【証拠はいらない】退職の電話は代わりにできても
「会社に、辞めるって電話してください」
そう言って、依頼人はスマホを差し出した。
二十代後半。スーツはくたびれているが、身なりはきちんとしている。
「退職代行?」
俺は眉を上げる。
「うちは探偵事務所だ。電話番じゃない」
「……それでもいいです」
彼女は視線を落としたまま言った。
「もう、自分の声で言うのが無理で」
――ああ、これは来てるな。
電話は、拍子抜けするほどあっさり終わった。
「はい。本人に代わってお伝えします。
本日付で退職の意思があるとのことです」
向こうは事務的だった。
引き止めも、怒声もない。
「分かりました。書類は後日郵送します」
それで終わり。
通話を切って、俺はスマホを返した。
「会社との関係は、終わった」
彼女は頷いたが、表情は晴れない。
「……本当に、終わったんでしょうか」
「終わったのは“会社”だ」
俺は椅子にもたれる。
「でも、自分との関係は、まだだな」
彼女が顔を上げる。
「どういう……」
「辞めた理由、説明できるか?」
彼女は口を開き、閉じた。
「……無理でした」
正直だ。
「それでいい」
俺は言った。
「今日はな。
壊れないために逃げるのは、悪くない」
彼女は、ほっとしたように息を吐いた。
「……両親にも、説明してもらえますか」
俺は首を振る。
「それはやらない」
「どうして……」
「それをやったら、
あんたの人生を俺が代行することになる」
彼女は、しばらく黙っていた。
「……いつか、自分で言えるようになります」
「それで十分だ」
俺は立ち上がる。
「辞めるより、
そっちの方がずっと難しいからな」
「相変わらず、面倒な仕事しかしないわね」
相棒が腕を組む。
「簡単な仕事は、
人を軽くする」
「カッコつけすぎ」
肩をすくめる音が聞こえた。
退職の電話は代わりにできる。
でも、決断の重さまでは代行できない。
それでも。
今日、あの声で電話しなくて済んだことが、
彼女を一日、生かした。
それでいい。




