印刷室
小高い山の上に、白塗りの大きな建物が見える。上から見ると、丁度カタカナのコの字のようにも見える建物であり、外から見るかぎり、4階建て。正門から入ると大きなグラウンドが出迎えてくれる。
ここ、S中学校には毎年約800人近くの生徒が通っている。
特に、部活動に熱意があり、バスケットボール部は昨年度の大会にて全国大会優勝。水泳部でも同様の結果が出されている。文化部では、吹奏楽部が金賞。将棋部も県大会で優勝と華やかな実績を誇っている。部活動の種類も多岐に渡り、入学時には、生徒一人一人必ずいずれかの部に所属する規定が定められている。
「はあ」
盛大な溜息をつきながら、2階の渡り廊下を歩く人の影。顔は伏し目がちでよく見えないが、体系はすらりとした女。髪は後ろで一つにまとめて結ばれている。
「今日も駄目だった。文化祭に間に合わないよ」
項垂れながら歩く彼女、七海は文芸部の部長である。来月に文化祭を控え、その時に展示及び販売する為の文集を1部両手で大事に抱え込みながら歩いている。
先程、印刷室に向かい、完成した原稿を200部程刷る予定であったが、他の部活動の生徒が占領しており、全く印刷出来な日々が続いていた。教師に相談を何度も行ったが、
「皆で仲良く使ってほしい」
その一言の一点張り。印刷室を占領している面子もはきはきと話す、今やクラスの中心人物とも言える集団に属するタイプだ。
七海自身、引っ込み思案であり、友達も少ない。話し声もとても小さい。部長になったのも、周りの部員がめんどくさがり、半ば押し付けられるかのようになってしまった。
今、両手でしっかりと抱えている文集も、七海一人で書き上げたものだ。総ページ数は100ページに及ぶであろうか。この学校の成り立ちや生徒数、部活動の種類やそれぞれの活動内容についての概要、地域との繋がり等について書いている。
七海にとって、自分自身で書いた本が他の人の眼に晒されるのは、ひどく不安を感じずにはいられなかったが、周りからどんな風に評価されるのか、知りたい部分もあった。
だから、文集を締め切りぎりぎりまで引き伸ばし、何度も自分で加筆修正を加えて、やっと完成した物である。後はこの文集を印刷し、綴じていけば終わるのだが。
「いつもどこかの部活動が占領してるから印刷出来ないのよね」
早く印刷したいという気持ちは募る一方ではあるが、毎日毎日空きが無い。締め切りも迫っている。
「全く候補が無い訳じゃないけど」
七海の頭の中で学校の噂が想起される。
印刷室は二つあり、その内の一つは生徒や先生が利用する第一印刷室。実は第二印刷室もあるのだが、この学校の七不思議の一つにも分類されるほど、怪しげな場所だ。
そもそも、印刷室であるのに、コピー機が一台しか置かれていない。さらに、鍵は職員室内に置いてあるが、持ち出そうとすると教師から盛大に怒鳴られ、入ることを禁じられている。理由は不明である。
その為、噂が噂を呼び、学校の七不思議にされている。噂には続きがあり、コピー機から髪の毛が出てくるや、人の顔が印刷される等、どれも陳腐な代物であり、信憑性が無い。
「第二印刷室行くだけ行ってみようかな」
噂等全く信じない七海にとって、第二印刷室はもはや最後の希望となっていた。もしかしたら、鍵が開いているかもしれない。その一縷の望みを持って、渡り廊下を小走りで渡っていく。
「やっと着いた。ここで合ってるよね?」
七海が疑問に思うのも無理はない。第二印刷室は二階の一番東側の角に位置している為周りは薄暗く、人の気配すらしない。第一印刷室での喧騒が嘘であるかのようだ。
「開いてるかな」
第二印刷室のドアノブに右手をかける。この校舎は全ての室内がサムターン錠の鍵を採用しており、ドアは押すか引くかの二択に絞られる。さらに、外側から開ける場合は、必ずドアノブを捻り、押して入る形となっている。その形式を思い出しながら、七海はドアノブを捻り、ドアを押そうとした。
しかし、ドアノブは回るが、ドアは押しても微動だにしない。反対に引いてもみたが、やはり動かなかった。
「やっぱりだめ。また明日第一印刷室に行こう」
そう呟きながら、後ろを向き、元来た道を歩こうとした瞬間、
カチャリ
サムターン錠の降りる音がした。この場所の周辺には部屋が無い。さらに音の出所は七海のすぐ後ろであった。
「中に誰かいますか?」
ドアを開けず、少し大き目の声で、第二印刷室のほうに呼びかける。しかし、反応が無い。先ほどの音が幻聴であるかのようだ。
「入っていいですか?入りますよ」
やや不気味さを感じながら、恐る恐るドアノブを捻り、ドアを押す。開いた。七海はすぐに室内に入らず、ドアを半開きにしたまま中の様子を探る。床はどの教室とも同じ色の薄茶色をしている。長年使われていないせいか、うっすらと埃をかぶっていることが、すぐに見て取れた。窓はドアの正反対の場所に位置しており、もちろん閉められている。
「失礼します。入りますよ」
怖々と口にしながら、足を一歩ずつ踏み入れていく。床を踏む度に埃が舞い、歩いた後は、雪の上のように足跡がくっきりと残っていた。室内を見渡す。約10畳ほどのスペースの真ん中に大きなコピー機が一台。ただそれだけが鎮座しており、机や椅子、本棚すら見受けられない。何より、
「誰もいない……」
そう、誰もいない。窓には鍵が掛かっており、窓から出て行ったとも考えられない。もう一度室内を見渡すもやはり誰もいない。七海のみである。
「気味悪いけど入ること出来たし、印刷も早くしたいから、ここでコピーしよう」
一抹の不安を感じながらも、コピー機に近寄る。コンセントが差さっていることを確認し、コピー機の上にうっすらと積もっていた埃も制服の袖で払う。印刷用の用紙もカセットを開き、枚数分あることも確認済だ。コピー機の電源を入れ、原稿をセットし、必要部数の数値を入力しコピー開始のボタンを押す。
すぐにコピー機は動き出し、印刷を始めた。出力されてくる用紙を見て、インクもあることを確認する。
「良かった。これで間に合う」
安堵の息をつき、コピー機から出力されてくる用紙を見続ける。ふと、違和感を感じた。
「あれ?何だか文字が滲んでる?」
出力された用紙の右上「春」の漢字が線一つ一つが判別できない程、まるで上から水滴を一粒落とされたかのように印刷されていたのである。
「何でだろ。インクも開けて確認したのにこれじゃあ、意味ないよ」
七海はすぐに印刷中止のボタンを押す。用紙は変わらず吐き出し続けられる。
「あれ、何で?故障?」
疑問に思いながらも、何度も印刷中止のボタンを押す。何度も。何回も。しかし、用紙は一定のペースを保ちながら出力される。そして、不思議と用紙を手に取り続ける自分自身の姿。
「嫌だ。嫌だ。何で、手が、止まらないの」
出力される用紙を手に取り続ける事が義務であるかのように、すぐに用紙を取り上げてしまう。嫌でもインクの滲みが拡大していることに気付く。用紙自体も、徐々に濡れてきていることが分かる。
「はあ……はあ……はあ……」
噴き出す汗が止まらない。拭う事すらままならない。用紙に着目していた視線が今はコピー機の下に移っているからだ。
コピー機の下から、水が溢れ出してきている。しかし、コピー機は止まらない。取り出す手も止まらない。もはや、紙の原型は無くなり、水から引き揚げたかのような物質となりはてている。正直、手に取るのも気持ち悪い。けれど、手は止まらない。
「誰か。助けて。助けて!」
声の限り叫ぶが、誰かが駆けつける気配すら無い。窓の外はすでに日が沈みかけている。
ふと、右肩に生暖かい感触があった。床に張り付いていた視線を無理矢理引きはがし、
右肩に眼をやる。血にまみれた右手がそこにはあった。
「きやあああああああああああ!!」
七海は早く気付くべきであった。埃にまみれた床。ドアを開けた瞬間に自分の足跡以外に、他の足跡があったかどうか。その確認を怠っていた。その時から、すでに異形に手招きされていたことを知らずに、自ら踏み込んでしまった。
後日
一人の生徒が行方不明である報道がひっきりなしに続けられていた。学校内から忽然と姿を消したとの事。懸命の捜索も虚しく、見つかることは無かった。
廊下を行き交う生徒達の間で、印刷室の噂が飛び交う。
「例の事件って。文芸部の人でしょ?」
「印刷室行ったんじゃない?だから……」
噂は更に広まり続ける。第二印刷室は今日も誰かが来ることを待ち続けている。