隠れた恥と恋慕と天ぷら
「与助、最近、付き合い悪いんだよな」
「ああ、ややこが生まれるらしいぞ、最近ソワソワしてるらしい」
「おおー、いよいよか」
左官の五助は、土で汚れた手を洗いながら、手ぬぐいで手を拭った。
時は、暮れ六つの頃で、日が落ちかけている。ふんわりとした紅の花のような橙色と、青が混ざり込んだ空だった。
「今日は天ぷら食いてぇなぁ」
「そこの辻に出てたぞ、行くか」
左官仲間の平次が言うので、二人は土埃が吹く道を
さっさとした足取りで歩き始めた。
弥生の頃で、桜は満開に咲いたという話も聞いた。
今年は左官の土壁を作る仕事が忙しすぎて、ゆっくり眺められることも
あるだろうか。白い小さな花々が一気にあれだけ咲くだけで
どうして、あそこまで人を惹きつけるのだろう。
昼間は汗をかくのに日暮れの間近では、足元には冷えが忍び始めていた。
天ぷらの屋台に近づくと、油の匂いがぷんと鼻をくすぐった。
ごま油の匂いは、腹の欲を掻き立てる。だが腹がいっぱいすぎるのも
困ってしまうのだ……動けなくなるのがみっともないので……
顔を隠した武士が、天ぷら屋の親父に声をかけようとした直前にすれちがった。
「恥をしてでも、食べたくなる味ってかぁ、親父、今日のネタは何だい」
ヘヘッと五助は笑った。
単独で江戸に来ている職人勢を中心に屋台は人気だ。
普段暮らしている長屋では炊事場が限られてて、人数分を賄えない。
そのため平次や五助のような職人は、こうして仕事上がりに屋台でぱっと寄るのだ。だが、この天ぷらの屋台に引き寄せられるのは自分たちのような職人ばかりではない。
お腹を空かせた武士だっている。
だが食べ歩きをするのは、メンツにこだわる武士にとっては恥となるらしく、顔を手ぬぐいで隠すことも多いのだ。
「身分が高いってのも大変だよなぁ……恥ずかしいことが世間にバレたら、外に出られなくなる」
ちょうどネタ切れだったらしく、揚げの作業にはいると屋台の親父が言ったので、近くで待つことになった。
武士のことを引き合いに出して、五助が少し鼻にかかった感じで笑う。その分いい暮らしをしているんだろうから、当然という気持ちと、やっかみの気持ちがあった。
「そうだなぁ、それとは少し違うかもしれないが、この間、バカみてぇな話を聞いて、笑っちまったんだよなぁ」
「なんだよ、それは」
五助の言葉に平次はにやりと笑った。
「また回ったんだよ、根岸のお奉行の知恵が」
根岸のお奉行は江戸で長く南町奉行を担当する方だ。
どうもかなり出自がヘンチクリンな方であるが、信じられないほど
優秀で、出世街道を走り抜けた方らしい。しかしとにかく
親しみやすい。ただの偉ぶってる連中とはちがうとお
もっぱらの評判だった。年も六十を超えているが、
さまざまな経験や知識をもとに、名裁決をするとか……。
正直歴代の奉行の中でも、江戸の人たちに好かれている人だった。
地方から来た五助の中では、とにかく話題につきない人だという印象がある。
「茶漬け飯五十両を、寺の住職に払えと言った茶屋があったらしい」
「えっ」
あまりに高額な、しかも茶漬け飯で求める料金ではない話に
五助はぎょっとして目を丸くした。茶屋はぼったくりでもしているんだろうかとなった。
平次は五助の態度に、うんうんと満足そうに頷いた。
仏像の笑みより、幸せそうであり、嬉しそうだ。
「おかしいよなぁ、北町奉行所にこの話は先に出てたらしく、そんなことがあるのかと、根岸様に話したらしい」
「で、なんて返したんだよ、根岸様が」
話は気になるが、子供のように聞くのも恥ずかしくて、よそよそしいまでに目線をあっちこっちに五助は向けた。
しかし自分の気持ちは平次に伝わっているのか、ますます大黒様のような顔で。
「根岸様は、その訴えで茶屋はどこにあるかと聞いて、湯島天神前と聞くと、ふっと笑ってこう言ったらしい。
子供踊りを見すぎたんでしょう、それを住職にそれとなく言ってごらんなさいと」
「子供踊りぃ? なんだそりゃ」
「北町奉行所も意味がわからなかったようだが、住職に言うと、顔を真っ赤にして、すぐに五十両払ったらしい」
「なんで……」
「そりゃーお前も言ってただろう。自分の恥を世間にバレたら外に出られなくなるって」
がははと笑う平次に、五助は余計に理由がわからなくなる。
確かにその言葉を言ったが、何故平次の言葉が五助の話につながるのだ。何故か、平次の手のひらの上でくるくるコマのように舞っている自分の姿が頭に浮かぶ。踊らされているのか、自分は。
平次は、ぱんっと膝をうつ。よほど自分が百面相になっているのか、なだめるように、こう言った。
「湯島天神前の茶屋は、男の相手をする男の店があるんだよ。
それのことを子供踊りというらしい。つまり住職は人に言えない遊びをしすぎて、五十両までいったことよ」
天ぷらやで立食いするだけで、顔を見せられないほどの身分がある。
仮にも権威をもつことの多い、寺の住職が肉欲に溺れているとしたら……。
「そりゃ、さっさと五十両だなぁ」
五助はしみじみ呟いた。
それに平次も頷く。
「遊びの範囲で、恥ずかしいことはしようなぁ」
「たしかに……お天道様には顔見せられる程度な生き方で」
天ぷらがあがった旨が親父から告げられた。
衣が熱い天ぷらなので、野菜でも魚でも満足できるが
ごぼうと魚にした。くしに刺さっているのと、たっぷり大根おろしの
はいったタレにつけると、熱々でもすぐにたべられた。
「お前さんさぁ、帰ろうと思う? 国に」
自分と同じように天ぷらを頬張っている平次に、五助は
うーんと唸った。
「もう少し金をためたらかなぁ……南の方で火事あったらしいし、そこでの稼ぎ次第かも」
五助の言葉に平次はちゃんと聞いてくれたが、同時に
少し寂しそうな背中だった。まるで木枯らしを吹いてるみたいだ。
「お前は世帯とかいいとおもうぞー、俺と違って」
このままでは寂しさに飲み込まれると、五助は茶化すように言った。
「あんたは酒癖ひどいと聞くしな」
「こら、誰が言ったんだそれ!」
ばりばりむしゃむしゃと、平次は勢いよく天ぷらを食べる。
その子供のような感情表現に、五助は小さく笑った。
「俺はきっとお天道様に嫌われているんだよ、多分」
「賭博もやめられないから?」
「それもあるけど、なんとなく……」
何故か五助を見つめる平次の目は濡れていた。
優しくあったかく、けれども見つめずにはいられないように。
平次の感情が良くわからないというより、何を思っているのか
わからない。けれども、平次にとって今の時間がかけがえのないものかもしれないと思った。
五助はごぼうの天ぷらを豪快に噛み切るように食べる。
自分はいつか、江戸をさり、国元で、妻を迎えるだろう。
それはそれで幸せなのかもしれない。けれど……。
「国に帰ったら、あんたと、天ぷら、食べられないんだなぁ」
それは不意に息が詰まるように、寂しかった。