第2章:影の刻印
朝の光が、カーテンの隙間から柔らかく差し込んでいた。
城島忍は、キッチンでトーストを焼きながら、時計を見た。午前7時15分。捜査四課への配属から、二日目の朝だ。
昨日は初対面の衝撃と同居の始まりで、頭が一杯だった。天才少女課長との生活――天宮ゆりねとの、予想外の日常。夜、ゆりねが早々に寝室に引き上げた後、忍は一人で天井を見つめていた。小さな寝息が壁越しに聞こえてきて、妙に落ち着かなかった。
(課長は、まだ子どもだ。ちゃんと守らないと)
そう自分に言い聞かせ、ようやく眠りについた。
今朝は、忍が早起きして朝食の準備だ。トーストに目玉焼き、味噌汁、サラダ。ゆりねの好みを考えて、昨日スーパーで買ったフルーツも添える。
寝室のドアが、静かに開いた。
「おはようございます、お姉さん」
ゆりねが、眠そうに目をこすりながら現れた。黒いセーラー服ではなく、シンプルな白いパジャマ姿。髪が少し乱れ、頰に寝跡がついている。いつもよりさらに幼く見える。
「おはよう、ゆりね。よく眠れた?」
ゆりねが、こくりと頷く。
「はい。お姉さんの作ったお布団、ふかふかで……ありがとうございます」
その無垢な笑顔に、忍の胸が少し温かくなる。昨日と同じように、心臓がドキリとするのを、理性で抑える。
二人はテーブルに向かい合い、朝食を摂り始めた。ゆりねは、味噌汁を一口飲んで、目を輝かせる。
「これ、日本のお味噌汁ですよね? 美味しい……イギリスでは、こんなのなかったです」
「よかった。毎日作るよ。課長の体力が、事件解決の鍵だからね」
ゆりねが、頰を赤らめて箸を止めた。
「課長じゃなくて……ゆりね、でいいですよ。今は、家ですし」
忍は苦笑した。仕事とプライベートの境が、曖昧になりそうだ。
食事が一段落した頃、ゆりねがバッグからファイルを取り出した。厚い資料の束。表紙には、「緊急捜査資料」と赤いスタンプ。
「実は、今日から本格的に動き出す事件があります。お姉さんにも、見てもらいたいんです」
忍の表情が、引き締まる。昨日、ゆりねが少し触れた事件だ。10年前の連続密室殺人……ではなく、別のものか?
「どんな事件?」
ゆりねは、ファイルを広げた。写真が何枚か挟まっている。忍の目が、瞬時にそれらを捉える。
犯罪現場の写真。路地裏に倒れた女性の遺体。胸元が血まみれで、何か文字が刻まれている。
「ここ一ヶ月の間、都内で連続通り魔殺人事件が発生しています。被害者はすべて女性。犯行現場は、人通りの少ない路地裏。手口はナイフによる刺傷で、致命傷の後に、被害者の胸元に『影』の文字を刻むんです」
ゆりねの声は、落ち着いている。12歳とは思えない、淡々とした説明。だが、瞳には鋭い光が宿っていた。
忍の手が、箸を置くのを止めた。
『影』。
その文字を見た瞬間、胸の奥がざわついた。20年前の記憶が、フラッシュバックする。
――あの事件。
幼い自分が、商店街で通り魔に襲われた日。男がナイフを振り回し、母親を切りつけた。自分が次に狙われた瞬間、若い女性警官が盾になってくれた。警官の背中に、ナイフが突き刺さる。血が飛び散り、被害者たちの胸元に、『影』という文字が刻まれていた。あの事件は、連続通り魔殺人。犯人は逮捕されず、迷宮入りした。
忍の過去のトラウマ。警察官になった原点。
ゆりねが、続ける。
「この事件……20年前に実際に起きた『連続通り魔殺人事件』の、完全な模倣なんです。20年前の事件は、犯人が逮捕されず迷宮入り。被害者も女性ばかりで、現場は路地裏。胸元に『影』の文字を刻む手口が、まったく同じ」
忍の喉が、乾いた。
模倣犯――コピーキャット。
警察内部では、そう呼ばれているらしい。通常の捜査班では手がつけられない複雑さから、捜査四課に回された。新設部署の、初の本格事件だ。
「被害者は、すでに4人。すべて一ヶ月以内の発生。警視庁はパニックを抑えるために、情報統制を敷いていますが……これ以上、被害が出たら、まずいです」
ゆりねが、被害者のリストを指差した。名前、年齢、職業。そして、共通点のメモ。
「被害者の共通点があります。すべて、20年前の通り魔事件で『助けられた経験を持つ女性』なんです。直接被害に遭ったが、命拾いした生存者たち。警察や通行人に守られて、殺されずに済んだ人たち」
忍の視界が、揺れた。
生存者。
自分も、その一人だ。
あの時、女性警官が守ってくれた。自分は無傷で済んだが、他の被害者たちは……。
模倣犯は、20年前の事件の「生存者」を狙っている可能性が高い。
(なぜ……? 私も、狙われるのか?)
トラウマが、胸を締め付ける。あの日の血の匂い、悲鳴、ナイフの閃光。女性警官の笑顔。「大丈夫よ、私が守るから」。
ゆりねが、忍の異変に気づいたようだ。小さな手が、テーブルの上で忍の手をそっと握る。
「お姉さん? 顔色が悪いです……どうかしましたか?」
忍は、慌てて首を振った。
「い、いえ。なんでもない。続きを」
ゆりねは、少し心配そうに瞬きをしたが、説明を続けた。
「20年前の事件は、犯人の動機も不明。突然現れて、女性を無差別に襲い、『影』の文字を刻んで消える。模倣犯の出現で、過去の未解決事件が再び浮上しています。通常の捜査では、20年前の資料と照合するだけで手一杯。心理プロファイリングも、模倣の意図が読めなくて……だから、私たちの課に」
ゆりねの瞳が、鋭く輝く。
「これは、ただの模倣じゃないかも。20年前の犯人が、まだ生きていて、再開したか……または、生存者たちに何かメッセージがあるか」
忍は、深く息を吸った。
自分の過去と、直結する事件。
守れなかった総理の悔恨に続き、今度は自分のトラウマ。
だが、目を逸らせない。
「了解しました。課長。私が、現場を洗い直します。生存者リストの警護も、必要なら」
ゆりねが、こくりと頷いた。
「ありがとう、お姉さん。一緒に、解決しましょう」
朝食のテーブルで、事件の概要が明らかになった。
影の刻印が、再び都内を這い始めた。
忍は、心の中で誓った。
(今度は、守る。絶対に)
ゆりねの小さな手が、まだ握られたままだった。
二日目の朝、異色のコンビの捜査が、静かに始まる。




