死に、生きる決意
突如として現れた紫色の球体。プラズマのようなものが発生していて、球の表面を稲妻が走っている。
「次から次へと...」
そろそろ頭がパンクしそうだ。そもそも羊野郎が出てきたあたりから既に許容範囲外であったのに、これはもうどうやったってキャパオーバーだ。
静寂の中で、それに手で触れられるところまで近づいた。目の前にしてみると、その形がよくわかる。
「凄く綺麗だな」
紫の球体は、半透明で透き通って見える。まるでガラスのような見た目をしており、触れれば割れてしまいそうだ。
「触っても、大丈夫なんだろうか?」
中心には核があり、その中で何かが蠢いている。その周りを透き通った紫色のガラスのようなものが覆っていて、またその球体の表面を紫の稲妻がさっきから引っ切り無しに走っている。
見た目は真珠のような感じ。
手で触れようとすると、肌でヒシヒシと感じる程に強力なエネルギーを感じる。
見た目はどう見たって安全な物には見えないけど...これを放っておいて、この場を去るのは、あまり良くない気がするのだ。
おかしな話だけれど、この球体は俺の役に立つと思うんだ。そんな気がする。
俺は、よく考えた後に恐る恐る手を伸ばし、球体に触れる。
「ん?」
球体に触れる。
すると、まず不思議だったのは手の上に乗っているのに、なぜだか触っている感触がないこと。手のひらには触れずに、その上でふわふわと浮いているような感覚だ。でも目で見ると明らかに手の平に触れているし、何なら少しめり込んでいるようにも見える。走っている稲妻も手に当たっているが、何の痛みもない。
ひとまず害にはならなそうなので、一安心。
「...」
しかしそう思ったのも束の間、どういう訳かずっと触れていると、どうしようもなく食べたくなる......衝動に駆られた。
(...知らない間に腹が減っていたのか?こんなものを食べたくなるなんて)
さすがにこんな得体のしれないものを食べるわけにもいかないので、取れかけていた袖をちぎって球体をそれに包んでバックパックにしまってしまう。俺の血がついていて汚いが、バックパックの中は既にグチャグチャになっているし、いまさら清潔感もクソもないので気にしないことにした。
それから手を離した途端、妙な空腹感はすぐに収まった。いったいなんだったのだろうか?
それよりも、今はこの場を離れるのが先決だ。先ほどの戦闘の音を聞きつけて、違う怪物がやってくる可能性も否めないからな。この辺りにどれ位の数がいるのかは分からないが、いくら何でもあいつだけしかいないなんて考え方はできない。そこまで楽観的じゃない。
「よし、あそこの崖際を辿って休める場所を探そう」
そうしたら体を休めればいい、それまでの辛抱だ。
怪物に会うのが最悪の事態だ、せめて休める場所に着くまでは何にも会わないように願っておこう。
幸いなことに、無事に岩場地帯を抜けると、崖際までは何事もなくやってこれた。
あれだけ大きい音を出しておいて、もしもやつの仲間がいたならば、出てきてもいい頃合いだが、未だその様子はないし近くにいなかったのかもしれない。
崖際に着き、木々の狭間に入っていく。ここなら俺の視界も悪くはなるが、敵に見つかる心配も低くなる。道なりに沿って行って、洞窟か何かを探せばいいはず。
あの時は洞窟を見つけられたのは偶々だったが、きっとここにだってあるはずだ。
意識が朦朧としてくる中、崖からあまり離れずに森の中を探す。主に見るのは木の下だ。脆そうな場所や、何なら既に穴が開いていたり、空洞になっている所なんかがあればつついたり覗いたりしたが、どれも不発だった。
流石にそう簡単には見つからないか、とげんなりしていると、再び穴を見つけた。しかし、少し入るのは躊躇してしまう。なぜって、クマが入れそうなくらいの大穴だったからだ。
それに、何かが這いずりだしたような跡もある。もしかしたら恐ろしく大きい何かが、この中にいるのかもしれない。
だが、俺ももう限界が近い。血は流れていないけれど、腕を見れば紫色になってパンパンにはれ上がっている。骨折もしているし内出血もあるのだ、傍から見たって山を歩くだけの体力が残っているようには見えないだろう。
「―――っ!」
俺は一瞬だけ悩んで、意を決して穴を除いた後、すぐに頭を引っ込めてしまった。洞窟のなかは広く、洞窟だから当然薄暗いし、光の届かない奥にいたっては真っ暗闇だ。見た感じでは、昨日寝た洞窟よりも大分広そうだ。
だが、問題はそこじゃない。
(な、なんだありゃ)
咄嗟に穴の上に逃げて、息を潜める。咄嗟のこととはいえ、今の体の状態でまだこんなに動けることに一瞬驚くがそんなことはどうでもいい。
陰から頭を少し出し先ほど見た光景をもう一度視界に入れて様子を窺う。
その中にいたのは、見間違いでもなんでもなく、やはり存在していた。そいつは、五メートルはあろうかという大きさの体毛を銀色に輝やかせた狼だった。
「嘘だろ、おい。あんなバケモノもいんのかよ」
逃げるにしろ、戦うにしろ。見つかったが最後、今回に限って言えば間違いなく生き残れる可能性は0だ。今は狼の位置からすごく近い。今のところ気づかれていないようだが、ここから立って物音を立てずにこの場を去るのは難しい。
「...」
唯一の救いは、狼は座ったまま動く様子がないこと。やはり気づかれていないのか、それとも、もしかして草食だったりするんだろうか?それか肉食だけど、人には興味が無かったりして...
ただ、さすがにさっきの戦闘でもう学んでる。物事を甘く見ることはしない。
きっとまだ運よく気づかれていないだけで、恐らくこちらに気づいたら餌を目の前にした鯉のように迫ってくるに違いない。
「...あれ、なんかおかしくないか?あの狼」
じっとしてバレないようにしながらも、策を練ろうとしていたら、おかしなところに気が付いた。穴の中から不自然なほどに荒い息が聞こえてくるのだ、しかも別に興奮しているような感じではなく、むしろ弱弱しい感じだ。不思議に思って狼を見てみると、呼吸をするたびに体が大きく上下しているのに気づいた。
狼の呼吸を見たことはないし、あれほど大きな生物の呼吸も見たことはないが、なんとなくその様子に違和感を感じた。
もしかしたら逃げられるかもしれないと思い、確認を取ろうと、もう一度よく見るために、穴を除く覚悟を決め今度は体を半身出して狼をよく観察してみる。
「やっぱり、怪我...してるな。」
見るとなぜ気が付かなかったのか不思議な程に、狼の下には大きな血だまりができており、広範囲にわたって雪が赤色に染まっていた。
そして血の出ている原因も分かった。あの狼の脇から下が抉れた........ようになくなっていた..........のだ。
あの狼は、もうすぐ死ぬ。
生存競争だろうか?いやいや、それは困るな。こんな大きな狼に勝つような怪物なんていてほしくないんだが。
「...うーん、どうしよう」
なんて言いながら、既にどうするかは決めている。俺の何がそうさせたのか知らないし、そんな気違いじみた発想がなぜ出てきたのだろう。
今からでも回れ右をして走り出した方が良いに決まっている。
だが、俺の足は迷いなく狼の方向へと向かっている。洞窟の穴に足を掛け、降りようとしている。
言っておくが、別に弱っているから今のうちに殺すだとかそんな野蛮な考えでは無い。
逆に近づけば食い殺される恐れだってあるわけだけど...
どういう訳か弱っている狼を見て、俺は助けたいと思ってしまった。助けるといっても、俺に何ができるわけでもない。
ただ、狼の傍によって何かできないかと考えてしまった。
俺の頭はおかしくなったんだろうか?俺が穴に足を掛けた時点で、狼は既に鋭い目つきで俺の方を見ていた。だが、その目は鋭かったが俺を食ってやろうなんていう思いは感じられない。
ただ...ただ、この先に待つ死を迎えているような...
...そんな哀しい目をしていた。
傷ついた狼の目の前までやってくる。近くで見ると、狼の状態がよりはっきりとわかる。
右の脇腹がごっそりと抜け落ちたようになくなっていて、生きているのが不思議な程の明らかな致命傷を負っている。
そんな傷を負っていてなお、苦悶の表情を浮かべながらではあるがしっかりと呼吸をしている。
一回の呼吸をするたびに全身に走っている血管が大きく脈打ち、皮膚の上からでもその動きが見える。
また、体の下にできた尋常ではない量の血だまり。さっき見た羊野郎から出た量の比じゃない。
まるで小さい池がそこにあるのかと錯覚してしまう程の血だまりがあり、今この瞬間にも狼の脇腹から血は流れ続けていて、その範囲を広げていた。
「ひどいな...何があったんだ?」
しかし風前の灯火であるのはあきらかなのに、俺に向けられた目には未だ力強さが残っていて、まだ死ぬまでには少し時間の猶予がありそうだった。
一旦狼から視線を外し、周辺を見渡してみる。
すると、あちこちに血の付いた毛が飛び散っているのに気づいた。
見れば尻尾から洞窟の入り口に向かって血の垂れた跡が続いている。目の前の血だまりとは比較にならないが、それでも無視できない量の血が残っている。中に入る時にちらっと見えたが、この血の痕跡は崖際の方まで続いていた。
「もしかして、昨日遠吠えは君だったりする?」
狼に目線を合わせて話しかける。
これまでに起きた現象を思えば狼と話せたって不思議じゃないが、これは別に答えが返ってくることを期待して話しかけているわけじゃない。
なんとなく聞いてしまっていた。
多分話す相手が欲しかったんだと思う。自分の身に起きている意味の分からない出来事を誰かに聞いてほしかった。
そう思ったから自然と言葉が口から出ていた。自然と狼に近づいていた。
昨日、対岸から聞こえてきた遠吠えが、この狼でないなら、この狼みたいな巨大な怪物たちが他にも何匹もこの森に生息しているってことだろう。
一体、この森にはどれだけの危険が潜んでいるんだ。こんな場所で生き残るのなんて、鼻から無理だったんじゃないのか?
『...なんと数奇な運命よ。
こんな場所で本当に王と出会うとは、あの予言者も侮れんな』
冷汗が、背筋を伝う。突然と、声が聞こえてきた。
俺が一人で考え事をしていると、どこからか声が聞こえてきたのだ。耳元に聞こえる声だ、知らぬ間に誰かが俺の傍へとやってきていたのか?
「...?」
俺は、恐る恐る振り返るが、しかしそこには誰もいない。だが日本語を話す生物など、この場には俺一人しかいない...はずだ。それこそ目の前の狼がしゃべれでもしない限りは、ありえない。
だが、どうしてだろう。俺の直感が、目の前の狼だ、と言っている。
『人の子よ、その通りだ。
君の目に映る狼、私が君に話しかけているんだ』
すると目の前の狼が唸るような動きを見せながら、俺の耳にはその言葉が聞こえてきた。口の動きとあってはいないが、間違いなくこの狼が話している。
「し、信じられないや、本当に君が話しかけていたんだね」
『君は、あまり私のような生き物を見ないのか?』
「あ、うん。少なくとも、俺と同じ言葉を使える狼はいなかったかな」
『そうか、そのような世界もあるのだな...いや、その話は良いのだ。
青年よ、急ぐようで悪いが時間が無いのでな。君に一つ頼みたいことがあるのだ。聞いてはくれまいか?』
「た、頼み?」
『見ればわかるだろうが、私の命は、もうあと少しでついえる。
そうなる前に、君に私が一族を救う使命を、託したいのだ』
「―――ち、ちょっと待って。
あなたの気持ちを無下にするようで申し訳ないけど、その一族を救うなんてこと、俺にどうにかできるようなものじゃない」
『...もちろん、ただでとは言わん。
後生の頼みとはいえ、君と私は出会ったばかりだ。君が応える義理はないのは知っている。
だから私から君へ、力をあげよう。私の力の全てを』
「力...?」
『そうだ。
今の君は、まだ弱い。私の力があれば、君の内に眠る力を目覚めさせるきっかけになるはずだ。
そうすれば、君の目的を果たす助けにもなる。
それに、私の願いを叶えることは、後々、君の目的の役に立つはずだ』
「俺の目的が何なのか、知っているの?君は一体、何者なんだ?」
『私は、駸狼の王であり、私を知る者は『銀狼』と呼ぶ。
この世には、心の淵に立ち、人の心を読むことができる術が存在する。君はまだ心を読まれるのを防ぐ術を知らないから、私は君の考えを知ることができたのだ。
すまぬが、これ以上は持たん。
私の頼みを引き受けるのかどうか、決めてくれ
もちろん、無理にとは言わない。だが、必ず君の助けになるだろう』
そう言って、銀狼は黙る。もはや、息をするのも苦しいようだ。流れる血は溜まり、毛皮の狭間に見える肉の間には、呼吸の度に震える体に合わせて、骨が軋んで動く。本当にもう時間が無いのだろう。
本当は、よく考えてから決めたい。俺はよくも悪くも慎重なんだ、こういうのは一度じっくりと考えてから決めたい。
...だが、それとは裏腹に、俺の直感が言っている。『狼の力を借りろ』と。
なにより、彼は最期の頼みを言っているのだ。
それなのに、俺が踏みとどまっている理由はなんだ?
狼が怖いから?エマのことがあるから?一族を救うなんて使命を負うからか?
そうだな、どれも間違いなく、俺が彼を受け入れるのを止めている要因だ。だが、どれも意気地がないせいで出ている甘えだ。
どうせこのままここで過ごしていても、今の俺の力では、何をやろうにも上手くいく可能性は低いだろう。ならば、彼の力を借りるのは、何もおかしくない。
むしろ、俺にとって最高の力になる。それに、こういうのは最初に思ったことが、結局いい判断だったと最後には思うのだ。
「うん、決めたよ。
俺があなたの一族を救う、その使命を果たすと誓うよ」
『ありがとう。永い時を生きたが、やっと私にも希望が見えたよ』
そう言って銀狼が、微笑んだ。そして、銀狼の体が光だし、そのまま俺と銀狼の間にその光が集結していく。
『さっそく私の力を渡そう...
これは契約だ。
私と君との間における、魂のつながりを持つ契約。
私の力が、君の中に眠る、この地において比類なき力を覚醒させるだろう。
その対価として、君は私の一族の守護を担う。君の持てる限りの力で、その使命を全うする。
君が嘘偽りなく、この契約を結ぶのならば、契約は受理される。
この私の力の全てを宿したリジルを取り込めば、力が引き継がれるだろう』
その言葉が終わるとともに、巨大な光の玉が...稲妻の走る球体が出来上がる。さっき見た、サテュロスの死体から出来たものに似ている。ただ、こっちのは銀に輝いており、比較にならない程の力を感じる。
俺は、それを両手で受け取り目の高さまで掲げて近くで見る。近くで見ると、より凄まじい力を感じる。
瞬きするたびに、無数の稲妻が走り続ける透き通った銀の玉。
しかし、俺が手にしてすぐに銀の玉は、少しの閃光を放った後、俺の手の中へと消えて行った。同時に、体の内を力強い何かが巡っていき、もう一つの心臓ができたかのような、不思議な感覚を感じた。
そして、光が止むころには、傷だらけだった体は完治しており、何の損傷もない体へと戻っていた。
『無事に、契約が結ばれたようだ...最期に出会えたのが、君で良かった』
そうして、銀狼は息をしなくなった。冷たい風が吹き、乾き出した血が、銀狼の体を徐々に凍り付かせていく。
「...ありがとう」
ポツリ、と自然とそんな言葉が漏れた。飛んだり跳ねたりしなくても、俺は自分自身が強くなったのが分かる。
感覚が研ぎ澄まされて生き、今まで感じる事の無かった生き物の気配や、木や岩、石、雪、風や光など、自然からも呼吸が聞こえてきて、自分がどこが見えていて、どこが見えていないのか、どこが脆くなっていて、どこが頑丈なのか、自然が次に何を起こすのかが分かるのだ。
洞窟の入り口から見える空には、気流が見え、そこに浮かぶ巨大な怪物の姿も見えた。洞窟の奥、以前は暗くて何も見えていなかった、そこはゴツゴツとした岩肌がくっきりと見える。
「必ず、君の一族を助ける。
だから安らかに眠ってくれ」
俺は銀狼の瞼を閉じてあげる。そして俺も何となく目を瞑り、彼の前で祈りを捧げる。小さい頃、他に何も記憶がなかったのに、なぜかこれだけは覚えていた。亡くなったものへの弔い。
旅立ちを見送る祈りだ。
(...そうだ、墓を作ろう)
このまま野ざらしに置いていくなんて真似ダメだろう。きちんとした墓でなくても、埋葬くらいはしてあげたい。
そこで俺は、外に出て入り口のまわりの土をどんどんと落としていき、その都度、下に降りて銀狼の体の上に土を置いていく。
土を動かしていると、体が強くなったのが実感できる。銀狼の体が三、四メートルあるから、埋葬には時間が掛かるだろうと、予想していたのに一度に大量の土を動かせるから、案外すぐに片付くかもしれない。それから俺は、人間とは思えない速度で、その作業を繰り返していき、十分もかからずに銀狼の埋葬を終えた。
完成した墓の前に、これも洞窟の傍にあった岩を置き、サテュロスとの戦いで使った分厚い方の刀で四苦八苦しながらも名前を彫る。
『銀狼之墓』
つたない文字だが、以前見たお墓のような感じで書いた。あっているのかは分からないが、意味は伝わるはずだ。
俺とこの銀狼は、もしかしたら出会う運命だったのかもしれない。なぜかは分からないが、そんな気がしてくる。
俺が銀狼の一族を救うのは、銀狼との約束を守る以外にも、何か意味があるような気がするのだ。
なぜかは分からない、またさっきのような訳の分からない直感のせいなのだろうか?
どちらにせよ、俺が銀狼の一族を救う。
なぜ救うのか、今、その一族がどんな状況なのか分からない、それどころかその一族がどこにいるのかも分からない。まずは銀狼の一族がどこにいるのかを調べなくちゃいけない。
どうやって救うかどうか迷うのは、それからだろう。なにせ、俺はこの場所に来てまだ何日も経っていない。この世界のことすら何も知らないのだから。
黙祷を捧げた後、すぐに洞窟を出る。俺が目指す世界樹の位置はまだまだ遠い。幹は太く見えるのに、俺と世界樹との間に見える木々は、まるで草むらに見えるほどに小さい。一体どれだけ離れているのか、見当もつかない程だ。
だから休んでいる暇などない、すぐに出発しなくちゃいけない。ここで立ち止まっていることを、銀狼は望まないだろうしな。
俺は、目の前を見やる。
ここは洞窟の入り口であり、すぐ手前には崖のがある。俺が世界樹に向かって、まっすぐ進めなかった原因だ。
前は、う回路を探していたが、見つからなかった。百メートルはある崖の狭間を渡るには、それ以外の選択肢がなかった。
だが、今ならばすぐに解決する。
さっきから感覚が良くなっている、そのおかげで俺は自分の身体能力で、どれだけのことができるのかが、ある程度分かった。
今の俺ならば、向こう岸まで跳んで行ける。感覚がバカになっているのかもしれないが、どういう訳か確信が持てている。
とはいえ、俺も馬鹿じゃない。いきなり崖を飛び越えようなんて思っちゃいない。とりあえず思いっきり垂直跳びをしてみよう。
それで可能性があるか判断すればいい。
「...ふっ」
俺は大きく息を吸い込んで、膝を曲げ足に力を入れ、目一杯の力で地面を蹴る。
(...!?)
すると予想以上の物凄い勢いで空気を突き抜けていき、どんどんと雲を突き破っていく。
高く...高く。勢いはしばらく止まらず、洞窟の入り口が豆粒みたく小さくなるまで、一気に打ちあがった。少なくとも五百メートルは飛んだだろうか、とにかく人が飛んだだけとは思えない、凄まじい高さにいるのは間違いないな。
天空の中で動きが止まり、雲を見下ろす。そしてしばらく浮遊した後、今度は逆さになって落ちていく。しかし自由落下で落ちているのにも関わらず、俺が地面から飛び上がった時の方が速かった。要するに俺が飛び上がった時の時速は百キロを超えていたことになる。
単純計算だし、とにかく物凄い速さで飛んだのは間違いない。
しばらくして地面に降り立つ...否、激突する。
ドゴォォォォッ!!!!という音が鳴り響き、着地地点から巨大な雪煙が舞う。しかし、俺は両足で難なく着地した。足がひりひりする、ということもなく、完全に無傷だった。
しかし、地面には小規模のクレーターと、地割れができていた。どうみても前の自分ならぐちゃぐちゃになっていたに違いない。少なくとも無傷で済むはずがない。
(信じられないな...)
そこで、確信に変わる。
俺は銀狼が言っていた通り、彼の力を確かに譲り受けたのだ、と。しかし、まだ銀狼の力を理解していないし慣れてもいないにもかかわらず、いきなりこれほどまでの力を出せるなんて、銀狼がどれだけスゴイ力を持っていたのかがなんとなく分かる。
だからこそ、銀狼の言っていたもう一つのことが気になる。銀狼の力は、あくまで俺の中の力を目覚めさせるきっかけに過ぎない、という話だ。
だとすると、今の跳躍は俺の本来の力、ということになるのだろうか?いや、流石にそれはありえない気もするが...分からない。
誰かに聞こうにも、銀狼は死んでしまったし、分からずじまいだ。俺も、強くなれればそこらへんの事はどうでもいいし、これが銀狼の力のおかげで生まれたものなのには変わりないのだ。
「...やることが増えたな。
まだ俺の目的も達成できていないのに、銀狼の願いを叶えてやることなんて俺にできるのか?」
誰もいない雪原で、そうつぶやく。
...そんな事、分からない。答えてくれる奴なんて、この場にはいないんだ。いい加減、一人で生きて、やり遂げる覚悟を決めるべきだ。
迷えば、簡単に死ぬ。それは今日一日で嫌というほど分かった事だ。いかに力が強くなろうと、気を抜いていて生き残れるとは思えない。
そんな場所にいる、そういう認識を持つのだ。
俺には、やらなくちゃいけないことがある。
その為にも、こんな場所で死んでなんかいられない。