1.目覚めと名付け
5柱の女神達ーーー
かつて混沌とした世界に秩序と平穏を齎した5柱の女神達がいた。
紅の女神は世界の根幹と礎を創り、
世に法則を齎した。
黒の女神は大地を固めて民を創り、
民に知識を齎した。
白の女神は天空を司って星を創り、
民に光と熱を齎した。
翠の女神は草木を繁らせ自然を創り、
民に食物を齎した。
金の女神は動きを与えて時を創り、
民に成長を齎した。
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喉が渇いた。
そう、最初に感じたのは喉の渇きだった。
まるで何年も前から砂漠をさまよい続けてなにも口に出来ていないかのような、干からびた砂のような渇望。
治まる事のない渇きが、私の喉を焼く。
なのに私の身体は動こうとしてくれない。
ずいぶんと長い間眠っていたとは自分でも思うし、寝起きだからって思われるかもしれない。
だけど、首から下の感覚が全くない。
まるで生首だけになったような感覚の中で。
ふと何か甘くて優しげな香りが私の鼻先をくすぐった気がした。
香りに釣られてソッと、いつ以来だったか自分自身でも分からないほど久々に開けた目は。
陽の光に照らされた周囲の明るさに眩んで、視界が一瞬でホワイトアウトする。
「目が覚めたかの?」
香りと共に、鈴を転がすような声を投げかけられ私は返事を……出来なかった。
「…ぅぐ……ぐぁぁ!!」
喉を焼く痛みは、長い眠りの間に私から声すらも奪ってしまったようだ。
もはや口から出たのは言葉ですらない、悪魔のようなうめき声だけだ。
それなのに、私に届く香りはなけなしの理性すらも溶かすかのように渇いた私の鼻をくすぐり続ける。
この香りは、一体どこから来ているのか。
そうわずかに巡らせた思考はどうやらゆっくりと戻り始めた視界に幻影を映し出したのだろう。
薄くまばたきをして見えたのは、月光に照らされたかのようなシルバーブランドのセミロングヘアを真っ白な肌に滑らせ、緋色に輝く瞳をした幼げな容姿の少女で。
私はそんな少女にひざ枕をされていた。
思わずパッと跳ね起きようと感覚のない手足をバタつかせたら、いきなり動いたせいか視界が回った。
次の瞬間目の前には地面と土の香りが迫り、それに混じって先程の美味しそうな香りが渇いた私の鼻をなでる。
どうやらこの香りは、目前の少女から漂っているようだ。
「おぉっと。これ、無理をするでない。渇いておるのじゃろう?とりあえずこれを飲むのじゃ」
そんな事を考えていると、少女は私を地面に倒れ込む直前で支え起こしてくれた。
ソッと私を座らせると、ゴソゴソと地に下ろしていたバックパックから小さな水差しを手に取って私に差し出してくる。
チャプンと鳴る水音に、少女から引ったくるように受け取ったソレから中身を一気に飲みこんだ瞬間、やってきたのは癒しではなく。
「んく、んく……ッ!? カハッゲホッ」
なんだこれは。
口にした瞬間にゾワゾワとした感覚が背中を駆け上がってくる。
まるで劇毒を飲んでしまったかのような違和感が、ただでさえ痛む喉に絡み付いてさらに私を痛め付ける。
「飲めぬ、か。うすうすそうじゃろうとは思うておったが。……ほれ。首からやる訳にはいかぬのでな、これで我慢してたもれ」
どうやらこの反応すら少女は予見していたらしい。
そんな様子に沸いた一瞬の苛立ちは、直後彼女が腰に差していたナイフで手首をスッと切った瞬間に消えてなくなった。
先ほどから私を苦しめていた香りが一気に強まり。
私から残っていた理性も、思考すらも奪い取る。
……欲しい。
欲しい、欲しい、欲しい、欲しい欲しい欲しいホシイほしい欲しい欲しい!!
その手から流れ落ちる紅いソレが飲みたい飲みたい飲みたい渇いたノドを癒したい癒したいイヤシタイいやしたいいやしたい!!!
私はもう何も考える事すら出来ないまま、ふらふらと火に誘われた虫のように少女へと手を伸ばし。
手首からこぼれ落ちる紅い雫を舐め取っていた。
あれほど私を痛め続けていた喉の渇きは、あふれる血をすするほど薄れていき、やがて渇きはだんだんと潤わされていって……。
ーーーーーーーー
しばらく夢中に少女の手首へと口付けたまま、ふと私は思考を取り戻した。
少女が自身で傷付けたソレは、いつの間にかまるで何もなかったかのように治っていて、白い玉肌とこぼれた血で紅く染まるのみ。
そっと紅く染まっていた肌を滑る雫を舐め取ってから、私はそこで初めて彼女の顔をしっかりと見つめ直した。
フランス人形もかくやと言わんばかりの整った目鼻立ち、ちょんとベニを差したかのような唇はその幼げな容姿とは打って変わって、深い母性を感じるような微笑みを浮かべて私に問いかけた。
「落ち着いたかの?」
「……ぁい」
「ほむ。言葉は通じるようじゃが、まだしゃべられるようにはならんか。仕方ないの、おぬしが構わんなら妾に付いて参れ。しばし面倒を見てやろうぞ」
どうやら彼女は言葉が通じない可能性も考えていたようだ。
そんなに不思議な事なのだろうか。
私の生きていた頃は……?
その時、私はそこから先が全く思い出せない事に気付く。
そもそも私は昔も生きていたのか?
それとも既に死んでいて、何故か意識だけがこの世に留まっているだけ?
でも、死んでいるのならこうして思考を巡らせる事も出来ないはず……。
何かを思い出そうとして記憶をたどろうとしても、そもそも本当に記憶があったのかも思い出せない。
まるで "初めから何も無かったかのように" 。
「ほれ、どうした。付いて来るかの? それともこの場に留まるかの? 別に無理に付いて来いとは言わぬが、留まるのはあまりオススメできぬ」
そんな事をつらつらと考えてる合間に支度を済ませたのだろう。
立ち上がった少女は私へと振り返り、こちらの様子をうかがってきた。
「なにせ、夜ともなればこの辺りには魔物に堕ちた奴等が出てきよるからの。命あっての物種じゃ」
そう言いゆっくりと歩き始める彼女に、私は付いて行くことにした。
さすがに目覚めてから一夜であの世行きになるのは勘弁してほしい。
「それにしても、妾の血を飲んでも拒絶反応が出ぬか。ただの人間であれば妾の血は毒と化すはずじゃが。やはりおぬし、妾達と同じく吸血鬼じゃな?」
「……はーあー、あー。ゔぁ…?」
「うむ、吸血鬼じゃ。しばし経てばだんだん呂律も回るようになろうて。とにかくこのままこの場に居続けるのはまずいのでな。妾の家に案内しようぞ」
少女はゆっくりと私に合わせながら歩を進める。
しばらく歩くとボロボロに風化して今にも崩れ落ちそうな遺跡群から小さな雑木林に入り。
やがてそれは生い茂る森になった。
道らしき道はないけれど、少女は来る時も同じように抜けたのだろう。
確かな歩調で迷う事なく進み続け、やがて森を抜けると街道が見えた。
「で、どうじゃ。そろそろ喋れるようになってきたかの?」
街道に沿ってゆっくりと歩く最中、そろそろ頃合いと見たのか少女が話しかけてきた。
「んんっ…はぃ。あの、ゔぁんぱいあ…って」
「うむ。読んで字のごとく吸血鬼じゃ。血を啜らねば生きていけぬ者達。中には例外もいない事もないのじゃが……」
少女はそこで少し一息入れると、悲しげな目をしてさらに続ける。
「ほとんどの者にとって血の枯渇は自我消滅の危機を意味するからの。渇望を抑えるのはとてもよい心掛けじゃと思うが、限度を超えてはならぬ」
ここらには、そうして遺跡に迷い込んだまま血が枯渇して自我消滅した成れの果てがおるのじゃよ。
そう解説する少女は見た目の年齢からは想像できないような悲しげな表情を浮かべ、堕ちた同胞を心から悼んでいるようだった。
と、そこでふと彼女は私を見るとフッと柔らかく微笑む。
「そういえばまだ名乗っておらなんだかの。妾の事はアリアと呼ぶがよい。各地に点在する遺跡を発掘調査しておる。おぬしはそんな遺跡の一つで眠っておった訳じゃな」
「ありあ、さん……?」
「ただのアリアでよい。カタ苦しいのは好かんからの。おぬし、名は?」
「私の、なまえは……えっ、と……?」
そもそも私はなんと名乗ればいいんだろう?
何も思い出せないのでは名乗りようもないと思う。
そんな私を見かねたか、アリアは察したようにうなずいた。
「ほむ。さっきの反応からうすうす思っておったが。おぬし記憶を喪っておるな? 強い渇きを癒せぬまま長い時を過ごすと、やがて記憶を喪い果ては自我をも喪う。恐らくあの場で渇きを癒せぬまま眠り続けている間に記憶の大半を喪ってしまったのじゃろう」
「そんな、ことが……」
「そんな事が起こり得るのじゃ。何にせよ、自我までをも完全に喪う前に救い出せてよかった」
心から安堵の笑みを浮かべて、つぶやくアリア。
ただただ私は幸運だったのだと今更ながらに思い至り、たどたどしくも礼を伝える。
「ありがとう、ございます……」
「気にするでない。妾が好きでやっておるだけの事じゃ。とはいうものの名がないのは不便じゃな」
アリアは少しの間うぅーん? と悩んで言った。
「とりあえず……そうじゃな、名前が思い出せるまで、しばらくはルヴェと名乗るがよい。おぬしの目、ルビーのようにキレイな真紅をしておるからの」
「しんく……?」
「なんじゃおぬし、自分の見た目すらも思い出せぬのか?」
少しあきれたように、それでいて困ったようにため息を吐きうつむくとふるふる肩を震わせる。
「えっと、あのその……」
しどろもどろになる私の前で、急にガバッと顔を上げたアリアは、その透き通るような目をキラキラと輝かせていた。
「これほどに長く美しい黒髪も、抜群によいスタイルすらも忘れてしもうたのかの!?」
「あ、あの……」
「おぬしのこの優しい香りも、その澄んだ瞳も。真っ白な玉肌も! おぬしは全て覚えておらぬのか!?」
そう詰め寄られても何も思い出せず、目覚めてからも鏡は当然一度も見ていない。
でも自身の容姿すら忘れてしまったのは、確かにいくらなんでも忘れすぎだと私も思う。
「あの、よくわかんないですけど……すみません?」
「おぉっとすまぬ、つい気が早ってしもうた。妾の悪いクセじゃ、つい可愛い子を見ると愛でてしまいたくなるの……」
自身の先程の様子に思い至ったのか、アリアはぽっと顔を赤らめて咳払いをした。
「コホン、ともかくじゃ。自我消滅寸前で理性を取り戻せた存在を見たのは後にも先にもおぬしだけじゃ。非常に興味深いのでな。おぬしの記憶を共に探してやる代わりに、妾の研究対象になってくれんかの?」
笑うアリアは無邪気でありながら理知的で、気付けば私はよく分からないままにうなずいていた。
それはよい。よろしく頼むぞ。
そう言って喜ぶ彼女は、とても魅力的だった。
「遺跡とは数千年前に極度に発達していた旧文明のものであり、今ではそのほとんどが再現不可能なロストテクノロジーの塊である」
ーーーとある遺跡研究者の論文より




