分からないけど」
理解するのを放棄したのが伝わったのか、奇妙丸は「まぁよい」と呆れたため息を一つ落とし、続ける。
「――その武田の姫君というのが松姫という。齢七つだと聞いた」
「は? 七歳!?」
七歳で結婚!? しかも人質!? もう頭が大混乱で、両手で頭を抱えて左右に振っていると、冷めた目を向けられた。
「ない頭を振ったところで音は鳴らぬぞ」
「――失礼な!」
「本題はここからじゃ。おれはな、妻一人を生涯大事にすると誓っていると話したと思うが……。名と年しか知らぬ相手と生涯を共に出来るのかどうか、正直不安でな」
「うーん、そりゃそうですよねぇ」
不安どころか、顔も知らない相手と結婚だなんて私なら絶対に無理だけど。出会って、恋愛して、結婚するってゆう方程式はこの時代には当てはまらないらしい。
「しかし縁談は決まっておる。知らずとも、松姫との婚儀も時間の問題だ。――だから少しでも、姫の事を知っておきたい」
「はぁ……」
「何か、いい方法はないだろうか?」
「ふぇ!?」
とても十一歳の少年の悩みを聞いているとは思えない展開で、結婚どころか、まだ恋愛の経験もない私はなんて答えていいのやら。
平成の世ならば、メールでもすればって言えるんだけど、この時代では携帯なんて存在するわけないし。
「あ!」
閃いた!と言わんばかりに手を叩いた。
「文通! 文通とかどうですか?」
「文通?」
「えーっと、ふみ? 文を交わす? って事です!」
「文か……」
顎に手を当て、大人びた表情で考える奇妙丸が、なんだか少し羨ましくもあった。
私にはそんな相手はいなかったし、”この”時代で恋愛なんて、いつ元の時代に戻るか分からない私には出来るはずもない。
「そうだな、うむ。文を、出してみようか」
「そうですよ、似顔絵とか送ったり!」
「似顔絵?」
「んーと、奇妙丸様のお顔を絵に描いて、送るんです。松姫様のも送ってもらえば、お顔も分かりますよ!」
「なるほど、そうか!」
奇妙丸はぱぁっと嬉しそうに満面の笑みを浮かべ、後ろにいた勝蔵と何かを話し始めた。
七歳の少女と、十一歳の少年の政略結婚なんて私にとっては信じられない話。だけど、それを悲観することなく、前向きに進めようと努力する姿勢を見せる奇妙丸はきっといい旦那様になるのだろうと思う。
いつか元の時代に戻れたならば、私にもこんな時が訪れるのだろうか?
憎らしいほどに照りつけてくる太陽に目を細め、遠い遠い先にいるかもしれない未来の旦那様を想像した。