第3章 影の警察官
捜査四課の部屋は、深夜の静けさに沈んでいた。
時計の針は午前0時47分。蛍光灯のひとつがチカチカと点滅し、部屋の空気をさらに重くしている。配属からちょうど一週間。被害者はすでに6人目が出ていた。
城島忍はデスクに突っ伏すようにして、20年前の事件資料を読み返していた。目が乾き、肩の古傷がズキズキと疼く。
左遷されてからというもの、睡眠時間は日に4時間程度。隣のソファでは、天宮ゆりねが小さな体を丸めてノートパソコンに向かっていた。黒いセーラー服の裾が、ソファの端から垂れている。12歳の少女が、こんな時間まで仕事をしている。忍は胸が締め付けられる思いだった。
「お姉さん……いえ、城島さん。少し休んだ方がいいですよ」
ゆりねが、静かに声をかけた。声はいつも通り大人しく、引っ込み思案だが、瞳だけは冷たい分析者のそれだった。
「課長が休まないのに、私だけ休めません」
忍は苦笑しながら答えた。ゆりねは小さく首を振る。
「私は平気です。でも、城島さんの集中力が落ちてます。20年前の事件を読みすぎです」
その言葉に、忍はハッとした。ゆりねはホワイトボードの前に立ち、赤いマーカーを握り直した。
「そろそろ、結論を出しましょう」
ゆりねの指が、ボードに貼られた資料を次々と指す。
「20年前の連続通り魔事件。犯人は8人を襲い、全員女性。手口は完全に一致。ですが、決定的な違いがあります」
ゆりねは、黒板に新しい線を引いた。
「まず、犯行現場の選定精度。20年前も今回も、被害者は必ず『パトロール空白地帯』で襲われています。当時の警察無線やシフト表にしか載っていない情報です。一般市民が知り得ない。しかも、被害者が『助けられた経験を持つ生存者』であること。これも、当時の捜査資料にしか残っていない機密事項です。生存者リストは、内部限定で管理されていました」
忍の息が止まった。
「次に、証拠隠滅のプロフェッショナルさ。犯行後、指紋・足跡・監視カメラの死角を完璧に避けています。20年前も今回も、現場に残されたのは『影』の文字だけ。まるで、犯罪捜査の教科書を読んでいるかのよう」
ゆりねの声は淡々としているが、部屋の空気が張りつめた。
「そして、最大のポイント。20年前の事件で、唯一の目撃証言があります。『犯人は警察官の制服を着ていた可能性がある』という、被害者の一人の証言。でも、当時の上層部はこの証言を握りつぶし、捜査記録から削除しています。この事実を知っているのは、当時の捜査関係者だけです」
ゆりねが、忍をまっすぐに見つめた。
「つまり、20年前の犯人は……警察関係者だった可能性が極めて高いんです。現役か、元か。少なくとも、内部情報にアクセスできる立場にあった人物」
忍の視界が、一瞬白くなった。
(警察……?)
頭の中で、あの日の記憶が爆発的に蘇った。
8歳の夏。商店街の路地裏。母親と手をつないで歩いていた。突然、後ろから男が現れ、ナイフを振り上げた。母親の悲鳴。血の匂い。自分にナイフが迫る瞬間――若い女性警官が飛び込んできた。
「逃げて!」
警官は忍を突き飛ばし、自分の背中で受け止めた。刃が背中に深く刺さる音。警官の制服が赤く染まる。血が、忍の頰に飛び散った。
「大丈夫よ……私が、守るから……怖くないわよ……」
その笑顔。汗と血にまみれた、それでも優しい笑顔。警官は男を羽交い締めにし、応援を呼んだ。男は逃げた。警官は重傷を負い、背中に後遺症が残ったと聞いた。
あの女性警官は、名前を「佐藤美香」と言った。忍は後日、お見舞いに行った。佐藤警官はベッドで微笑みながら言った。
「君が無事でよかった。私、警察官になってよかった」
それが、忍の原点だった。
なのに――その警察官が守った生存者たちが、今、狙われている。そして、犯人が警察関係者?
忍の拳が、震えた。資料を握る指に力がこもる。
「課長……それが本当なら、私は……」
ゆりねが、小さな手を忍の腕にそっと置いた。
「城島さん。あなたも、20年前の生存者リストに載っています。『城島忍、8歳、当時被害者家族』と」
忍は、血の気が引くのを感じた。
(私も……狙われる?)
ゆりねの瞳が、わずかに曇る。
「模倣犯は、20年前の犯人の『意思』を継いでいる可能性があります。あるいは、20年前の犯人本人が、まだ生きていて、再開したか。どちらにせよ、城島さんは危険です。次は、あなたを狙う可能性が……」
その瞬間、部屋の外の廊下で、かすかな足音が聞こえた。忍の耳が、SPの訓練で即座に反応する。足音はすぐに消えたが、忍は立ち上がった。
「課長、ここにいてください」
忍は拳銃を腰に確認し、部屋を出た。廊下は暗く、誰もいない。だが、床に一枚の紙が落ちていた。
白い便箋。印刷された文字。
『影は、まだ生きている。
次は、君の番だ。
――あの日の「守護者」より』
忍の背筋が凍った。
「守護者」――あの女性警官、佐藤美香が、自分をそう呼んでいた言葉だ。事件後、忍が手紙を書いたとき、佐藤警官は返事で「私は君の守護者だよ」と書いてくれた。あの言葉を知っているのは、忍と佐藤警官だけのはず。
犯人は、忍の過去を、細部まで知っている。
部屋に戻った忍は、ゆりねに紙を見せた。ゆりねの小さな顔が、わずかに青ざめる。
「城島さん……これは、明確な挑戦状です」
忍は、深く息を吐いた。理性と感情が、激しくぶつかり合う。
「課長。私は……個人的に、この事件に深入りします。20年前の生存者全員に連絡を取って、警護の手配を。自分の過去も、全部洗い出します」
ゆりねが、静かに頷いた。
「わかりました。でも、絶対に一人では動かないでください。私がいるんですから」
忍は、ゆりねの小さな頭を、そっと撫でた。普段なら理性で抑えるところだが、今はそれができなかった。
「ありがとう、課長……ゆりね」
その夜、忍は眠れなかった。官舎のベッドで、天井を見つめ続ける。隣の部屋からは、ゆりねの小さな寝息が聞こえてくる。
窓の外、官舎の敷地に、黒い影が一瞬見えた気がした。忍はカーテンを閉め、拳銃を枕元に置いた。
影は、確かに忍を狙っていた。
そして、その影は、警察の制服を着ているのかもしれない。




