悪魔との出会い
バスがあった場所から適当な方向に歩き出して、既に数時間が経った。
今は、森を抜け崖下に激流の川がうっすらと見える景色が広がる崖沿いを歩いている。森の中は雪が深かったせいで時間を食ったものの、森を出てからはそれなりの距離を進んでいる。
崖に着いた時には、道中に木と雪しかなかったのもあって状況が変化したことに嬉しさが込み上げてきたが、喜んだのも束の間、開けた場所に来たことで遠くの方まで見えるようになったは良いが、町や街道はどこにも見えなかったから、周りの景色が変わっただけで結局何も状況は改善されていない、とすぐに気づいて一瞬で感情の昂りは落ち着いた。
ちなみに対面の崖から向こうには地平線まで先ほどまで俺がいたのと同じような森が続いているだけ。
それと、もう一つ気が付いたことがある。それは、しばらく崖沿いを歩いてみて、疲れが溜まる一方で現状に光明が差すような出来事が一切起きないということ。一度、それに気が付いた時にいっそ死んでしまった方が楽なのでは、と思ったものの崖下の景色を見て唾を飲み、その勇気がないと分かって踏みとどまった。つまるところ、何が言いたいのかと聞かれれば、俺にはまだ生きる気力が残されているということだ。まだ初日だし、まだそういう考えにいたらないだけで、いつかまた同じような状況に陥った時に、俺は簡単な死を受け入れてしまうのかもしれない、そう思ったのだ。
澄み切った空気と霧も晴れ周りの状況が分かりやすくなったことだけが唯一の救いだろうか。
―――話を現在に戻そう。
さっきも言った通りに、今はちょうど崖の端まで着ている、近場にあった木に目印をつけるのも忘れていない。今のところの考えとしては、数日は戻らないつもりでいるから、当分はこの目印が役に立つこともないだろう。
目印にはバックパックのサイドポケットに入っていた家の鍵が役に立った。他に使えるようなものがなかっただけなのだが、目印をつけるだけならば十分な傷をつけられるので問題ない。
「おかげで鍵はボロボロだけど...家に帰ったら新しいのと交換しないとな。」
なんて独り言ちり、なんとなく周りを見渡してみる。
「うーん。」
というのも、残念なことに崖の端まで来てしまったのだ。なにが残念なのかって、ここから行けるのが森の中しかないことだ。あれだけ右往左往してしまったのを思うと、また森の中を彷徨うのは、少しばかり避けたい気持ちがある。それにまた森に入っても、こんどはこういう崖みたいな場所すらも見つけられないで、永遠と彷徨う羽目になる恐れだってある。
幸いここは吹雪もないし、雪もある程度は溶けて気温も上がってきている。陽の傾きを見ても、今日の移動は切り上げて、ここらへんで野宿する手もある。夜になってから、乱立した木で月日が遮られて暗闇になる森の中を歩くのもあまり良くないだろう。解けてきたとはいえ、雪もまだあるし夜になれば天候も変わってしまうかもしれないし。
それで言うと森の中を移動している最中に気になった点が一つ。それはこの瞬間までに一度たりとも気候は変わらないし傾斜も少ない点。目が覚めた当初は、ここを無意識に山だと思い込んでいて、呼吸がしにくくなったり、吹雪にあったり、雪崩にあったりする恐れがあるかもしれないと警戒していたのだけど、案の定、山間にあるはずの谷を見つけたことでここが山であることが確定してしまった。
一応、谷底は川が流れているのがギリギリ見える程に深くて落ちることを想像したらおっかないけど、奥の森と合わせてみると絶景なので時折こうして谷間を眺めながら歩を進めている。気分転換には丁度いい。今はちょうど森の向こうに太陽が隠れようとしていて、更に美しい光景になっている。
「ここは標高が高くないのかもな、それなら気候が一向に変わらないのも納得がいくし、吹雪も雪崩もない事にも合点がいく」
天気にも、山の気候にも詳しくないので何とも言えないけど、山の天候は変わりやすいと聞いたことがあるし、もしそれが正しいのならば標高何千メートルとかの山とかではないと分かる。まあ、そもそもそんな山ならこんなに木々が生い茂っているはずもないだろうし、それほど高くない山であると考えて問題ないだろう。
「―――さてと、移動するか否かだけど」
雪がそんなに積もっていない崖際を歩き始めてからは移動速度は格段に上がったものの、ここから見える森の中には相変わらず雪は膝下までありそう。
雪のせいで体力はすぐに限界が来るし、森の中を歩いていた際には休憩を頻繁にとることを強いられた。それに伴って移動には通常よりも格段と遅くなり、時計がないので正確な時間は分からないが、それほどの距離を進んでいないにも関わらず、バスを出た時点では高い位置にあった太陽も今は森の向こうに隠れそうな程に傾き始めている。
「どこもかしこも木、木、木...このまま無理に進んでも、あまり意味は無い気がする」
ここに来る間で拠点になりそうな場所は見つからなかったし、バスに戻るとしても、途中で確実に夜になる。そうなればさっき考えたように、暗闇の中を進む羽目になる。
それに、森に入りたくない理由はもう一つある。というかこれが一番の要因といってもいいんだけっど、さっき対岸の遠くの方で狼みたいな鳴き声が聞こえたのだ。
遠吠えを聞くまでに、そのことを考えなかったわけではないが、もし獣に襲われたとしても、今は身を守るすべがない。ただでさえ地の利は向こうにあるのだし、暗闇でよく見えない中で出くわそうものなら逃げる間もなく食い殺されてしまうだろう。
―――そんな風に考えていると、ふと視界の右端に何かが通った...まさか狼か?
いや、それにしては大きかったし、どちらかというと人影に見えた。
「...すみません!そこに誰かいるんですか?」
少し躊躇したのちに、呼びかけてみる。もし本当に人ならば助かるかもしれない、そう思うと声を掛けられずにはいられなかった。
「...」
しかしながら、いくら待っても返事は返ってこない。誰かが現れることもない。
...おかしいな。確かに何か見えたんだけど...やっぱり人じゃなかったのか?
そう思った途端に足がすくみ始めるが、せめてなんだったのか確認するくらいはしておきたい。
「...狼、とかじゃあ...ないよね?」
恐る恐るといった調子で、さっき動きがあった手前にきて目の前にあった木から半身になって動きのあったところのあたりを見る。
「...?何にもいないじゃん。」
なんだ、ただの見間違いか。びくびくして損した気分だな...
「はぁ、あっぇ――――」
安心して戻ろうとした瞬間、踏み出した先に足場がなく、何が起きているのかも分からずに足を滑らせ真下に落ちていく感覚だけが分かった。
――――――
―――――...ボサッッ
一瞬の浮遊感の後、尻に冷たい雪の感触がやってくる。
「ううぅ...」死ぬかと思った。
今もまだ心臓がバクバクいっている。
上を見て、どうやら踏み出した先にちょうど穴があったみたいだと分かった。
雪がクッションになったからよかったけど、ごつごつの石とかあったら...うーん考えたくない。
サラサラ...と粉雪が落ちてくる。
「うん?」
改めて上を見ると、三メートル幅くらいのおそらく俺が落ちてきたであろう丸い穴から赤みがかった光が差し込んでいる。
「...とんだ災難だな。」目線を前にやると薄暗い中に暗闇が奥へと続く洞窟があった。中には光源になるものがないため何メートルある洞窟かは分からない。
「どうすんだこれ。一応どうにか上までは登れそうではあるけれど...」
緩い傾斜が穴の入り口まで続いていて、頑張れば外に出られそうではある。
だが、もう日がほとんど沈み切っているのか差し込む明かりもすでに薄暗いものになっている。
「...」
もう一度周りをよく見てみる。
暗く続く洞窟の手前...今俺がいる場所は人一人横になっても問題ないくらいの広さがある。
幸いここは風も通らないし、天井もあって穴から離れれば雪が降ってくることもない。
「...うん。」
もうその時には疲れ切っていた俺は、そこが一晩過ごすにはうってつけの場所に思えた。
―――
目の前にはさっき一度地上に出てかき集めてきた山のような草と木が置いてあって、入り口の真下近くの場所に小さな焚火を焚いてある。
安全を確保するために軽く洞窟の中を探索してみたものの、最奥は日光が届いてなくて見えなかったから行けていないが少なくとも中ほどまでには何もなかった。恐らくは何かの棲み処だったりはしないはずだ。
それに今は選べる選択肢は少ないし、あるかも分からない何かを過剰に気にする必要はないだろう、と思い洞窟の奥は気にしないことにした。
...というか何もいないことを祈ってる、これ以上何かが起こったら身が持たない。
「...」
焚火の前に、持っていた簡易寝袋を尻に敷いて座る。
長く歩いていたからか、一度座ってしまうとどっと疲れが出てきて途端に眠気がやってくる。もう一度立つのは、もうしばらく無理だろう。
―――パチパチッ
焚火から火の粉が飛び、弾ける音が洞窟の中に小さくこだまする。
気が付けば辺りは暗闇の中であり、この火だけが光を放ち外に見える空の中で煙が揺らめいている。
自然と目を閉じると、次の瞬間には今日起こったことが次々に頭の中に浮かんでくる。
旅行だからと、いつもより早く起きて、身支度をして、大きなキャリーバックと背中にはバックパックを背負って、玄関に待っていた彼女と旅行に出かけたのが、一日の始まりだった。それが次に目が覚めた時には、火を燻らせ壊れてしまっているバスの横で倒れていた。
記憶も混濁していて、その間に何があったのかさえ未だに思い出せていない。あの場には俺以外に人影がなかった。
...あの時から状況はまるで変わってない。まだ一日も経っていないから、悲観するのは早いかもしれない。洞窟にきて少し冷静になって振り返ってみると、目が覚めたばかりの俺はかなり焦ってたように思う。
じゃなきゃバスを離れてあてもなく歩きだす前に、もう少し何か考えられてたはずだ。
今でさえ具体的にどうすればよかったのかは分からないから、結局今と同じ状況になっていたかもしれないけど『もう少し待っていれば救助隊が来ていたかもしれない。』そういう考えが頭に浮かんでくると、どうしても先走ったんじゃないかなんて今さらながら後悔してしまう。
―――
「―――っと、こんな感じで良いかな?」
寝る前に、ペンで手帳に文章を書いていく。荷物を整理している時に横ポケットに入っていた手帳をたまたま見つけて、なんか使い道ないかなぁ、って考えた末に今日から日記をつけよう、と思い至った。暇つぶしには丁度いいと思ってね。
忘れそうなこととかメモしておけるし、この日に何をしたのか。何があったのかがわかるし、日記をつけると何かと便利だろう、暇つぶしもできて、まさに一石二鳥だ。
とはいえ、この日記の全てのページが埋まるようなことはないと思いたいね、その時が来ないことを祈るばかりだ。
「それにしても、弱ったなぁ...」
日記をつけ終わり、手帳を閉じて寝袋に入る。相変わらず眠気が凄かったので、すぐに眠れそうだ。目を閉じると聞こえてくるのは、弱弱しくなった焚火の音だけで、風の吹く音も雪の降る音も、もちろん狼の遠吠えも聞こえてこなくて、酷く静かだった。
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『―――ああ、やっと来たようだ。』
うっすらとした意識の中で声が聞こえたような気がして、ハッとして目を開ける。しかし目に入ったのは暗い空間であることに変わりはなく、何も変わった所はない。
「うん?」
そう思っていたら、見覚えのない薄明りが空間を照らしている事に気が付き、急いで頭を起こし、あたりを見回す。
するとすぐにその正体が分かった。それは四隅が真っ暗な空間を中央の薄明かりが照らしていて、しかしそこには俺がつけておいた焚火の姿はなく、ガラスに入ったロウソクがあるだけだった。
それに加え地面はローズウッドで作られた床に変わっており、足元から地面を目で辿って行くとそれほど距離のない位置に壁があり、四方同じ光景だった。俺はどうやら、洞窟の中ではなく、見覚えのない書斎くらいの大きさの部屋にいるようだった。
「また、知らない場所で目が覚めたのか?」
意識が段々とはっきりし、起きた時は気づかなかったが、自分が部屋の中央に置かれた椅子に座っていたことに気が付く。
しかし雪の中で目が覚めた時とは決定的に違う点がある。それは、まるで夢を見ているかのような不思議な感覚が全身を包んでいること。
「...つまり、これは夢なのか?」
しかしそうなると次に不思議なのは、それにしちゃあ現実味があること。まあ、これは俺が寝起きだから判断がつかない可能性もあるな。それにしても、一体俺の身に何が起きているんだろうか。遭難して、森を彷徨って、穴に落ちて、野宿して、見知らぬ場所で椅子に座ってるだけの夢を見てる。
次はきっと人間か何かが出てきてこういうんだ。
「お前を食べちゃうぞ」なんて、身の丈三メートルくらいの大男が言ってくるに違いない。今の俺が会う人間なんて、よっぽど奇天烈なやつなのは間違いないはずだ。ここでまともなやつが出てくる方がおかしいだろうね。まあ、俺はそれを望んでいるんだけれど...
「...」
俺に優しい言葉をかけてくれる人は、どうやらここにはいないみたいだ。
『これは夢じゃないぞ。』
「―――はえぇっ!」
誰もいないはずの真後ろから声が聞こえてきて、びっくりしすぎて変な声を出しつつも、反射的にそちらに目を向ける。するとそこには黄色の生地に右が青で左が緑の袖、左右非対称の丈の水玉模様のズボンを履き、つま先が丸く恐ろしく大きいサイズの靴を履いている男がいた。さらに言えば頭にはシルクハットのような帽子を乗せ、目に星を模った化粧、鼻には丸く赤いつけ鼻を、唇には真っ赤な口紅を、そして顔全体が白色でそのどれもが顔面に浮いているようについている。
『何を素っ頓狂な声を上げている。』
木椅子に足を組んで座り、湯気のあがるカップを口に当て何かを飲んでいた。
「い、いつからそこに?」
『私はずっとここにいたぞ、青年よ。
ここは私の部屋であり、突然現れたのはお前の方だ』
カップを口から離し、ゆったりとした様子で話す男。奇妙な見た目に反して、その仕草は優雅なモノだ。
「そ、そうですか...あの、それで、俺はどうしてここに?」
突然男が現れた驚きが未だに抜けていないが、何とか言葉をひねり出す。
『我輩が呼んだのだ』
そう一言だけ言うと、口を閉じる。
「そ、そうなんですね」
『...』
そのまま黙っているだけで望んでいた返答は返ってこない、俺の質問の意図が伝わらなかったのだろうか。
「...あの、どうして呼んだんです?」
改めて質問を具体的にして聞く。
『理由が知りたいのか?』
するとまたもや回答となる返事は返ってこなかったが、代わりに質問を返されてしまう。
「ええ、できれば」
と、簡潔に返す。
『お前は、自分の身に何が起こっているのか、知りたくはないか?』
すると、もったいぶった感じの言葉が返ってくる。彼は僕の質問に取り合う気はないのだろうか?
「えっ、どういうことです?」
『お前が今最も知りたいことを、教えてやろうといっているのだ。
なぜ目覚めたら雪山にいたのか、バスに何が起きたのか、そしてエマ・ハリソンはどこへ消えたのか』
そもそも、俺はどうしてこんな奇妙な見た目の男と普通に会話しているのだろうか、そのことにも疑問を覚えていると、衝撃的な言葉が返ってくる。
「っ!?あなたは一体、何者なんですか?」
一緒にいたわけでもないのに、どうしてそんなことを知っているのだろうか。乗客の中に、こんな目立つ男がいれば、さすがに覚えているだろうし、同じバスの乗客とかでもないだろうし。
『我輩は、シャングルファン・ミモレット。
人間でいうところの悪魔だ」
「っ!?」
『そして、お前を救うことのできる唯一の存在だ』
「...悪魔って、あの悪魔のこと?
だったら救うなんて笑えもしない冗談を言ってないで、今すぐあの雪山に戻してくれ。あんたに助けてもらうんなら、あそこで野垂れ死ぬほうが、よっぽどマシさ」
『...やれ全く、鈍い男だ。あれだけの目に遭っていながら、疑問を持たんというのか?
お前は、お前の彼女がどうなってもいいのか?」
彼女って、まさかエマのことか?
「あ、あんたはっ!
エマに手を出したら、殺してやる」
『クックッ、なんと愉快な男だ。敵を知らず、あまつさえ増やそうとするなど
世界広しと言えど、お前くらいのものだろうな』
しかし男は取り合わず、軽く笑って流すと、そう言い返してくる。
「どういうことだよ、あんたがやったんだろう?」
そういうことだろう?という意を込めて、俺は聞き返す。その様子は、傍からみればわめいているようにしか見えないかもしれない。
『そこが、そもそも間違っている。
あの事故は、お前を殺すためだけに仕組まれたものだ。それと、悪魔は殺すのなら直接殺しにいく、バスを事故に遭わせて殺すなんて回りくどいマネはせん』
極めて冷静に、男は言い返してくる。
あまりにテンションに差があったので、おかげで俺の気持ちも大分落ち着いてきた。
「お、俺を...いや、それならどうしてあんたがそれを知ってるんだ?」
殺すために...もし仮に目の前の自称悪魔が犯人でないのならば、一体だれが?
『うむ、そのことを含めて話があったから、ここに呼んだのだ。
...聞く気はあるか?』
その言葉を聞いて少しばかり悩んだ後に、俺は小さくうなずいた。