暑い夏、心遣いを知る
「今年の夏は様子がおかしいんじゃないんかい?」
「暑い暑い暑いぃ」
のたうつような声で、畳にだらりと腕を伸ばしているのは
夫の与助だった。足をひねってしまって大工の作業を休んでいる。
普段はお天道様の下で、金槌を振るっているというのに
動けず、長屋の中でじっとしているのも辛いらしい。
「別にいつもと変わりやしないよ。それより、戸をあけているときに
みっともない声出すんじゃないよ」
サヨはうちわで自分を仰いでいると、噛みつくように
与助は声をあげた。
「いやいや、こっちを仰いでくれよ!」
「うるさい鐘みたいな声だね、なんでそんなのに仰がないといけないんだい」
サヨの言葉に、なにか思うことがあったのが、与助はブツブツと言い出す。
サヨの調子は正直良くなかった。
体のなかで、明らかに変化している感じがする。
体の構造がおかしくなっているような、ぐるぐるしたような感覚。
暑い夏のせいで食べ物やられて、なにかあったのかと思っていたが
吐き気を覚える回数も、増えていた。食欲がわかないのだ。
与助という稼ぎ頭が、怪我したことで、収入も一時的になくなっていることもあいまって
サヨの気持ちは淀んだ汚水を眺めるような、憂鬱さが秘めていた。
「さっぱりしたいねぇ……」
「湯屋にでも行きてぇのか? さすがに早すぎだろ」
「そうじゃないんだよ」
「じゃあ、なんなんだ」
「……なんなんだろね」
サヨは言葉が詰まってしまった。
さっぱりしたいという気持ちはあるんだが、それをより正確に言うならな
体の内側からすっきりしたいのだ。内臓を洗ってしまいたいような気持ち。
体の中は変容してきている。自分の中に何かができようとしている。
そう言えば月のものが二月来ていない。
梅雨の頃、雨露が強く滴る晩があった。与助の体がのしかかり、荒い息が耳をこすった晩を思い出した。
「ひゃっこい、ひゃっこい」
外から威勢のよい声が聞こえてくる。
太陽がてっぺんにのぼるにはまだもう少しかかる昼四つの頃。
気温は上がりきっているが、まだぬるくはなってないだろう。
しかたないなとサヨは立ち上がった。
「起きなさいな、冷や水を飲めば少しは元気になるだろ」
「どうせ、砂糖増しじゃだめなんだろうが」
サヨはちらりと与助を見た。
まったく餓鬼臭い顔をしているんじゃないかと思った。
ふうと大げさにため息を付き、小さく笑った。
「少しならいいよ」
声にならない喜びを背中越しに感じた。
お腹がぐるぐるとする。体が滋養をもとめているが、しかし受け付けないという矛盾がある。
冷や水売りに声を掛けると、手ぬぐいが顔を拭きつつ、地面に桶を置いた。重い音が足に響く。
冷や水売に夢中になって注文している与助は、さきほどまでのふてくされた顔とはうってかわって、明るくなっていた。その顔のまま、深井戸の水と砂糖と白玉が入った金属製の椀に口をつけている。
うちわであおぎながら、冷や水を自分も飲めればと思ったが。
しかしあの味ではすっきりするが、さっぱりはしないだろうと気が遠くなった。
「……ところてん売りもいるじゃねぇか」
「あ……本当だね」
与助はどこか眩しいものをみるように、日の下にいるところてん売りを見つめてる。
「酢醤油でさっぱりしてるぞ、食べろ食べろ」
「私はいいよ、暑くて、だめなんだよ」
しかし、がんとした何かを決意するような重さをもった声で、与助は言った。
「食いな、もう、お前だけの体じゃないんだろ」
与助はサヨがそれ以上何かを言う前に、ずいっと足をすすめた。
ところてん売りに頼みに行こうとしている。
「あんた、私の体のこと……」
あの鈍感な与助が? という驚きと、子どものような与助が自分のためにところてんを買いに行こうとするのを見て、サヨはへなへなと力が抜けた。
嬉しいような、頼もしいものを見たような、思わず口元を抑えた。
熱い夏の風が吹く。風鈴売りがどこかにいるのだろうか。
ちりんちりん、涼やかな鈴の音が、耳に届いた。