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外伝1 陳端の益州旅情

 陳端は司護に言われ、はるばる益州まで行くことになった。

「夢で天女からお告げを得た」という途方もない言葉のためにである。

 大体、益州の何処で張任や厳顔という人物がいるか分らない。

 正直、雲を掴むような話である。

 

「仕える人物を間違えていたのかな? しかし、あながち嘘とは思えないし……」

 

 陳端は不安ながらも、まずは長江の上流にある巴郡の魚復(現在の重慶市秦節)を目指した。

 魚復は後の白帝城で有名な永安であるが、この時はまだ魚復という地名である。

 周辺に住む者達は巴人と呼ばれ、漢人と一線を画している。

 

 決して裕福な街ではないが、それなりに農村では作物が採れ、比較的平和な街である。

 ただ、漢人が来るには躊躇う場所なのは間違いない。

 故に江南や荊州のように、漢の知識人が来ることはまずないのだ。

 

 陳端もまた戸惑っていた。

 仕方ないので、まずは酒場に入り、そこで近隣に厳顔や張任のことを聞いてまわるが、これといった情報もない。

 しかも困ったことに、着いた早々、鐘離昧や鞏志とは離ればなれになってしまったのである。

 暗くなってきたのにも関わらず、焦るあまり夜道を歩いていた時に、山賊に襲われたのが原因であった。

 

「困ったな……。何処へ行けば会えるのだろう?」

 

 流石に心細くなり、そう思っていると、声をかけてきた者がいた。

 陳端と同じような年頃で、齢も若く十代後半であろうか。

 少し浅黒く、間違いなく巴人であろう。

 

「君は漢人だな? 何故、こんな場所で油を売っているんだい? 塩なら分かるがね。ハハハ」

「いや、別に油を売っている訳じゃないんだ。とんでもない主命を引き受けたから、こんな事になっているんだが……」

「それは穏やかじゃないな。ハハハハ」

「笑いごとじゃないよ。それよりも君の名は? 私は広陵の生まれで、姓を陳。名は端。字を子正と申す者だ」

「これは失礼。手前は尹黙いんもく。字を思潜と申す。梓潼の生まれだ」

「ちょっと藪から棒なのだが、君は厳顔という人物を知っているかね?」

「厳顔……ね。あの厳顔さんかな?」

「おお、知っているのかね?」

「益州刺史の郤倹げきけんの下で亭長をしていたらしいが、二年程前にやめたらしいな」

「ほう……君は随分と事情通らしいな。けど、何でだね?」

「郤刺君の悪政ぶりを君は聞いたことないのかい?」

「噂でしかないな……」

「それもそうか。君は漢人だから仕方ないのであろうな」

「何分、益州へ来たのは、これが初めてだからね」

「まぁ、何だ。やめたお陰で馬相らに殺されずに済んだ訳だしな」

「だが、何故君はそんな一亭長のことを知っているんだね?」

「ちょっとした有名人だからさ。ここいらじゃ知られていないけどね」

「ほう? どんな有名人なんだい?」

「中々の武勇の持ち主だけど、曲がったことが大嫌いだから、賄賂好きの上司と揉めて逐電しちまったのさ」

「成程。そういう人物であったか。主の夢とやらは正しいのかもしれんな……」

「……夢って何だい?」

 

 陳端は主が夢の中で天女から「厳顔と張任を探せ」というお告げにより、この地へ来たと素直に尹黙に言った。

 すると尹黙は大笑いしたのだ。

 陳端は少しムッとしたが、自分でも同じ立場なら大笑いすると思い、自重した。

 

「ああ、腹が痛い……。とんでもない主だな。君の主とやらは……」

「私もまさかこんな思いをするとは、夢にも思っていなかったよ」

「ハハハ。確かに夢にも思っていなかっただろうね」

「だが、君のお蔭で厳顔殿の目星がついた。礼を言うよ」

「そういや君の主の名を聞いていなかったな。何処のどなた様かね?」

「……長沙の司護様さ」

「……長沙の……あっ!? 賊太守!?」

「……あまり大声で言うなよ」

「悪い、悪い。しかし、賊太守がねぇ……。仁君だってここいらでも評判なのに、夢でねぇ……」

「あの方は少しどころか、大分変っているからね」

「ほう? どんな風にだい?」

「一人で部屋にいると、聞いたことがないおかしな言葉で叫んでいるんだよ……」

「……大丈夫なのか?」

「他にも独り言を長い間、ブツブツと言ったりね。気味が悪くないと言えば嘘になる」

「……変わった仁君様だなぁ」

「だが、仁君には間違いない。それに何より、長沙での昨今の発展ぶりは驚異的だぞ」

「確かにそうだな……うん。面白そうだ。私もその変仁君へんじんくんに仕官してみたいのだが、どうかね?」

「変仁君は酷いな……。だが、それには異論がない。それと君は大いに見込みがありそうだ」

「なら決まったな。早速だが、厳顔さんの居場所は知っている。案内しよう」

「張任の方は知っているのかね?」

「それは私にも分らんね。だが、そのうち分かるかもしれんよ。それにまずは厳顔さんだ」

 

 二人は意気投合し、まずは厳顔がいる臨江県へと向かった。

 

 臨江県に着くと、あるおかしな一団に出会った。

 チリンチリンと鈴を鳴らしながら、派手な不良とも思えるような連中が闊歩している。

 流石に「この中に厳顔はいないであろう」と思い、両者は通り過ぎようとすると「待て!」と言われた。

 両者とも武勇にはめっきり自信がないので、恐る恐る後ろを振り返ると頭目らしい若い伊達男が、こっちを見下ろしている。

 

「この辺じゃあ、見ない顔だな。闇商人か何かだろう?」

 

 いきなりの言いがかりに陳端は心の中で舌打ちした。

「鐘離昧がいれば、すぐにでも追い払ってくれるのに……」と思ったからである。

 しかし、戸惑いながらも、こう切り返した。

 

「いえいえ。別に怪しい者ではありません。ちょいと野暮用でこちらまで来ただけですよ」

「増々、怪しいな。何者だ? 名を名乗れ」

「私は陳端。字を子正と申す者です」

「見た所、漢人じゃねぇか。漢人がこんな所で出歩いているとは、どういう了見だ?」

「野暮用ですので、そんな事を申されましても……」

「じゃあ、野暮用とは何だ? 正直に言え」

「厳顔殿に会いに行く途中です……」

「何ぃ? 厳顔だぁ?」

「はい……」

「よせよせ。何の用事か知らんが、あんな奴の所へ行ってもロクな事はねぇぞ」

「しかし、これが主命でして……」

「主命? 誰のだ?」

「……長沙の司護です」

「おっ!? あの賊太守か!?」

 

 それを聞いて伊達男は大笑いした。

 どうも賊太守と呼ばれている司護に親近感があるらしい。

 

「そうか。あの賊太守が厳顔をなぁ……」

「それで丁度、向かっている最中なのです」

「そうか。賊太守の使いとやらなら強請る訳にもいかねぇ。通っていいぜ」

「有難うございます。……して、貴殿の名は?」

「俺様は甘寧。字を興覇というんだ。後々、賊太守様のご厄介になるかもしれねぇから、その時は頼むぜ」

「……『頼む』と言われましても」

「俺様を断っておいて、厳顔なんぞを引き取るってぇなら、名前倒れってことだから別に構わねぇよ」

「……しかし『後々』とはどういうことで?」

「こっちも野暮用でな。これから弟分の仇討ちでカチコミするんだよ」

「……カチコミって」

「まぁ、俺様はもう少し遊んでいくからよ。その時は頼むぞ。陳端」

「……は、はぁ」

 

 そういうと甘寧という男は数十人の不良としか思えない若者を連れて、何処かへと去っていった。

 陳端は意気揚々と去っていく甘寧を見て「あのような不良を推挙する訳にもいかぬしな」とため息をついた。

 

 それから暫く歩き、長江の川べりにある村へと辿りついた。

 村は他の村と同じように平穏で、特にこれといった特徴はない。

 だが、陳端の故郷である広陵は少し様相が違う。

 黄巾賊が跋扈する汝南はすぐ近くにあり、賊に村が襲われたので、秦松共ども逃げてきたという経緯があった。

 陳端はそれで思わず「平和で良い村だ」と呟いた。

 

 その何もない平和な村に、尹黙を連れて奥へと進んで行くと「えい! おう!」という声が聞こえてきた。

 どうやら武芸の稽古をしているようである。

 その様子を庭の外から窺うと、齢の頃は二十代後半の屈強な若者が槍を扱いて訓練していた。

 

「あの者が厳顔殿だ。如何にもって感じだろ?」

 

 尹黙はそう陳端に耳打ちをした。

 確かに如何にも無骨者らしく、上半身裸で浅黒い肌から汗がほとばしっている。

 

「あの、すみません。厳顔殿でいられるか?」

 

 思わず陳端は声をかけた。

 すると若武者は振り向き様


「如何にも儂が厳顔だ。そこの貴殿は何者ぞ?」


 と返してきたので、陳端も思わず瞬間的に


「私は長沙の司護の配下で陳端という者でございます」


 と素直に言ってしまった。

 

「何? 長沙の司護? あの賊太守か?」

 

 厳顔は手ぬぐいで汗を拭きながら、戸惑った表情を浮かべた。

 わざわざ長沙から配下に自分を訪ねさせてきた理由が、皆目見当もつかないからである。

 

「はい。その賊太守です。あまり名誉な通り名ではないですが……」

「……ふむ。それで、わざわざこんな所まで儂に何用かね?」

「実は厳顔殿に我が陣営に加わって頂きたく……」

「なっ!? 今、なんと言うた!?」

 

 厳顔は呆気にとられた。当然である。

 つい二年ほど前まで、益州の辺鄙な田舎で燻っていた一介の亭長だった自分を「わざわざ招聘しに来た」というのだ。

 しかも何処で聞きつけたか全く不明である。

 

「儂を……しかし、何故?」

「……この私にも良く分かりませぬ」

「……ふざけたことを申すな!」

「それが本当に何と言ったら良いか……」

 

 陳端は返答に困った。

 流石に「夢の中で天女のお告げがあったから」などとは言えない。

 だからといって、嘘を並べても誤魔化しきれる自信もないのだ。

 

「やぁ、厳顔さん。私が貴殿を陳端殿に推挙したんですよ」

 

 咄嗟にここで尹黙が陳端に助け舟を出した。

 困り果てた陳端をジッと見ているのが、少し居た堪れない気持ちになったからだ。

 

「君は確か……尹黙君だったな。何故、儂を推挙なんぞ……しかも賊太守なんぞに」

「嫌だな。厳顔さん。貴方は酒に酔っては、いつも『真っ当な君に仕えたい』と愚痴を溢していたじゃありませんか」

「……それは否定せんが」

「だから私が推挙したんですよ。長沙の司護殿なら問題ないでしょう」

「……しかし、漢室には認められていない賊だぞ?」

「そんな事は後々、認めて貰えば良いだけのことでしょう」

「……宦官に賄賂を贈ってか?」

「まさか!? 天地がひっくり返ってもそんな事はない! そうでしょう? 陳端殿?」

 

 陳端はいきなり尹黙がふってきたので、慌てて頷いた。

 そして、尹黙の援護もあり、陳端は落ち着きを取り戻したので、ここからは自身で説得を試みることにした。

 

「厳顔殿。我が陣営には勇猛な将官が少なく、黄巾やその他の賊を討伐出来ないでおります」

「……ふむ」

「それらの賊を征伐すれば、必ずや漢室は認めて下さるでしょう。それを手伝っては下さいませぬか?」

「……ううむ。確かに司護殿が噂通りの仁君ならば、申し分ない。宜しい! この儂も力になりましょうぞ!」

「おお、有難い! 感謝致します!」

「こちらこそ有難い申し出だ! いや、今日は気分が良い! 大いに飲みましょうぞ!」

 

 陳端と尹黙は厳顔の屋敷の中に案内され、酒と料理に舌鼓をうつことになった。

 折り合いをみて、そこで陳端は張任の話題をすると、厳顔は首を捻り、こう述べだした。

 

「その男であれば、確か賈龍殿の下で働いていた張任ではないかな?」

「おお、ご存じでしたか?」

「うむ。確かにあの張任であれば納得がいく。……しかし、何処で知ったのですかな?」

 

 流石に今度ばかりは尹黙も助け舟が出せない。

 何せ尹黙も知らない人物だからである。

 しかし、陳端は落ち着きを払い、司護が荊南蛮らにも慕われていることを思いついた。

 

「確か武陵蛮か板盾蛮の者だったと思いましたが、そこで噂を聞いたのです」

「……ほう、どんな噂です?」

「はい。賈龍殿の配下に勇猛な者がいる。その者こそが張任ではないか……ただ、それだけですが」

「……ふむ。確かに賈龍殿の配下に板盾蛮の者がいても不思議ではないか……」

「私もあまりにも雲を掴むような話でしたので、困り果てていた所なんですよ。正直なところ……」

 

 そう言って陳端は作り笑いを浮かべた。

 いや、苦笑いといった方が正しいかもしれない。

 兎に角、笑って誤魔化そうとしたことには間違いない。

 

「まぁ、良い。丁度、儂は張任殿に面識はある」

「おお、それは心強い。ですが、賈龍殿のご配下で……」

「いや、それには及ばぬ。張任殿は儂と同じく出奔しましてな」

「……何故、そんなことを?」

「張任殿は貧しい家柄でしてな。その事を郤倹の部下に嗤われて、怒って出奔したんですわ」

「……そうだったのですか」

「張任殿がそのまま部隊長であれば、恐らく郤倹の首も繋がっていたでしょうなぁ……」

「しかも厳顔殿まで去っていては、致し方ないことですしね」

「ハッハッハッ。まぁ、そういうことですな。馬相の肩を持つ訳ではないが、郤倹は自業自得ですわ」

 

 三名はそこで思う存分、飲み明かして朝を迎えた。

 そして、すぐに厳顔は妹夫婦に屋敷を引き渡し、路銀を作った。

 陳端はその行動を見て、慌てて厳顔にこう述べた。

 

「厳顔殿。良いのですか?」

「暫く儂はここに帰ってくるつもりはない。当然だわい」

「いや、しかし……」

「こうなってしまえば、もう後へは引けぬ。一日でも早く司護殿を漢室に認めさせましょうぞ! ワッハッハッ」

「………」

 

 陳端は少し焦りを感じた。

 この者が本当に「夢のお告げ」とやらの人物か自信がないからである。

 しかし、焦ったところでもう後戻りできない。

 厳顔に引率されて、今度は張任の下へ向かうことにした。

 

 張任は同じ巴郡の南にある江州にいるという。

 行商人も通るとはいえ、道は険しく、平地で育った陳端には随分堪える。

 

 しかし、主命とあれば弱音は吐けない。

 最初は「夢のお告げ」という意味不明の主命であったが、最早それは現実のものと確信しつつあったからだ。

 ……いや、そう確信してなければ、気持ちは折れてしまったであろう。

 

 江州へ着き、さらに山中にある張任の家へと向かった。

 しかし、そこで思わぬ物と遭遇したのである。

 虎であった。

 飢えた虎が牙を剥き出して陳端ら三名に襲いかかったのである。

 

「うわっ! 嫌だ! こんなところで死ぬなんて!」

 

 陳端がそんな悲鳴を上げるとひょうっと鋭い音が聞こえた。

 すると虎はどうっと倒れ込み、動かなくなった。

 

「こんな所で何をしている!? 死にたいのか!?」

 

 面をあげると猟師と思える屈強な男が、崖の上から見下ろしていた。

 

「いやぁ! 張任殿! 命拾いしたわい!」

 

 厳顔がそう叫ぶと男は驚き、こう叫んだ。

 

「厳顔殿か!? 何故、貴殿がここにいるんだ!?」

「張任殿を迎えに来たんだ! これから仁君に会いに行こう!」

「仁君だと!? 誰だ!? その者は!?」

「長沙の賊太守殿だ! これから黄巾どもを征伐し、我らで真の仁君に仕立て上げる手伝いをするぞ!」

 

 そう厳顔が叫ぶと張任は大声で笑った。そして

 

「それは面白い! 賊太守なら某を貧乏人呼ばわりしないであろうしな! その話、乗ったぞ!」

 

 そう叫ぶと四メートルほどの崖からするすると降りてきて、陳端らの目の前に現れた。

 陳端は虎を撃ったこの男こそ張任と知り、命を救ったのも含めて礼を尽くした。

 

 その後、魚復県の港へ戻り、鐘離昧や鞏志らと再会をはたし、新たに加えた三名を従えて、陳端は意気揚々と長沙へ戻っていったのである。


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