プロローグ あの日の銃声
城島忍は、捜査四課と書かれた扉の前に立っていた。
古びた警察庁の建物、地下に近い階層の廊下は、埃と湿気が混じった空気が淀んでいた。蛍光灯の光は薄く、黄ばんだ壁を照らすだけで、足音一つ響かない静けさが広がっている。誰も使っていないような部屋――左遷先だということは、1ヶ月前に人事部長から淡々と告げられたときから分かっていた。
忍は深く息を吸い、拳を軽く握りしめた。左肩の古傷が、かすかに疼く。手術痕はもう薄れているはずなのに、気候の変わり目や、こうして緊張したときには、鈍い痛みが蘇る。あの日の銃弾が、身体に刻んだ記憶だ。
すべての始まりとなる事件を、忍は思い返さずにはいられなかった。
あれは三ヶ月前。梅雨明け間近の蒸し暑い日だった。日本初の女性総理大臣、佐伯美咲の公務。場所は都内の大規模イベント会場――屋外ステージを備えたコンベンションセンター。佐伯総理は、平議員の頃から「改革の象徴」と呼ばれ、当選後も高い支持率を誇っていた。女性初の総理として、国内外から注目を集め、演説のたびにメディアが殺到する人物だった。
忍はその日、総理のすぐ背後に立っていた。SPとして、女性ながらほぼ最短で抜擢されたエリートコース。身長173cmの長身と、合気道や空手道の五段、拳銃射撃の上級資格――それらが評価された結果だ。総理の影として、常に二メートル以内の距離を保つ。それが、忍のポジションだった。どんな状況でも、総理の身体を自分の盾にできる位置。
会場は満員だった。数千人の観客がステージを囲み、拍手と歓声が波のように押し寄せる。佐伯総理は、黒いパンツスーツに身を包み、マイクを握っていた。凛とした表情、力強い声。年齢は50代半ばとは思えないほど、若々しく輝いていた。
「――私たちは、過去のしがらみを断ち切り、新しい日本を築かなければなりません。教育の改革、経済の再生、そして何より、国民一人ひとりが安心して暮らせる社会を――」
演説は順調だった。観客の拍手が鳴り止まない。総理の声はマイクを通し、会場全体に響き渡る。忍は周囲を警戒しながら、総理の背中を見つめていた。汗が少し額に浮かぶ。暑さのせいか、それとも緊張か。
その瞬間だった。
最初は、視界の片隅で小さな光が閃いた。花火のような、短い閃光。だが、乾いた破裂音が続いたとき、忍の身体はすでに本能的に動いていた。
やや遅れて聞こえる銃声。
乾いた、鋭い爆音。遠くの観客席の上段から。スナイパーライフル――忍の訓練された耳が、瞬時に判別した。音の方向は、ステージに向かって右上。距離はおよそ300メートル。風は微風。犯人はプロだ。
総理の背中が、無防備に晒されている。
「総理っ!」
忍は叫びながら飛び出した。二メートルの距離を、一歩で詰める。総理の身体を横抱きにするように押し倒す。地面に叩きつける形で覆い被さった瞬間、最初の弾が忍の左肩を貫いた。
熱い。
焼けるような痛みが、肩から腕全体に走る。肉が裂け、骨が砕ける感覚。血の匂いが、鼻を突いた。だが、止まれない。SPの訓練が、痛みを無視させる。アドレナリンが、身体を駆り立てる。
二発目。
忍の背中を掠め、総理の右脚に命中した。総理の悲鳴が、すぐ耳元で響く。
「――っ! あぁっ!」
総理の声は、普段の凛々しさとはかけ離れていた。痛みと恐怖が混じった、女性らしい悲鳴。忍の胸が、締め付けられるように痛んだ。
三発目。
忍は総理を完全に自分の身体で覆い、地面を転がるように移動した。ステージの端、遮蔽物のある方向へ。同時にもう一発が飛んでくる。右肩の背中側を抉り、さらに中央に銃弾が命中。激痛が背骨を伝い、視界が一瞬白く染まる。血が噴き出し、忍の制服を赤く染めた。息が詰まる。肺に達していないか? いや、まだ動ける。
その隙に、周囲のSPたちがようやく動き始めた。他の護衛官たちが銃を抜き、犯人の方向へ向かう。観客の悲鳴が会場を埋め尽くす。パニック。逃げ惑う人波が、ステージを押し寄せる波のように崩れていく。子供の泣き声、女性の叫び、男たちの怒号――すべてが混じり合い、カオスを生む。
忍は総理を抱えたまま、ステージ裏の控室へと移動した。血が流れている。自分の肩から、背中から、そして総理の脚から。足元がふらつく。出血量が多い。視界の端が、ぼやけ始める。
控室に辿り着き、扉を閉め、鍵をかける。外では警官たちが犯人を確保する声が聞こえていた。「動くな! 銃を捨てろ!」という叫び。サイレンが遠くから近づいてくる。
忍は総理をソファに横たえ、自分の上着を脱いで総理の脚に巻いた。止血。圧迫。強く押さえる。総理の脚は、骨が砕けたように腫れ上がり、血が止まらない。
「総理、しっかりしてください! 痛みに耐えて!」
総理の顔は真っ青だった。唇を噛み締め、汗が額を伝う。普段は凛とした表情の女性が、今はただの傷ついた人間のように見えた。
「……城島……君も、怪我を……ひどいわ……」
総理の声は弱々しかった。忍の肩と背中から、血が滴り落ちているのが見えたのだろう。
「私は大丈夫です! すぐに救急車が来ます。もう少し、耐えてください!」
忍は自分の傷を無視し、総理の脚をさらに強く押さえた。自分の血が、総理の服に混じっていく。鉄の匂いが、部屋に充満する。
視界が、少しずつぼやけていく。酸素が足りない。出血性ショックか。
「……すみません」
忍は呟いた。声が震える。
「守れなくて……すみません……総理を、こんな怪我にさせて……」
総理が、弱々しく笑った。痛みに歪んだ顔で、それでも優しく。
「馬鹿ね……あなたが、いてくれたから……私は、死ななかった……ありがとう、城島……」
その言葉が、忍の胸に突き刺さった。熱いものが、喉元まで込み上げる。
幼い頃の記憶が、重なる。
あのときも、こうだった。
忍が8歳の頃。地元の商店街で起きた通り魔事件。突然、男がナイフを振り回し、人々を切りつけた。忍の母親と一緒に買い物中だった。男が忍に襲いかかってきた瞬間、若い女性警官が飛び出してきた。
「逃げて!」
警官は忍を突き飛ばし、自分の身体で盾になった。背中にナイフを受け、重傷を負った。血まみれになりながら、警官は男を制圧した。
そして、忍に言った。
「大丈夫よ……私が、守るから……怖くないわよ……」
その女性警官の笑顔が、忍の心に焼きついた。警官は入院し、後遺症が残ったと聞いた。それでも、忍は憧れた。警察官という仕事に。誰かを守れる存在に。
だからこそ、忍は警察官になった。エリートコースを歩み、SPに抜擢された。誰かを守るために。
なのに――。
守れなかった。
総理に、こんな大怪我を負わせてしまった。命は助かったが、脚の複雑骨折は長期の治療を要する。政権運営にも影響が出る。すべて、自分の責任だ。
もっと早く気づけていれば。閃光を捉えていれば。もっと完璧に、盾になれていれば。
救急隊が到着したとき、忍はすでに意識が薄れていた。控室の扉が開かれ、白い服の隊員たちが駆け込む。総理と共にストレッチャーに乗せられ、サイレンを鳴らして病院へ運ばれた。道中、忍は朦朧としながら、救急車に乗せられる最後の瞬間まで総理の手を握っていた。
手術室の前で、意識を取り戻したとき、隣のベッドに総理がいた。総理の脚はギプスで固定され、点滴が繋がれている。忍の肩と背中は、手術痕が残る。弾は摘出されたが、筋肉の損傷が激しく、リハビが必要だった。
総理に、こんな大怪我を負わせてしまった。命は助かったが、脚の複雑骨折は長期の治療を要する。政権運営にも影響が出る。すべて、自分の責任だ。
上司――警護課長がやってきて、ベッドサイドで告げた。
「総理は命に別状はない。だが……君の怪我のこともあり、配置換えが決まった。新設の捜査四課だ。難事件専門の部署らしい」
責任を取れ、ということだった。
SPとして、総理に怪我を負わせた。それが、どんなに理不尽でも――犯人がプロのスナイパーだったとしても、忍の反応が少しでも遅れていたとしても。
忍は黙って頷いた。
反論なんて、できなかった。
あのときの悔恨が、今も胸を押し潰す。
総理を守りきれなかった。
だからこそ、この左遷を受け入れるしかない。
忍は、捜査四課の扉に手をかけた。
重い扉が、ゆっくりと開く。
中には、何が待っているのか――。




