第4章 路地の守護者
夜の11時47分。都内・下町の寂れた路地裏。
街灯の光が弱く、地面に長い影を落としていた。湿ったアスファルトの匂いと、遠くから聞こえる車の走行音だけが静寂を破っている。忍は黒いジャケットの襟を立て、壁の陰に体を沈めていた。腰のホルスターには拳銃、ポケットには伸縮警棒。左肩の古傷が、夜の冷気に触れて鈍く疼く。
「城島さん、位置は大丈夫ですか? 心拍数が少し上がっていますよ」
イヤホンから、天宮ゆりねの小さな声が届いた。官舎の部屋から、複数の監視カメラ映像と過去の事件データをリアルタイムで解析しながら指示を出している。12歳の天才課長は、今日も徹夜だ。
「ええ、大丈夫よ。ゆりねこそ、無理はしないでね」
忍は柔らかく、でもはっきりとした声で答えた。女性らしい優しい響きを込めて。ゆりねが徹夜していることを思うと、心配で胸がきゅっと締め付けられる。
次の標的は高橋遥、32歳。
20年前の連続通り魔事件で、忍と同じく巻き込まれた知人だった。当時、忍の母親の友人・高橋花店の娘。事件当日、遥は母親と一緒に商店街にいて、忍と同じくナイフの刃を間近に見た。女性警官に守られ、命を拾った生存者の一人。事件後、忍は遥を「お姉ちゃん」と呼び、時折手紙や電話で励まし合った関係だった。大人になってからも、年に数回連絡を取る間柄。遥は今、都内の広告会社で働く普通のOLだ。
ゆりねの推理で、彼女が次に狙われる可能性が極めて高いと判明した瞬間、忍は即座に「私が守るわ」と言った。上層部も、忍の過去とのつながりを考慮して、特別警護を認めた。
足音が近づいてくる。
高橋遥が、疲れた様子で路地に入ってきた。スーツのジャケットを肩にかけ、バッグを提げ、スマホの画面をぼんやり見ながら歩いている。仕事帰りの疲労が、肩にのしかかっているのがわかる。
「遥……」
忍は声を出さず、心の中で呟いた。幼い頃、一緒に花屋で遊んだ記憶。事件の後、遥が「忍ちゃん、大丈夫だった?」と泣きながら抱きしめてくれた温もり。あの恩を、今こそ返す時だ。
その瞬間――。
路地の奥、ゴミ箱の陰から黒い影が滑るように飛び出した。
男だった。黒いフードを深く被り、黒マスクで顔の下半分を隠している。右手には、10センチ以上の刃物が鈍く光っていた。
「遥っ!」
忍は叫びながら全力で飛び出した。合気道の前進歩で一瞬のうちに間合いを詰める。男のナイフが、遥の胸元に向かって振り下ろされる。
忍の身体が、遥と男の間に割り込んだ。
「警察よ! 動かないで!」
最初の斬撃を、忍は左手で受け流した。合気道の「小手返し」。相手の力を利用して腕を捻り、男の体勢を崩す。男がバランスを失い、忍は即座に右の掌底を男の顎に叩き込んだ。空手道の正拳に近い威力。男の頭が後ろにのけぞる。
しかし、男もただの模倣犯ではなかった。プロの動きで体を回転させ、ナイフを逆手に持ち替えて忍の脇腹を狙う。刃がジャケットを切り裂き、皮膚を浅く裂いた。熱い痛みが走る。
「くっ……!」
「お姉さん、左足! 相手の左足に8割体重が乗っています! そこを狙って四方投げに!」
ゆりねの指示が、電光石火で飛んでくる。天才の目が、犯人のわずかな重心移動を完璧に読み切っていた。
忍は即座に従った。低く沈み込み、男の左足首を払うように蹴り上げる。男の体が大きく傾く。その隙に、忍は男の右腕を掴み、合気道の四方投げを決めた。男の巨体が弧を描き、アスファルトに叩きつけられた。激しい衝撃音が路地に響く。
男が呻き声を上げ、ナイフが手から離れて転がった。
忍は一瞬の隙を逃さず、男の背中に馬乗りになった。両腕を後ろに極め、関節を極限まで伸ばす。痛みで男が身をよじる。
「抵抗しないで! お前は逮捕する!」
男が、苦しげに笑った。マスクの下から、くぐもった声が漏れる。
「……へへっ。さすがは城島忍……SPの武闘派が本気出すと、こうなるか……」
忍の目が鋭く細まる。男の首筋に拳を押し当て、声を低くした。
「誰なの、あなた。20年前の事件を知っているわよね? 被害者の胸に『影』を刻む理由は?」
男は地面に顔を押しつけられたまま、息を荒げながら答えた。
「俺は……ただの『影の代役』だよ。本物の犯人は、まだ生きている……」
忍の全身が凍りついた。
「何ですって?」
「20年前の『影』は……警察の人間だったんだよ。お前が守った総理も、生存者リストも……全部、内部から操られてる……くくっ」
男の声が、徐々に弱くなる。突然、口の中で何かを噛み砕く音がした。毒カプセルか。忍が慌てて男の口をこじ開けようとするが、男の身体が激しく痙攣し始めた。
「ゆりね! 救急を呼んで! 毒の可能性があるわ!」
「すでに救急と所轄に応援を要請済みです! お姉さん、無事ですか? 声が震えてます……心配です……」
ゆりねの声に、幼いながらも本気の心配が滲んでいた。忍は胸が締め付けられる思いで答えた。
「かすり傷だけよ、ゆりね。遥も無事。ありがとうね……あなたのおかげよ、本当に」
男は泡を吹きながら、最後に一言を吐き出した。
「影は……まだ消えない……お前も……生存者だ……本物は……お前を……」
意識が途切れた。男は重体で病院へ緊急搬送された。
応援の警察車両がサイレンを鳴らして到着した。高橋遥は震えながら忍に抱きついた。
「忍……ありがとう……あなたが来てくれて……本当に……」
遥の涙が、忍のジャケットを濡らした。忍はそっと背中を撫でた。
「ごめんね、遅くなっちゃって。お姉ちゃん……今度は私が守る番よ」
事件は、一応の解決を見た。
翌朝のニュースでは、「連続通り魔殺人事件の模倣犯を逮捕」と大々的に報じられた。犯人は元警察官の失踪者で、精神疾患の疑いありとされた。20年前の事件との関連は「模倣の域を出ない」と処理された。
しかし、捜査四課の部屋では、重い空気が流れていた。
ゆりねが小さな体でコーヒーを淹れ、忍に差し出した。セーラー服の袖が少し長くて、手が隠れそうになっている。
「お姉さん、怪我の手当て、ちゃんとしましたか?」
「ええ、ちゃんと済ませたわ。ゆりねこそ、徹夜続きで顔色が悪いわよ。少しお休みしてね」
ゆりねは首を横に振った。大きな瞳が、まっすぐに忍を見つめる。
「犯人の言葉……『本物の犯人はまだ生きている』。あれは、ただの妄言じゃありません。私たちの推理とも一致します。警察内部に、20年前から事件を操る『影』がいる可能性が……」
忍はコーヒーカップを握りしめた。熱い湯気が、視界をぼやけさせる。
「そうね……私もそう思うわ。総理銃撃事件とも繋がっている気がしてならないの。結局、私たちは『影』の一部を捕まえただけだもの」
部屋に沈黙が落ちた。
窓の外は、朝の陽光が差し込んでいる。新しい一日が始まるのに、二人の心には拭いきれないモヤモヤが残っていた。
ゆりねが、小さな手を忍の手に重ねた。温かい。
「でも、私たちがいます。一緒に、必ず暴きましょう。お姉さん」
忍は、ゆっくりと頷いた。胸の奥で、決意が固まる。
「ええ、そうね。ゆりねと一緒なら、どんな影も消してみせるわ」
影は、まだ完全に消えていない。
だが、天才少女と武闘派SPの凸凹コンビは、確かに一歩、前へ進んだ。
事件は「解決」した。
しかし、真の闇は、まだ深く息を潜めていた――




