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その女は黒髪で

作者: ざぐる

 哲也はひとつため息をつき、壁にかけられた時計を見る。


 11時45分。


 あと15分で休日だ。大きな雨粒が窓をたたいていて煩い。こんな天気、こんな時間にわざわざ髪を切ってほしい客など来ないだろう。店長も今日は早上がり。15分早く店じまいをしたところで咎める者はだれもいないな、と、箒を片付けながら考えていた。


 哲也が務めているのは小さな町にある、「ベアトリーチェ」という小さな美容院で、忙しい社会人のために深夜まで営業をしている。

 ・・・というと聞こえはいいが、数年前に店の経営が危なくなった時に店長が考えだした苦肉の策である。経営は何とか持ちこたえているが、右肩上がりになる兆しは一向にない。


 11時52分。

 

 ーーチリンリン。ドアのベルの音が湿気た部屋に来客を告げる。


 帰ろうと思った矢先にこれだ。さっき戸にかけてある「open」の札を裏返しにしておくべきだった。哲也は心の中で舌打ちをした。


「もう、終わりかしら?」


澄んだ女の声だ。


「いいえ、まだです。」


「そう、よかった。」


少しぶっきらぼうになってしまった。視界の端に映る女は赤いレインコートを着ていて、傘立てにさらに赤いびしょ濡れの傘を入れているところだった。美人でなかったら追い出すぞ、と思いはするが仕方ない。これも仕事だと言い聞かせる。薄っぺらい笑顔を張り付けてくるりと振り返った。


 次の瞬間哲也は先ほどまでのいらだちをすっかりと忘れていた。まれに見る美人だったからである。そしてその女は黒髪で、それはもう息を飲むような美しさの黒髪で、長くまっすぐに伸びた漆黒のそれはたっぷりと腰の長さまであった。それが雨に少し濡れていて、女を一層妖艶に見せていた。


「上着と荷物をお預かりします。」


「ありがと。」


「よろしればこちらにサインをお願いします。」


「ええ。」


女は鞄(これも赤い)とレインコートを脱いで哲也に渡す。コートの下から出てきたのは目が覚めるような青いワンピース。この季節にしては少し薄手で、胸元が開いている。体のラインがくっきりと分かるそれは女のスタイルの良さを引き立てていた。哲也は心の中で万歳と叫んだ。店を閉めなかった先ほどまでの自分に感謝すらした。この美しい人を独り占めできる喜びをかみしめながら渡される鞄とまだあたたかいレインコートを所定の位置へと持ち運ぶ。コートからはほのかに降水の香りがして、それがさらに哲也を陶酔させた。


 ーー青田美紅。女の名は青田美紅というらしい。芸能人のサインのような形の字であった。


 髪を洗うためにシャンプー台へと誘導する。心臓の鼓動が大きくうまくやれたかどうかは不明だ。女を座らせ椅子を寝かせる。少し惜しい気はしたが顔にタオルをいつもよりも慎重にかけ、髪を持ち上げた。絹の糸の束ははたしてこれ以上の触り心地なのだろうか。少しも絡まっていない、潤いのある髪質。暫くこれといった会話はせずに髪を洗うことに没頭してしまった。手に絡みつく黒髪がいとおしい。思わず哲也の顔がほころんだ。


 髪を洗い終わり、女を席へと連れていく。椅子に座った彼女と鏡越しに微笑みあった。


「あのね」


先に女が口を開いた。


「バッサリと切っちゃってほしいのよ。」


「・・・え。髪を、ですか?」


「あらやだ。ここ美容院でしょ?」


髪の毛以外、何をきるの、といっておかしそうに笑った。肩の上のところまで、文字通りバッサリと切ってほしいらしい。雑誌を楽しそうにパラパラとめくる女とは別に、哲也の心は重く沈んだ。ハサミを入れるのがこれほどまでに苦痛になったことが一度もない。バサリバサリと落ちてゆく髪の毛の束を見て、踏んで、時に叫んでしまいたくなった。


「あたしね、さっき恋人と別れたの。」


唐突に女は話し出す。恋人という単語をきいて哲也の心は一度大きく跳ね上がった。


「それで髪の毛を切ろうと思ったんですか?こんなに綺麗なのに・・・。」


「あら、ほめてくれるの?うれしいわ。でも、ええ、そうよ。彼がとても好きだったのよ、あたしの長い髪が。」


今しがた恋人と別れたにしては不自然なくらい陽気な声だった。哲也は女の元恋人を呪いたくもなったし、また、賞賛したくもなった。元恋人に対する勝手な思いが哲也の思考を支配する。哲也のそんな気とは裏腹に、女は楽し気にほかの話へと移る。哲也は相手こそしていたものの、やはりそのほとんどは聞き流していた。


 いよいよ女のうなじが見え始めたころ、哲也はピタと手を止めた。いや、本当は止めてはいけないところだったのかもしれないが、その衝撃を前に哲也の手は動くことを拒んだ。


「あらやだ。気づいちゃった?」


女は先ほどと変わらず陽気に尋ねる。


「それ、さっき話した元彼につけられたのよ。そのおっきな痣。もうびっくりでしょう?」


そう。大きな青紫色の痣が女の首筋に走っているのだ。これ以上切ってしまうと、どうぞこの痣を見て下さいと言っているようなものである。


「い、いいんですか?その・・・」


「ええ。そのままお願い。」


哲也は何食わぬ顔で切り進めていたが、途中何度か鋏を落としてしまった。


「最初はこんなことするような人じゃなかったのよ、彼。」


女がどこか遠くを見るような目で哲也に語り掛ける。


「でも彼、ちょっと焼きもちやきでね?ほかの男の人と話そうもんなら!それで先月辺りから、もう、終わりかしら?ってなって。あらやだ、あたしったら。なんだかごめんなさいね?」


いえ、構いませんよ。哲也は彼女の顔色よりも、自分は今綺麗に笑顔を作れたかどうかを心配した。元恋人の話をする女はいかにも楽しそうであったが、強がっているように見えるときもあった。


 別れは意外にも男から切り出されたらしい。女はそれに応じ、もう髪を長くさせている必要もなくなったのだし、すぐにでも切り落としてしまおうと、深夜まで営業しているベアトリーチェに駆け込んだようだった。


 しばらくの間沈黙が二人を支配した。哲也は話を振るのをあきらめ、また女もそれをつよく望んではいないようだった。鋏を入れ、ドライヤーで髪を乾かす。すっかり短くなった女の髪は、いとも簡単に哲也の手から逃れていった。女の首へ目を移すと、やはりそこには大きな青紫色の痣がその存在を主張していた。



 「青田さん・・・本当にこれでよかったんですか?」

 

 会計を済ませ、鞄とレインコートを女へ返しながら哲也は尋ねた。


「ええ、これがよかったのよ。ありがとうね。」


ーーチリンリン。雨は止み、空が明るくなり始めていた。じゃあ、と手を振り、笑顔で去る女の後ろ姿をしばらく哲也は眺めていた。


 


 「おーい、藤田ーーー。起きなって。」


店長の野太い声がうるさい。哲也はあの後片付けもせずに入口の椅子に座って寝てしまった。「ベアトリーチェ」の開店時刻は正午と遅めなので別段問題はない。


10時32分。


外が明るい。


「おい、昨日お客様は?」


店長が支度をしながら聞いてきた。


「あ、はい。青田さんって美人が一人!!」


「美人だって?俺も拝みたかったなあ。っておい、名前の記入ぐらいさせとけよ。」


哲也は慌てて昨日女に書かせた名を確認した。すると確かにないのだ。青田美紅という、あのサインのような字が。


「髪!そうだ髪片付けてなかったんっすよ、女の人の髪!!」


散らかってなかったっすか、と少々向きになって問うてみるが、店長が来たころにはフロアには髪はおろか、チリ一つ落ちていなかったらしい。


「会計!会計済ませましたって!!!」


「いんや、昨日の岡田さんって人の会計した時と変わってねえぞ。」


店長が悠長に答えた。寝ぼけてたんじゃねえのか、お前、とだけ言って入口の方へ行ってしまった。女が確かに来たという痕跡を探そうと店内をうろついた。だが使ったタオルも見当たらなければ、カットクロスも見つからない。どういうことだと頭を抱えていると店長が哲也を呼んだ。


「おーい藤田ーー。これ誰のかわかるか?」


客の忘れ物に気付いたらしい。見ると、昨日女が持っていた赤い傘だった。


「知ってるか?」


なんて答えようか。結局女は店長の中では哲也の夢の中の住人とされてしまったし、店長が昨日帰るとき、確か傘なんて一本もなかった。


「・・・それ、俺のっす。」


「そうか、なら早いうちに片付けとけよ。」


「・・・はい。」




 ほれよ、と渡された傘は、まだほんの少しだけ濡れていた。

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