始まりの台地Ⅱ
いろんなことに頭が追いつかないまま倒れた木のところまで戻ったリュートは、もはや開き直ることにした。
「とりあえず、走るか」
見渡す限り谷以外には何もなかったので、脱出のためにはさっきの谷とは逆方向に向かわなければならないだろうと進路を決めると、善は急げとばかりに走り出す。
この体なら速く走れそうだと思ってのことだが、案の定、足が嘘みたいなスピードで前へ出る。
わけのわからない世界で生き抜くために体を鍛える。少なくともあのときの選択は間違っていなかったらしい。
「うわっぷ!……へげッ」
「……。」
感覚で1kmも進まないうちにリュートは力なく足を止めた。
この感触、どうやら体は鬼のように強化されているが、感覚はそのままらしい。
つまり、足がとがったものを踏めば痛いし、恐るべきスピードで迫ってくる小枝や障害物は反応が間に合わず回避不能。鞭打たれ状態。体を鍛えても反射神経がそれに付随するわけではない。戦闘訓練をしてきたわけではないのだから当たり前だ。
身体が強化されているので実際に傷やダメージにはならないようだが、感覚的には痛いし不快だ。
「これじゃあ愚図のトロールだな、まるで。現状走るのは無理だぞ……少なくとも靴を手に入れて、開けた場所でもない限りは」
やむを得ず移動を徒歩に変えて一昼夜当てもなくひたすら同じ方向へ進んだ。体力があるので、このくらいなら眠らなくてもさほど支障はなさそうだった。
空腹はサディーのお菓子でとりあえずはしのげる。
深い森では夜の訪れも早く、空はまだ明るい時間だが草木をかき分けて進むリュートの手元はすでに不安げになってきている。適当な場所が見つかり次第歩みを止めることを決めていたリュートは、苔の生えた大岩の手前で足を止めた。
しばらく探しながら歩いたが、こう言うときの鉄板である洞窟などそう都合よく見つかるはずもなく、地面が安定して少なくとも壁を背にできることからこの場所に決めたが、道具もない野営となるとどうして良いか全くわからない。
「道具もなしにこの視野で狩りは現実的じゃないな……空腹はそこまでではないけど、とりあえずサディーのお菓子を確認するか」
袋の中身を出してみると、それぞれこぶし大のカップケーキのようなものが2つと、溶かした砂糖のかかったパンのようなものが3つ入っていた。
貴重な食料だ。食べるのは一旦保留することにした。
気休め程度だが少しオーバーハングした岩の根本に寝床を決めたリュートは、地面を手頃な石で叩き始める。これも気休め程度だが、こうすることで地表付近にいる虫などを殺し、地中のものを振動で追い払う効果が期待できる。昔この世界の父アルマが野営の際にそうしていたような記憶があった。
知らない土地である以上サソリやムカデのような毒虫がいないとも限らない。
叩いた地面に集めてきた厚手の苔を敷いて横たわると、ひんやりとした苔が昼間の移動で疲れた体を冷やし、思いの外快適に眠りに付くことができた。
翌朝、夜明けとともに目を覚ます。
鬱蒼とした木々の間を朝もやが漂い視界はあまり良くない。随分早い時間のようだが、同じ場所に長居する意味はないので早々に行動を開始する。
今日の移動のための栄養として砂糖パンを一つ食べたリュートは早々に移動を再開した。
この辺りの地面には枯れ葉がたくさん溜まっていて、足に優しい反面ぬかるみなんかは隠れてしまっていて注意が必要だ。
湿った落ち葉の積もる地面を素足で歩くのはなんとも言えない不気味な感覚だ。否応にも土中をうごめく虫たちや菌の存在を意識せずにはいられない。
森は行けども行けども木々しか見当たらず、この日も実感できる成果は得られなかった。
それでも同じ方向――勾配の低い方へ黙々と足をすすめる以外に選択肢はない。
さしあたっての問題は水分だ。朝露でなんとかしのいでいるが、今のリュートの体とは言え移動も考慮にいれれば3日ほどが限界だろう。勾配の低い方へ進んでいるのは川を探す意味もある。
「ああ、あれは…」
苔むした倒木を乗り越えた先に、大きな赤い実をつける幹の細い木が見える。
この森は湿度も高く、どうやら熱帯性の気候のようで、実はこれまでにも赤や黄色の実をつけている木々は何度か見かけていた。今まで見てきたものはどれも取れるような位置ではなかったが、今回はうまくすれば収穫できるかも知れない。
この赤い実も見かけたことがある。幹や枝が細いため登って取ることができず今まで諦めてきたが、目の前にある一番低い場所のものなら横の木に登って手を伸ばせばなんとかなりそうだ。
根本に荷物を置いて木登りを開始すると、思ったよりも楽に登ることができた。おそらくこの体の身体能力のおかげなのだろうが、それでももう一歩のところで手が届かない。木にしがみついた無理な体制では手を伸ばすことができないからだ。
「ダメか…。いや、これなら、どう、だッ」
リュートは体を揺らして反動をつけると目的の位置に向かてジャンプ。
首尾よく果実を掴むが、問題は着地だ。実をもぎ取った反動で勢いが減衰し、当初の着地位置だった先程の倒木までは届かないかに思えたが、ここでも明らかに自分のものとは思えない身体能力が発揮され、猫のような姿勢制御で体制を整え、着地に成功。
「おお……まるで野生動物だなこの体は。けど危なかった、地面の見えない場所に落ちて隠れた枝なんかが刺ささりでもしたら……」
リスクを考えればジャンプは適切ではなかった。
後いくつか見は残っているが、さっきもぎ取ったものと、衝撃で落っこちた2つを拾って後は諦めることにした。
それからまたしばらく進み、少し早いが良さそうな場所を見つけて寝床を決めた。
この日の収穫物は、こぶし大の赤い実が3個と、岩場で時々見かける宝石のようなものだ。
赤い実は甘そうな匂いがしていかにも食べられそうだが、念の為ぎりぎりまで食べてみるのは保留することにした。有毒も無毒も自分で試してみる以外に方法がないためだ。万が一こんな場所で毒や下痢で脱水にでもなったらもはや助からないだろう。
「宝石の方は……、こんなにゴロゴロしてるんだから多分ここだとありふれた石なんだろうけど」
それは純度の高い氷のように透き通る石で、日に透かすとわずかに薄紫と薄青のグラデーションを帯びている。それらは主に岩場付近に落ちていることが多く、大きいものは一抱えほどのものも見かけるのであまり希少なものとは思えないが、ただキレイだったのでリュートは野球ボールくらいのものをいくつか拾って袋に入れていた。
――今は不要なものだけど、なにせこの体だと余裕で持てるからな。邪魔になったら捨てればいい。
何かそうした楽しみでも見つけて行動していないとどうにかなりそうなほどみじめな気分だった。
こんなものでも自分で見つけたものだと思うと幾分寂しさも和らぐような気がする。
たとえば、ここが森林の奥地なんかだったりすると人が住む集落にたどり着くのは絶望的だ。
それでも歩みを止めるわけにはいかないリュートだが、人の痕跡を探すより食料や居住できる場所など当面の生活を安定させるのが先決かもしれないとも考えた。
しかし、下手に居を構えてしまうと生活の維持が優先になり探索が遅れることは容易に想像できる。少なくとも体力に余裕のあるうちはなるべくでも進んでおきたかった。
そもそもこの山をいずれは降りないといけないことに変わりはない。
ここに村や街があるとはとは考えにくいし、降りてからも街までは遠い可能性も十分に高い。
――せめてどこかなだらかな場所があればいいが。あの岸壁のような場所ではとても降りられるものではない。まあ、人間が存在すること自体確実とは言えないのが現状な訳だけど。
森に来て三日目を迎えた。
できれば積極的に水場を探したいが、指標もなく現在のルートそれるのは意味がない。結局は歩を進めることしかできないのがもどかしい。いよいよ空腹も我慢できなくなり、この日はサディーの菓子を2つ食べた。
残りは2つ。喉の乾きはより深刻で、限界は近い。
さらに翌朝、この日はすぐには移動を開始せず、火起こしをためしてみることにした。
今まで菓子を食べるだけで必要性を感じなかったが、今日からはそうも行かない。何れにせよ何らかの食材を調理しなければならない状況は差し迫っているし、水を見つけても生で飲むのは危険だ。
最悪煮沸ができれば水たまりの水を飲むという手もある。水たまり自体はたまに見かけるが、やはり危険はあるようで、それは最後の手段にしろというのもアルマの教えだった。
いよいよ長期の滞在も視野に入れなければならなくなってきていることは否定できない。
結果から言うと、火起こしは失敗に終わった。
火の起こし方はわかる。要は何かをこすり合わせて摩擦熱で火種を作ればいいのだが、その方法がわからない。
「ふむ……」
リュートは両手に持った棒切れを擦り合わせる手を止める。
頼りの父の記憶も役に立たない。
おそらく火打ち石か何かの専用の道具を使っていたように思うが、当然手元にそんなハイテクなものはないし、家での煮炊きは何か道具でしていたように思う。
――おそらくやり方が間違っているんだ。両手に持って擦るだけじゃダメだ。
これまでの経験から、リュート本人の記憶として覚えている知識は食器の使い方、喋り方、服の着方といったごく一般的な知識だけであることがなんとなくわかっていた。それと、この体が持っていたいくらかの知識だが、これも数十年前の記憶という体感なのであまりあてにはできない。
――つまり、摩擦熱で火を付けるということ自体はごく一般的な知識で、けど、正確な方法というのは誰もが知るようなものではなかったということか。もっというのなら、もともと俺がいた世界ではこの着火方法は知られてこそいたものの、火を付ける際に一般的に使われる方法ではなかったと推測できる。おそらくこの世界のアルマのように何らかの専用の方法か器具が必要なのだろう。
火の付け方は思い出せなかったものの、抜け落ちている記憶について少し推測が進んだのは多少の進歩だった。
昼まで色々試してみたもののやはり火はつかず、根本的な方法がわからないと無理だと諦めたリュートは歩を進めることに決めた。これ以上成功の見込みの薄い挑戦に時間と体力を使うわけにもいかない。
標高が下がってきたせいもあるのか、夕暮れ時になると大きめの甲虫が進路を横切ることが増えてきた。
「クソッ」
一向に先の見えない道行きへの苛立ちと焦燥もあり、苛立たしげにそれらを棒切れではたき落としながら進む。
限界まで進んで、流石に足元が暗くなる頃になんとか手頃な宿泊スペースを見つけることに成功するが、そこも甲虫たちがたむろしており、どうやら害はなさそうだが一緒に寝る訳にも行かないので棒ではたき飛ばす。
何匹目かの甲虫が棒に叩かれて死んだのを見送ったその時だった。
甲高い音がして、突然リュートは視界をまばゆい光に遮られる。
「うわッ!?」
驚いて飛び退くリュート。
一瞬おいて目が慣れると、目の前に光のウィンドウが浮かんでいた。
「な、なんだこれは……?」
―――――――
レベル:0→1
記憶の欠片"黃"を獲得しました。
すぐに使用しますか?
Yes/No
―――――――
簡素なウィンドウには最低限の情報が記されていた。
「レベル……記憶の欠片??何なんだ、一体……」
獲得したと書かれているが、辺りには何もない。
内容からするにおそらく物質的なことではないのだろう。
しばらくウィンドウを見ながら考えたリュートだったが、順当に考えれば召喚前の記憶が戻るということではないだろうかと、他に考えようもない。
――レベルの上昇で獲得したということは何らかの報奨の意味のあるものだろうし、害のあるものとは考えにくい。……そうなれば使わない手はないか?
いや、といより俺はこれが使えることを知っている……。
リュートが心を決めてYesの文字に触れると、ウィンドウは黄色い光の粒子となって消えた。
「……?何も起こらない?」
これといった変化は見当たらない。
もちろん記憶が戻っているということもない。
しばらくして、先程の光につられて甲虫や獣が集まっていないかと辺りを探るが、そちらも変わった様子はないらしい。
「なんだったんだ一体……?」
結局詳細はわからないまま、最後の菓子を食べると地面に横たわる。
目をつぶり翌日の予定を立てて眠ることにした。
――と言ってもやることは同じか。
ただ明日からは本格的に食料を探しながら進む必要がある。
3日……。明日水場が見つからなければ水たまりの生水を飲むことになる。それでも数日が限界だろう。
その間に森を出られなければ、しばらくこの森の中での生活を覚悟する必要がある。
その意味でも食料調達を開始しなければならない。となるとやはり火が使えないのが……。
不意に飛び起きるとリュートは袋の中に手を突っ込んで目的のものを探す。菓子が減って空いた容量にいろいろなものが入っている。
例の食べられそうな実や宝石、平たい石、丈夫そうな蔦……。
「これだ!」
リュートが取り出したのは火起こしセットだ。
火起こし自体は断念したものの、その時集めた乾いた枝葉とふかふかしてよく燃えそうな何かの穂先は使えそうなので一応仕舞っておいた。他にもそれぞれ用途は未定ながらも使えそうなものは入れている。こんな場所では必要な時に必要なものが手に入るわけではないし、何がどんな形で役に立つかわからない。
取り出した手頃な枝の両端に蔦を結びつけ、交差させたもう一本の枝に巻きつける。さらにその先端を大きめの枝の窪みにあてがうと、そこに穂先を置いておく。
「そうだ、この形だ……!」
垂直にした枝の上端を平たい石で押さえつけると、巻き付いた蔦の力を利用して、水平の棒を上下させることで回転と反回転を繰り返す。
鍛錬で得た筋力もあってのことか、記憶より幾分早く火種ができ、穂先、枯れ葉へと移すと十分信頼できる火力にまで成長させる。
「……これで一安心だ。獣や虫よけにもなるだろう」
手早く集めてきた枝や大きめの薪を焚べたリュートは木の幹によりかかり一息つく。
考えることが多すぎて失念していたが、ここには狼のような獣がいる。寝込みを襲われては流石にひとたまりもない。
――さっきはわからなかった火起こしの記憶が今は補完されている。これが記憶の欠片の効果と考えて間違いないだろう。
要は全部集めると全ての記憶を取り戻すって感じか……せめてMAXが何レベルかくらい教えてほしいものだが……。
リュートがこのシステムを無理なく受け入れられ、概要を大まかに理解できていたのはレベル0で得た恩恵であり、レベル1の記憶はボーナスとして一番必要な記憶が得られるため、本来もっと重要なことがあったかもしれないが、彼がそれを知ることは永遠にない。