第1章 黒いセーラー服の課長
城島忍は、捜査四課の扉を押し開けた。
重い金属製の扉が、ぎいっと鈍い音を立てて開く。
部屋の中は、予想以上に薄暗かった。蛍光灯の一つがちらつき、埃の舞う空気が鼻を突く。古い机がいくつか並び、書類の山が積まれているが、人の気配はほとんどない。壁際の棚には、埃をかぶったファイルが無造作に詰め込まれている。新設された部署とはいえ、まるで倉庫のような雰囲気だ。
視線を奥に移すと、課長席と思われる大きな机の前に、一人の少女が座っていた。
歳のころは12歳程度だろうか。身長は150cmにも届かない小さな体躯。黒いセーラー服に白いハイソックスという、どこか古風な学生のような服装。
艶やかな黒髪を肩まで伸ばし、俯き加減に何かを読んでいる。気の弱そうな、儚げな表情。大きな瞳は伏せられ、細い指で本のページをめくる仕草が、まるで人形のようだ。
(……子ども?)
忍は一瞬、息を飲んだ。
一般人の子供が迷い込んだのかと思った。警察庁の建物内とはいえ、こんな地下のような階層に、どうして? 警備が甘いのか、それとも誰かの連れ子か。いずれにせよ、こんな場所に一人でいるのは危ない。
優しく声をかけようと、忍は一歩踏み出した。
「すみません、ここは警察の――」
言葉を続けるより早く、少女が顔を上げた。
澄んだ、深い黒の瞳が、まっすぐに忍を捉える。表情は変わらない。
大人しく、引っ込み思案そうで、どこか遠慮がちな微笑みさえ浮かべている。それなのに、その視線には不思議な鋭さがあった。
「城島忍さんですね。準キャリアでの採用で最短ペースで警部補。合気道と空手道の各種五段、拳銃射撃の上級資格をお持ちで、女性ながら最短で総理大臣のSPに抜擢されたエリート。幼い頃の通り魔事件がきっかけで警察官を志した……と、プロフィールにありました」
忍の言葉が、喉の奥で凍りついた。
(……どうして、私のことを?)
名前、階級、経歴、そしてあの個人的な過去まで。すべてを、淡々と、正確に言い当てられた。忍は困惑のあまり、足を止めた。身体が固くなる。SPとして、数々の危機を乗り越えてきた冷静さが、一瞬で揺らぐ。
少女は小さな体を椅子から滑り降ろし、ゆっくりと立ち上がった。机の前に回り込み、忍に向き直る。身長差が歴然で、忍の胸元あたりまでしか届かない。それなのに、少女の存在感は不思議と部屋を満たしていた。
「初めまして。私は天宮ゆりねと申します。この捜査四課の課長を務めさせていただきます。以後、お見知りおきを」
少女――ゆりねは、丁寧に頭を下げた。声は小さく、辿々しい。言葉を選ぶように、ゆっくりと発せられる。それが、ますます幼さを強調する。
忍は、言葉を失っていた。
課長?
この子が?
衝撃が、頭の中を駆け巡る。一回りは年下――いや、もっと離れているであろう少女が、上司? 自分は警部補なのに、この子は……おそらく階級が上? そんな馬鹿な。警察組織で、こんなことがあり得るのか。
忍は固まったまま、ゆりねを見つめていた。表情から困惑が読み取れたのか、ゆりねは少し困ったように目を伏せた。細い指を胸元で組み、ためらいがちに口を開く。
「あの……城島さんが、驚かれているのはわかります。私も、最初は戸惑いました。でも、説明させていただいてもよろしいでしょうか?」
忍は、ようやく頷いた。声が出ない。ゆりねは小さく息を吸い、第一印象通りの大人しい口調で、自身の生い立ちを話し始めた。
「私は、れっきとした日本人です。両親は日本人で、東京生まれです。でも、4歳のころに……両親を亡くしてしまいまして。それから、父方の祖父母がイギリスに住んでいたので、そちらに移住しました。5歳のころですね」
ゆりねの声に、一瞬、影が差した。瞳が遠くを見る。でも、すぐに平静を取り戻す。
「イギリスの学校に通い始めたのですが、英語はあっという間に覚えてしまいました。現地の生徒さんの学力を追い越してしまい、先生方に勧められて飛び級を繰り返しました。小学課程をすっ飛ばし、中学、高校も短期間で終え、難関のオックスブリッジ――オックスフォード大学に入学しました。専攻は犯罪学です」
忍の目が、徐々に丸くなっていく。
オックスフォード? あの世界的名門大学を?
「大学では、犯罪心理学や捜査手法、統計学などを学びました。論文もいくつか発表して、11歳で卒業しました。卒業後は、イギリスで犯罪学の研究を続けていたんです。学術書も何冊か出して……でも、この度、日本の警察庁からスカウトを受けました」
ゆりねは、少し頰を赤らめた。照れくさそうに、小さなつま先を床に擦る。
「迷宮入り目前の難事件を専門に扱う、新設の捜査四課を作るので、課長をやってほしいと。迷うことなくお受けしました。だって、大好きな両親の生まれ育った国に戻れるんですから。嬉しかったです」
そして、ゆりねはまっすぐに忍を見上げた。
「階級は警部です。課長という役職も与えられ、捜査に関しては警察本部長クラスの権限があります。城島さんには、私の補助と……必要に応じて、警護をお願いしたいそうです」
忍は、ようやく息を吐いた。
驚きはまだ残っていたが、納得できる部分もあった。この子の頭脳が、どれほど天才的か。12歳で大学卒業、犯罪学の専門家。警察庁がスカウトするのも、わかる気がする。組織としては、異例の抜擢だろうが、成果さえ出せば問題ないのかもしれない。
「……わかりました。課長」
忍は、敬礼した。声は少し震えていたが、SPとしての礼儀は崩さない。
ゆりねが、慌てて首を振る。
「あ、いえ! そんな堅苦しくしなくても……。私、年下ですし、経験もありませんから。城島さんに、たくさん教えていただきたいんです」
その言葉に、忍の胸が少し温かくなった。この子は、天才ではあるが、年相応の部分もあるようだ。引っ込み思案で、遠慮がちで。
互いに挨拶を済ませ、二人は机を挟んで座った。仕事内容について、簡単に話し合う。
「城島さんの役割は、私の補助全般です。現場捜査、証拠集め、関係者への聞き込み……そして、私に危険が迫った場合の警護。捜査四課は、私たち二人だけからスタートらしいですけど、他のメンバーも順次配属されるそうです」
ゆりねは、机の上に置かれたファイルを指差した。そこには、すでにいくつかの事件資料が積まれている。
「早速、事件が待っています。10年前の連続密室殺人事件の再燃らしいですけど……詳しくは明日から」
忍は頷いた。頭がようやく整理されていく。
「了解しました。課長の指示に従います」
ゆりねが、ほっとしたように微笑んだ。年相応の、無垢な笑顔。忍の心が、わずかにドキリとする。小さくて、可憐で……いや、駄目だ。理性だ。相手は子どもで、上司だ。
この日は、これで終わりとなった。ゆりねは「日本の空気にまだ慣れなくて、少し疲れました」と言い、早めに帰宅を希望した。忍は、当然のように送る役目を引き受け、警察庁の建物を出た。
外は夕暮れ時。東京の空が、オレンジに染まっている。
(これから、どうなるんだろう)
忍は、隣を歩く小さな課長を見下ろした。ゆりねは、小柄な身体で懸命に忍のペースに合わせている。
異色のコンビの、物語が始まろうとしていた。




