婚約破棄されました
婚約破棄を告げられたのは、秋晴れの午前十時だった。
ベルトラン侯爵家の応接室は、白い陽光に満ちていた。セラフィーナ・ヴォーリン——通称セラ——は背筋を伸ばして椅子に座り、目の前で立っている婚約者、ルイ・ベルトランの言葉を聞いていた。
「以前から申し上げていたことですが、君には少々……教養というものが欠けている」
ルイは絵になる顔立ちをしていた。高い鼻梁、薄い唇、整った眉。貴族の息子として申し分のない容姿だ。ただ、その口から出る言葉は、いつも少し冷たかった。
「先日の夜会でも、ヴィレン公爵夫人とお話しになっていましたね。あのとき君が言ったことを、覚えていますか」
「……はい。文学のことをお話しして——」
「間違いを言ったんですよ」
ルイは淡々と言った。糾弾するでもなく、怒るでもなく、ただ事実として述べるように。
「ヴェルタン詩集の作者をお間違えになった。公爵夫人はとても困っておられた。私も大変恥ずかしい思いをしました」
セラは唇を噛んだ。そんなことがあったのか。確かに、あの夜会で会話が途切れた瞬間があった。公爵夫人が微妙な顔をしていたのは、そのせいだったのか。
「ほかにも、音楽の造詣、政治経済の基礎知識、礼儀作法の細部……いちいち申し上げませんが、正直に言えば、私の妻として社交界に立っていただくには、いささか不安があります」
「……それは」
「婚約を解消したいのです」
ルイはきっぱりと言った。
セラは一瞬、何を言われたかわからなかった。窓の外で、風が木の葉を揺らしていた。
「……君を傷つけたいわけではありません。ただ、私には私の立場がある。家の名誉がある。それを守るための判断です」
彼はそう言って、深々と頭を下げた。礼儀正しい婚約破棄だった。それがかえって、胸に刺さった。
セラは黙って立ち上がり、応接室を出た。廊下で一人になった瞬間、初めて足が震えた。
泣かなかった。泣けなかった。ただ——屈辱というより、どこか納得に似た感情が、胸の底に沈んでいった。
(そうか。私は、そんなに駄目なのか)
傷ついていないと言えば嘘になる。でも、悔しさの方が強かった。ルイへの恋情よりも。
馬車の中で、セラは拳を握りしめた。
(見返してやる)
その言葉が、静かに胸の中で火を灯した。
家庭教師探しは、思ったより難航した。
ヴォーリン伯爵家は決して貧しくはない。だが「婚約破棄された令嬢が急に家庭教師を雇う」という状況は、社交界ではすぐに噂になる。良い評判の家庭教師ほど、そういう「訳あり案件」を避けがちだ。
母はため息をついた。「セラ、あなたがそんなに学ぼうとするなら、最初からもっとちゃんと——」
「お母様」
セラは静かに遮った。
「今は前を向かせてください」
母は何も言わなかった。
紹介状を三枚断られたころ、父の知人からある名前が挙がった。
エドガー・クロウェル。
二十八歳。元は侯爵家の次男として生まれたが、家が没落し、今は家庭教師として生計を立てている。教える科目は、文学、歴史、音楽、政治経済、語学——ほぼ何でもできる。ただし、
「口が悪い」
と、紹介してくれた父の知人は申し訳なさそうに付け加えた。「非常に優秀なんですがね。ただ……思ったことをそのまま言う人間で、ご令嬢には少々きついかもしれない」
セラは一秒考えた。
「かまいません」
どうせ婚約者には「教養がない」と言われたのだ。今更、口の悪い家庭教師に何を言われたところで。
翌日、エドガーはやってきた。
セラが想像していたのは、もっと老成した人物だった。実際に現れたのは、黒い外套を無造作に羽織った、背の高い青年だった。髪は少し伸びすぎていて、目の下に薄い隈がある。ただ、目だけが異様に鋭かった。
「ヴォーリン伯爵令嬢。お噂はかねがね」
第一声がそれだった。
「……はじめまして、クロウェル先生。今日からよろしく——」
「婚約破棄されたんですって」
セラは固まった。
「理由は教養不足、と。ご愁傷様」
「……先生、その話は」
「してほしくない? でも確認しなきゃいけない。あなたが本気で学ぶ気があるかどうか」
エドガーは椅子を引いて、向かいに座った。足を組み、セラをまっすぐ見た。
「男に捨てられた腹いせで家庭教師雇って、三ヶ月で飽きてやめる。そういう令嬢を、俺は五人見てきた。あなたもそのパターンですか」
セラは自分が怒っているのを感じた。頬が熱くなる。でも——
「違います」
声は、思ったより落ち着いていた。
「私は本気で学びたい。ルイ様への意趣返しもあります。でも、それだけじゃない。私は自分が恥ずかしかった。あの夜会で、何かを間違えていたのに、何を間違えたかも分からなかった。そっちの方が、ずっと怖かった」
エドガーは少しの間、無言でセラを見ていた。
それから、初めてわずかに表情が変わった。
「……正直でけっこう。では始めましょう。最初に、あなたがどの程度の学力か把握させてもらいます」
「テストですか」
「問答です。テストより怖いですよ」
そう言って、エドガーは手帳を開いた。
それが、始まりだった。
エドガー・クロウェルは、確かに口が悪かった。
「あなた、ヴェルタン詩集を読んだことないでしょう。あるなら作者を間違えない」
「この文章の構造、理解してますか。してないですよね、目が泳いでる」
「音楽の話をするなら、せめて基本的な様式の違いくらい押さえてください。でないと会話が成立しない」
最初の一週間、セラは毎晩布団の中で歯噛みした。
でも——エドガーは嘘をつかなかった。
褒めるときは、きちんと褒めた。それも、曖昧な言葉では言わなかった。
「今の質問は良かった。問題の核心を突いている」
「この解釈は正確です。ほとんどの人はここで混乱する」
「……昨日より格段に速くなってる」
その言葉が、妙に胸に刺さった。
ルイは褒め方を知らなかった。いや、正確には——セラの何かを見ていなかった。常に「侯爵家の妻として相応しいか」という基準で判断していた。セラ自身を見ていたのではなかった。
エドガーは逆だった。辛辣だが、セラのことを見ていた。
二週間が経つころ、セラは文学の授業で、自分の解釈を述べた。ヴェルタン詩集の、ある一篇について。
「この詩の主題は、喪失だと思います。ただ、単純な悲しみではなくて——失うことで初めて気づく、所有することの意味。そこに詩人は目を向けていると」
エドガーは少し黙ってから、言った。
「面白い読み方だ」
「……先生にしては、珍しい言い方ですね」
「何が」
「面白い、って。正確とか、適切とか、そういう言葉じゃなく」
エドガーは少し眉を上げた。
「正確か否かでは判断できない種類の解釈というのがある。あなたの読みはその範疇です。俺の解釈とは違うが、否定できるものでもない。だから面白い、と言った」
「……先生はどう読むんですか、この詩」
少し間があった。
「所有することへの問いかけ、ではなく——最初から何も持っていなかった、ということへの気づき。そう読んでいる」
セラはその言葉を、しばらく考えた。
「……それは、先生自身の話ですか」
エドガーは答えなかった。ただ、次の教材を開いた。
その横顔が、なぜか目に焼きついた。
三ヶ月が過ぎた。
エドガーの授業は苛烈だったが、セラは一度も「もうやめたい」と思わなかった。それが自分でも少し不思議だった。
音楽の様式を覚えた。歴史上の人物と著作を結びつけられるようになった。政治経済の基礎的な用語を理解し、会話の中で適切に使えるようになった。文学の話をするとき、もう作者を間違えなかった。
変化は、鏡を見るよりも、他人の目に先に現れた。
母が言った。「最近のセラ、なんだか……落ち着いたわね」
父の知人が言った。「ヴォーリン家のご令嬢、少し変わりましたな。話し方が、こう……芯が通ってきた」
そして、秋の大夜会の招待状が届いた。
三ヶ月前に婚約破棄された夜会と、同じ主催者からだった。
セラは招待状を眺めた。行くべきか迷っていると、エドガーに話した。授業の合間に、なんとなく。
「行けばいい」
エドガーは即答した。
「でも、ルイ様も来ているはずで……」
「それが何か」
「……気まずいというか」
「逃げるつもりですか」
セラは少し押し黙った。
「逃げたくはない、でも……」
「あなたは三ヶ月前と違う。それを確かめる場所として、あの夜会より適切なところはない」
エドガーはそれだけ言って、また本を開いた。
(確かめる場所)
その言葉が、なぜか勇気になった。
夜会の会場に入ったとき、セラは背筋を伸ばした。三ヶ月前、ここで歩いたときと同じ空間。でも、何かが違う。自分の中が、落ち着いていた。
ヴィレン公爵夫人が近くに来たとき、セラは自分から挨拶した。
「先日の夜会でのこと、失礼いたしました。ヴェルタン詩集の作者を取り違えてしまって。あれから改めて読み直したのですが、三篇目の連詩の構成が特に好きで——」
公爵夫人は、少し目を丸くした。
それから、ゆっくりと笑った。
「まあ、あなたもヴェルタンがお好きなの。あの三篇目ね、私も大好きよ。あの繰り返しの韻律が——」
会話が、弾んだ。
三ヶ月前とは違う会話が。
遠くで、ルイがこちらを見ているのが分かった。セラは気づかないふりをして、公爵夫人との話を続けた。
夜会から帰った翌日、エドガーは普段通りにやってきた。
「どうだった」
開口一番、それだった。
「……うまくいきました」
「具体的に」
セラは公爵夫人との会話を話した。エドガーは聞きながら、手帳に何かを書いていた。
「それで、元婚約者とは」
「……帰り際に、少し話しました」
ルイに声をかけられたのは、夜会の終わり近くだった。
「セラフィーナさん。お久しぶりです。……少し、変わりましたね」
セラはルイを見上げた。三ヶ月前は、その視線が怖かった。今は、ただ——懐かしいような、遠いような気持ちだった。
「変わりましたか」
「なんというか……凛としてきた。以前は、もう少し頼りなさそうで……いや、そういう意味では——」
ルイは少し言いよどんだ。
セラは、気づいた。この人は、謝ろうとしているのかもしれない。あるいは、後悔しているのかもしれない。
でも、不思議と何も感じなかった。
「お気遣いありがとうございます、ルイ様」
セラはそう言って、会釈した。
それだけだった。
エドガーに話し終えると、少し間があった。
「それだけですか」
「はい」
「……よかった」
セラは顔を上げた。エドガーは手帳から目を上げずに言った。
「引きずらなかったということは、本当に前を向いていたということだ。口だけじゃなかった」
「……先生」
「次の課題の話をしましょう。語学の——」
「先生は」
エドガーの手が止まった。
「先生は、なぜ家庭教師をしているんですか」
少しの間、沈黙があった。
「……家が潰れたから。他にできることがなかった」
「そうじゃなくて」
セラは続けた。自分でも、なぜこんなことを聞くのか分からなかった。でも、聞かずにはいられなかった。
「先生は、教えることが好きなんじゃないですか」
エドガーは、また黙った。
「……どうしてそう思う」
「先生の言葉は、嘘をつかないから」
セラは言葉を選びながら、続けた。
「褒めるときは本当に褒めている。批判するときは本当に批判している。適当なことを言ったことが一度もない。そういう人は、言葉を大切にしている人だと思う。言葉を大切にしている人は、言葉を使うことに意味を見出している。だから——」
「……買いかぶりすぎだ」
エドガーはそう言ったが、声がわずかに変わっていた。
「でも」セラは引かなかった。「間違ってはいないでしょう」
長い沈黙の後、エドガーは言った。
「……うるさい生徒だ」
それは明らかに、肯定だった。
転機は、唐突に来た。
四ヶ月目のある日、エドガーが授業の最後に言った。
「来月で、一区切りにしようと思う」
セラの手が止まった。
「……どういう意味ですか」
「教えることができることは、ほぼ教えた。あとはあなた自身が続けるだけだ。家庭教師という形は、もう必要ない」
「でも——」
「正直に言う」
エドガーは手帳を閉じた。セラの目を見た。その目が、いつもより少し違って見えた。
「これ以上続けると、俺が困る」
「……困る?」
「あなたが気になって仕方ない。教師として、それは問題だ」
セラは一瞬、言葉を失った。
「……今、何と」
「聞こえたでしょう。繰り返したくない」
エドガーは少し視線を逸らした。耳の先が、かすかに赤かった。
「勘違いしないでほしいが、同情ではない。最初に会ったとき、婚約破棄された令嬢への同情は一切なかった。今もない」
「……はい」
「あなたが諦めなかったから。正直だったから。言葉を、きちんと使うようになったから」
セラは黙って聞いていた。
「だから、来月で終わりにしようと思っていた。でも——言わないで終わるのは、俺らしくない」
エドガーはまた、セラを見た。
「好きだ。家庭教師としてではなく」
セラは、少しの間、何も言えなかった。
胸の中がざわついていた。三ヶ月前から、何かが積み重なっていたのを、今初めて自覚した。彼の言葉の一つ一つを、なぜあんなに大切に受け取っていたのか。なぜ彼の横顔が目に残ったのか。
「……先生」
「クロウェル。エドガー・クロウェル。もう師弟関係を終わりにするなら、先生と呼ぶ必要はない」
セラは少し笑った。
こんな場面でも、この人はこういうことを言う。
「……エドガー」
初めて名前で呼んだ。
「私も、同じ気持ちでした。ずっと」
エドガーは何も言わなかった。でも、肩から力が抜けるのが見えた。
外では、秋の終わりの風が吹いていた。
落ち葉が窓を掠めて落ちていった。四ヶ月前、婚約破棄された日も、こんな秋の日だったと、セラはぼんやり思った。
でも、今日の空は、あの日よりずっと明るかった。
冬の社交界で、セラは再び注目を浴びた。
今度は違う理由で。「婚約破棄されたヴォーリン家の令嬢が、見違えるほど洗練された」と。誰もが口々に言った。
ルイは、別の令嬢と婚約したという噂を聞いた。相手は申し分のない教養の持ち主らしい。セラは「そうですか」と思っただけだった。
ヴィレン公爵夫人とは、文学の話をする友人になっていた。
エドガーは相変わらず口が悪かった。社交の場に出れば「あなたの今日の挨拶、少し早口だった」と言い、料理の話をすれば「その評価は大雑把すぎる」と言った。
でも、言葉は一つも嘘をつかなかった。
「この間の夜会でのあなたの話し方、良かった」
そう言ったとき、エドガーは前を向いたままだった。照れを隠しているのが、もう分かった。
「ありがとう」
セラが言うと、エドガーは少し咳払いをして、「当然の評価だ」と言った。
セラは笑った。
婚約破棄されたあの秋の朝、セラは泣かなかった。見返してやると思った。それは本当だった。でも——見返すことより、もっと大切なものを見つけていた。
言葉を丁寧に扱うこと。知ることを恐れないこと。そして、嘘をつかない人の言葉は、こんなにも温かいということ。
それを教えてくれたのは、口の悪い、不器用な、元家庭教師だった。




