始まりの台地Ⅰ
ドンッという突然の衝撃が全身を揺らす感覚。リュートは急激に意識を取り戻す。
ときどき寝ているときに体がビクッとして目が覚めることがあるが、まるでそんな感じだった。
「ああ、この感じは……」
――一体いつの間に眠ってしまったんだ!??
最後に衛士長に告げられた人造勇者の研究のことが頭をよぎる。
国は一向に恭順の姿勢を見せず、脱走を繰り返すリュートを更生の余地なしと判断したらしく、自分たちに都合のいい人材を勇者にするという実験を始めると言う話だ。
姫が去った後やってきた衛士長にそう告げられたところまでは覚えている。
その後しばし呆然と冷たい石の床に横たわっていたはずだが。
――そうだ、実験……!まさかもう実験体として何かされたのか……?
衛士長の去った後、リュートは横たわったまま待つともなしに昼の食事を待っていた。眠った覚えはない。今までにも食事前に随分疲れていたことはあったが、昼間にそのまま眠りこけたことなどなかった。
飛び起きたリュートは、覚えのある感覚に直感的に感じるところがあったが、ひとまず体の状態を確認する。上体を起こすとぐっしょりと冷や汗をかいていて、指の間がジトりと湿ったようで気分が悪かったが、異常はなさそうだ。
視線を上げて、辺りを見渡す視界は緑に覆われていた。
どうやらここは森の中らしい。
「は??どこだよここ……。どうやら実験て雰囲気じゃない……みたいだが。――てことは、やっぱり酷い夢だった……ってことか?戻ってきた……?」
先程の覚えのある感覚は、この世界に引きずり込まれたときのそれとよく似ていた。そのためリュートは直感的に、希望的観測として、元の世界に戻ったのではないかと考えたのだった。
しばしうなだれて先程までのこと思い出す。
思い返してみればおよそ悪夢と言って差し支えない。
――ひどく長い夢を見ていたものだ。いきなり見知らぬ土地に召喚されて、使えないと見るや投獄……。よくもまあ3年間も閉じ込めてくれた。
それはまるで実体験のように鮮明に、その月日の長ささえも思い出すことができた。
疑いを持って考えればとても夢とは思えないほどに。
「今日は何日だったか……それにしてもいつの間に眠ったんだ、そんなに疲れて――!?」
実験が行われたわけではないという安堵と、元の世界に戻ったという感慨で深くは考えなかったが、考えてみれば森の中で意識を失っているというのはそもそも異常だ。
「!?」
突然尻のあたりにチクリと痛みを感じた。
「イテッ!なんだ!?って、なんで俺は……服は!?」
まだ状況確認も出来てないにもかかわらず次々と持ち上がる問題に頭が追いつかず、混乱しながらも慌てて辺りを手で探る。すると指先に布地の感触が触れた。しかしとにかく何か身に纏おうと引き寄せたそれは明らかに服という形状ではない。
見覚えのある袋だ。
嫌な予感がする。
一旦その物体は意識から追いやり、しばし呆然と辺りを見回すリュート。見事に木しか見当たらない。落ち着いてくるとだんだん不安に駆られ、辺りをうかがうよう立ち上がる。
「一体どこなんだここは……というか俺はどうなったんだ?……拉致?いや、それはすでにされてたんだけど……いや、違う、アレが夢だったとすると俺は……、ダメだ、思い出せない……。」
仮に元の世界に戻っていたと仮定して、眠る前に何をしようとしていたのか思い出そうとするリュートだったが、全く記憶がない。思い出されるのは異世界での少年時代、父に連れられて何度か山越えをした記憶と、幽閉された数年のことばかりだ。
「ダメか……、いやそれより今はこの状況だ。アウトドアの知識なんてないぞ、まさかここで野垂れ死にしろってんじゃないだろうな……」
やはりどう目を細めてみても人間の視界に見える範囲に人工物とおぼしきものは見当たらない。
聞こえてくるのもワサワサという大きな葉が擦れ合うような音と、虫や鳥の声ばかりだ。
「……。しかたない」
リュートは手近な低木の枝を折ると、それで前を隠し、袋を首から下げてひとまず辺りを確認しようと歩き始めた。こんな森の中で一体何から隠しているのかは不明だが、着衣生活に慣れた現代人の常識は素っ裸では平常心を保つこともままならないらしい。
後ろはいかにも鬱蒼とした森。所持品は巾着のような紐のついた袋が一つだけ。服さえも失って、あまりにも心細く理解不能な状況だが、ここにとどまって死を待つわけにも行かない。
進路を森の出口を期待して明るい方へと決めて、せめて道でもいいから人の痕跡あればとさまよい歩く。
しばらく行くと、予想した通り鬱蒼とした木々が割れて光が強くなり始めた。どうやら前方の茂みを越えれば開けた場所へ出られそうだ。
リュートは早足になりガサガサと雑に茂みへと分け入る。
「ふぅ、とりあえず抜け出――……え?」
下生えと背の高い草をかき分けて勢いよく飛び出した瞬間、リュートの体はつい先ほど経験したような浮遊感を再び味わった。
ただし今回は下方向だ。
崖だ、と認識したときにもうとっくに落下が始まっている。
「ちょ、死……」
つぶやきむなしくリュートは数瞬地面の感覚を失った後、10m以上も下の地面にまっしぐら。
とっさに崖に手をのばすもとても届かず、落下方向に手頃な木も生えていない。
もがく手足も虚しく空を切り、次の瞬間には漫画のように派手な音もなく、ドザッと明らかに地面の硬度が勝った鈍い音とともに全身の肉が叩きつけられる感覚を味わう。
「クッ――!イッテェェ……!!」
リュートは倒れ込みながら両足でドタバタと地面をたたいてのたうち回る。多少の下草はあるとは言え、さっき叩きつけられた場所だと思うとゾッとするような地面の固さが手足に伝わってくる。
「……って、いや、待てよ」
ひしゃげたクモみたいな妙な体制で急停止するリュート。
見上げてみれば落下したのはビルで言えば4~5階ほどもある高さだ。そんなところから受け身もなしに落っこちてイテェで済むはずがない。
しげしげと四肢を確認するが痛みがあるだけで外傷は見当たらない。
ぼうと崖の上を眺めると、てっぺんより下の方を小鳥が飛んでいるような高さだった。
「……。」
むくりと立ち上がると、リュートはおもむろに手近な大木へと歩を進める。
左足を一歩踏み出し、つま先の付け根に力を入れると自然に体全体の筋肉が何かに備えるように緊張するのがわかる。
息を吸い込み、キュッとそれを肺に留めるよう口元を縛る。目一杯体をひねり、握り込んだ右手の拳を固そうな幹に向かって叩き込んだ。
ドォンという衝撃が大気を揺らし、幹が衝撃に耐え切れずバキバキと悲鳴を上げた。
常人なら拳を粉砕骨折している勢いがあったが”自分の体のことは自分が一番良くわかる”とでも言うべきか。一般人でもおおよそ殴って大丈夫そうなものかどうかという区別は外見からある程度できるが、今のリュートにとってその巨木は殴っても大丈夫そうなものに思えた。
「もう一発」
ドォォォンと地面を揺らす音に驚いた鳥たちがバタバタと空へ舞い上がる。
都合3発の拳で幹は後方へ倒壊した。
じんじんとしびれる拳を見ると、少し皮が破れて赤くなっていた。
「……なるほど」
拳を何度か握り直す。力を入れると確かに今までに感じたことのない圧力のようなものがそこにまとわれているような感覚がある。
「いるかどうかわからないけど、どうやら獣に襲われてエサになるというような未来は回避できそうだな……」
そして、心の中でははじめから分かっていた事実が、いよいよ鮮明になり始める。
――これはどう考えたって普通の人間の体じゃない。
そもそも木を殴り倒せる感覚が存在している時点でどうかしている。これは例えば、天賦の才を持ちながら数年を牢で暮らし、その間鍛錬をひたすら続けたとか、いうなればそういう人間の体だろう。
考えたくはないが、あの投獄は現実だったっていうのか?
じゃあここは一体?
それに、もしそれらが実在した過去だとするのなら、俺は昨日まで牢の中にいたはずだ、どうやって牢から抜け出した?
それともまさか何もなさぬまま投獄されてそのまま二度目の異世界転生?
開いた手のひらをじっと見つめて考える。
元の世界での記憶をあまり思い出せないリュートだが、体に染み付いた感覚や毎日繰り返した動作なんかはそうそう忘れるものではないらしい。言葉が話せたり、食器の使い方がわかるというのもそいうことなのだろう。
そして、今の体の感覚というのはそれらの記憶とはあまりにも乖離している。
3年間の鍛錬でかなり鍛えられたという自負はあるが、だからといって大木をなぎ倒せるというものでもない気がする。
あまりにも謎が多いが、推測できることもある。
まず、やはりここは元の世界ではない。この身体能力と記憶が戻らないことから考えてもまず間違いないだろう。あの投獄は夢などではなかったようだ。
投獄生活が夢であったという儚い希望にすがり意識的に避けていたが、念の為確認すると、やはり例の袋の中身はサディーからもらったお菓子だった。
もはや動かぬ物証だ。
しかしだからといって状況がわからないことに変わりはない。
「そういえば、国王の話だともとの俺はもう死んでるんだったな……」
可能性について考えてみる。
1、現状も含めまだ夢の続きを見ている――希望的観測すぎて現実的な思考ではなさそう。
2、再転移して元の世界に戻っている――先程の理由から限りなく可能性は低いだろう。
3、再度別の世界に転移している――ない話ではなさそう。
4、同じ世界で場所が移動している――一番合理的に思える。
――今の状況について考えられるのはおよそこの4つくらいだろうか。
一番マトモなのは4だろう。とはいえ、どれくらい意識を失っていたのかは不明だが投獄から一転、実験を予告しておきながら森に捨てられるというのは相当に意味がわからない。それでもそこは預かり知らぬところで王の一声があったなり情勢が変わったなり異世界行きに比べればまともな理由がいくらでも思い浮かぶ。
「にしても、ここまでくると状況を理解しようって試み自体に意味があるのかも怪しくなってくるな……」
なにか分かったところでもはや自身に解決できるとも思えなかった。
「よし、考えるのは辞めだ!というより、今はそんなことはどうだっていい。どこの世界のどこだかなんて関係ない。確実に言えるのは、ここは森だ。今他の情報があっても意味がないし……そもそもわかるはずもないか。つまりここでやっていくしかないってわけで。人里か、せめて食料でも見つけないことには野垂れ死にだ」
森の中に打ち捨てられたこの状況で余計なことを考えている余裕はない。
そんなことよりも今生き延びるためにできることを考えるべきだろう。
「……そうなると、確認しておかないとな」
先程、落下の直前、開けた視界の端にとんでもないものを捉えた気がした。
リュートは崖伝いにしばらく歩き、木立を抜ける。
「やっぱり幻じゃあなかったんだな……。なんなんだよこれ……」
切り立った崖だった。
さっき落ちた崖が道の凹凸程度に思えるほどの恐ろしい落差の崖は、もはや規模が大きすぎて正確なことは不明だが、数km以上と言われても不思議ではない。
現在リュートの立っているせり上がった土地が、飛び石状あるいは帯状となって真ん中の低い土地の周囲を取り囲んでいる。ドーナツ型のその地形は台地の外周以外が地盤沈下したと考えるべきだろうか。
「緑の谷……いや、大地のヘソみたいだ。……なんつ―場所にいるんだ俺は……」
周囲を見渡すと、壮大過ぎて距離感がよくわからないほど遠いところに、オオカミだろうか、ヤギのようなものだろうか、何かの獣が黒い点となって動いているのが見えた。